草原の四季

椎名夕声の短歌ブログ

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書いてないのに見える情景

2013-11-29 15:28:04 | 和歌・短歌

瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり(正岡子規)

(A氏の評)
子規は紫の不思議なものが鮮やかに現前している、その花の姿に驚き、それが言葉になったので、知的判断が入ってくる隙がない優れた作品である。

(A氏の評についてのB氏の意見)
そうとも言えるだろう。だが、当時死の病といわれた脊椎カリエスにかかった子規が、死の床からしみじみと詠った一連の中の1首という背景が密接不可分である。

A氏もB氏も、良いことを言っているが、ふたりとも核心を言っていない。
この歌の作中主体の視線がたたみと平行、つまり作中主体が横たわっていることが描かれているのが偉いのである。言葉では書いてなくても、作中主体の情景が鮮やかに見えてくる歌なのだ。そこが最大のポイント。死の病かどうかに拘らず、横たわっていることからマイナーな雰囲気は伝わる。それは当然のことであり、常識である。(当然または常識が理解できない人に歌を鑑賞する資格はない。)
なお、「みじかければ」の語については、さまざま思い巡らすことは出来ようが、僕は定型詩としての形作りだろうと思う。というのは、短いか長いか基準がないので、確たる意味が判明するとは思えないからだ。余談だが、道路にセンターラインを引くかどうかには明確な基準があり、日夜自動車で混雑する重要な道路でも、一定の幅がなければセンターラインを引くことは許されない。たとえが悪いが、そういう基準があることなら調べ甲斐がある。人の身長が高いか低いかは平均を基準にできるが、花ぶさが長いか短いかは基準がないので、調べても何も判明すべくもない。


ネタ切れの赤塚不二夫苦悶様顔貌描いてまたかと話題に(椎名夕声。短歌人2013年10月号)

こんな話題で友達とやりとりした頃もありました。当時漫画の連載は「毎号たとえば10ページ漫画を描けばよい」という契約だったらしく、赤塚不二夫氏は、ネタ切れで苦悶する自分の顔をページいっぱいに大きく描き、少しずつ表情を変えて10個描いておわりだった。翌号も似たようなもの。ギャグ漫画家にしては珍しく怖い顔だった。
なお、第3~4句は「苦悶する自分を描いて」としたら台無し。断定せずに思いだけを表現するほうがベター。

コメント
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