1千万円あったらみんな友達にくばるその僕のぼろぼろのカーディガン(永井祐)
困った歌だ。全くのトーシロが書いているのならともかく、永井は名門大学の短歌サークルで中心的に活動し、永井の主催するウェブ・サイトには、膝を打つ評論が満載。噂では有名企業に新卒で就職したという。
今様(いまよう)というが、最近の若者の短歌は、こんなのばかりだ。だらだらしている。傘とミシンならぬ、大金とぼろカーディガンか。なんだかな。
流行の表現方法については、しかし、興味深いと思うときもある。
わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる(同)
この、ゆったりとした詠みっぷりには座布団2枚だ。技術的にうまいと思う。
また、古代から続く、述志を内容とした男歌ともいえる。
ただし、問題がある。リアルかどうかわからないね。「ぼろぼろのカーディガン」といい、「地元を撮ったりして暮らしてる」というが、聞いている永井の人生とリンクしてないじゃないか。
貧困やニートと、永井の人生とは違うじゃないか。1首だけなら、筆が滑ったと見過ごせるが、ひとつの歌集に、こうして並べられてしまうと、お前はこんな程度なのかと思う。そういうのはフィクションとは違う。真実が無いところには、善も美も無い。
カーブした小道を登り音階がレンゲの緑に染まるのを聞く(拙作。短歌人2014年9月号)
こういうのをフィクションというんだよ。
(後日記)✱最初に2020年5月24日付け記述を見ること↓
↓これは2014年の記述だろう。
この記事は、2014年歌壇を騒がせた出来事をヒントに書いたものであり、永井さんを例として使ったものだ。ほめるとこがない人は例として使わないので、これはこれだけのものなのだが、理屈で言うなら、フィクションを書くときには匂わせて書かないといけないということ。
俵万智の「七月六日はサラダ記念日」の歌が、初案では「カレー味のからあげ君がおいしいといった記念日六月七日」だったことを、世間から隔絶して生きている僕は今頃知った。2013年夏には話題となっていたようだ。『短歌をよむ』(岩波新書)で俵氏自身が語っているらしい。ネットで見る限り、好意的な意見だらけであり、推敲って大変だねとほめられてさえいる。それなら「歌人」というのはやめたらいいと思う。コピーライターとか作家とか、いいかたはあるじゃないか。僕と同じ意見の人はたくさんいるだろうが、そのほとんどは、そもそも俵万智ブランドを認めていないので、声はあげないだろう。馬鹿なガキのように、叩かれるのを承知で言う僕みたいなのは、ごくごく少数だろう。
ちなみに、からあげがサラダになっただけとか、6月が7月になっただけなら、問題性はないと思う。まるっきり別物になっているのに、洗練されたと誤解していると思います。線引きは難しいけれど、どうしたって制約はある。それは、作者自身の問題だ。
(わからないこと)(1年以上後に)
この記事について、世代対立という観点から云々する記事があったことは、知っていながら知らないふりをしていた。偶然目にしただけで、僕に向けて書かれた記事ではなかったからだ。
最近永井氏と同じ世代の光森裕樹氏のGORANNO-SPONSOR.comというサイトを見たところ、カーディガンの歌が、永井氏の大学卒業の年の終わりに、永井氏により朗読されたことが紹介され、次のように書かれている。
引用はじめ
同じ連作に「大みそかの渋谷のデニーズの席でずっとさわっている1万円」という歌があるので、当人にカーディガンを買い替えるお金がないわけではない。服装に頓着していないだけである。
引用おわり
そういうことなのか、と思うと同時に、ほとんどの人が誤解する歌はいかがなものかとも思う。
この歌集、最近国会図書館の蔵書で読んだのだが、?と思う歌が沢山あった。そのほとんどが、見解の相違と括れるだろうが、これは流石にまずいだろうと思う歌を1首だけあげておく。
休日の平日の山手線で池袋まで真夏の昼寝
「休日の」の直後に点が打ってあれば、休日も平日も昼寝する意味となるが、点がないので判然としない。
月金の祝休日といいたいのかな、と僕のように読んでくれる人ばかりじゃなかろう。
(2017年始めに記す)
2014年に書いたことだけれど、今後は封印される。(自分用メモ:2015MT)
(またさらに後に)
参考:
10年経つと、世間での言葉の使われ方が変化する。地元という言葉を訪問客以外の人に対して使っている若者がいた。恐らく「地元商店街」の拡大解釈だろう。訪問or地元という区別なのだろう。まだ市民権は得ていないが、今後広まる可能性はある。なお、下のコラムでは「住所とは何か」について詳しく述べていないが、大学生の住所が実情を考慮した結果故郷にあると判示した例があり、この曖昧さが「地元」と表現することでより明確化する効用は将来も残るだろう。また、写メールで写真データを送信するのは当時は有料(無料枠を超えた場合)だったが、現在では常に無料の場合があることも参考として記しておく。
http://anguirus1192.seesaa.net/article/436620929.html#trackback
(2018年7月28日)
短歌研究7月号と8月号の「平成じぶん歌」を読んで、なまじ作者の略歴を知ってるとろくなことはないと思った。そのことについては当ブログの2018年6月付けの「幽霊は叱らない」をご覧いただくとして、永井祐が8月号に書いている次の歌に目が止まった。
平成15年
仕事やめると空の青さが深くなるみたいなことを新幹線で
永井は1981年生まれだから平成15年は22歳になった年だ。早生まれなら、単純計算ではこの年に大学卒業だが、浪人や留年を含め翌年以降かもしれない。確かなことは、就業経験の乏しいヒヨっ子が、退職すると箔が付く的なことを考えていたということだ。
つまり、永井における退職は、やむを得ない事情によるものというよりは、経験を積むという意味合いだったようだ、ということだ。
最近ちょっと同情しかけていたのだが、拍子抜け。
と同時に、略歴は無視することに決めた。
(2020年5月24日記す)
写メールの歌について永井本人の言葉が次のとおりなので、この歌を「食いつぶし親元へ逃げ込んだ駄目男」と読んだのは誤読だったことが判明した。
短歌研究2020年6月号から
(前部分略)僕の歌も、初めはすごく素材主義的に読まれました。いまの若者は地元で遊ぶんだみたいな(後略)
前にも書いたが、東京都内のある団地を歩いていた住人に取材班が「地元ですか?」と尋ねたら「違います。僕は九州です」と答えまして、僕の身近な人も同じで、地元=親元・故郷
「現住所付近」を別の言葉に言い換えるなら「在所」が一般的。
(2020年6月11日記す)
ほとんどの人が同じだろうが、グーグルウェブ検索で古い記事なら全部調べてくれてると思ってた。検索結果20万件とかと表示されることが多く、当然全て見ることは無いので、10ページくらい見てギブアップしていた。
ところが、閲覧数が少ないサイトの古い記事をありふれてないキーワードを2個で検索したら、検索結果8件と表示された。そして当然表示されなければならないページが表示されていない。このことによりGoogle検索が全サイトを調べていないことが露見した。Yahooも同様だった。
全くガッカリだ。googleやYahooは新しい記事を即座に表示するのが売りだとは認識していたが、反面あざとい手抜きをしているとは落胆を通り越して裏切られた気持ちだ。
昔はインフォシーク検索やエキサイト検索は全件検索してくれていたと思うが、そういう真面目な検索サイトは人気が無くて潰れてしまった。
探してみたら現代でもダックダックという検索サイト(下記)は真面目にやっている。このサイトはそれなりに民衆に訴求する売りをもっているので生き残るだろう。
(2020年6月13日後日追記)
追記と書いたが、内容としては余談です。
地元という言葉は、短い上に適度に曖昧なので、居住地域を意味して盛んに使われている。
話をする相手が地元と言った場合、どういう意味か判断する上で参考になるコラムがあったので紹介します。
的確で実用的な基準になってますが、以下にポイントを整理しておきます。
(1)まず「子どもの頃長く暮らした地域」と判断してみて、矛盾がなければそれで確定します。
(2)上記(1)でしっくりこなければ「現在住んでいる地域」という意味。
ただし、2018年7月付け追記の直前の「(またさらに後に)」と題した追記に示したように、地元の本来の意味は勢力基盤だったが、時代が移るうちに故郷の意味でも使用されるようになったので、上記(1)で確定した場合であっても、たとえば故郷をふたつ持つ人なら、勢力の及ぶ度合いが強い方を指していることになる。
あと、本来の意味と言ったので、上図中の辞書に「1」として書かれた方の意味にも言及しておく。
辞書で最初に書いてあるのは「そのことに直接関係のある土地」というのは、決まり文句で使われる。上図には「地元の意見を聞く」という決まり文句が例示されているが、ほかには「地主は地元の人間です」といった使われ方がある。