草原の四季

椎名夕声の短歌ブログ

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本能と芸術

2020-06-07 10:16:39 | 和歌・短歌

万葉集巻10歌番号2240
誰そ彼と我をな問ひそ九月の露に濡れつつ君待つ我を

この歌の「君」の現代語訳は「あなた」でも「あの男」でも無くて「あの方」です。
昔は「君≠you」だったんですねえ。
今でも「○○君」という言い方に残ってはいるんですが、実際に使用する場面で目上の人を「○○君」と呼ぶことは一般的ではないので、やはり廃れてしまったと考えざるを得ない。昔は目上にしか使用しませんでしたから。
国会や学校で敬称として使用されていますが、あくまでも同列の場合に限定されてますから、生徒が先生に「○○君」と言うことはありません。

しかも、一部においてこの呼び方が目下に対するものであると理解されてしまっている。

田舎では呼び捨てをすることが多く、その方が言われた側はスッキリするようですが、言う側に知識があると罪悪感がある。昔の使い方が廃れただけならいいのですが、今でも国会や学校だけじゃなく、報道機関においても呼び捨ては相手の人権侵害であるという共通認識がある。
困った問題です。

それなら「○○さん」でいいだろう、という方向に世の中は向かっているのでしょう。

もちろんそれでも良いのですが、明治時代の先人が士農工商の身分を超えて平等な呼び方として「○○くん」というのを発明したのに、悪貨は良貨を駆逐する結果になるのです。

 

そもそも本能に基づくものは完全に無くすことは不可能であって、ただ縮小することだけが正しい未来図のはずです。

どっちの人が上だの下だのというのは、自分の遺伝子を残そうという本能に関係しているから、周囲から「○○さま」と呼ばれれば満足することになりますが、理論的には平等を捨てたことになります。

「○○さん」は「○○さま」とは一応違うから、まあいいですが…

 

ギャンブルでスッテンテンの漫画家が千九百円の靴。壊れてる(椎名夕声。短歌人2020年3月号)

 

芸術家にギャンブル好きが多いのも本能に関係がありますね。

長くギャンブルをしていると経験しますが、あっけなく勝ってしまった時には意外に楽しくない。ド壷にはまりかけて冷や汗をかいた後に勝つと一挙に特有の脳内物質が放出されて楽しくなる。ギャンブルの本質は危険である、ということです。

一度楽しさを経験すると、危険を顧みない行動をためらうことなく実行できるようになる。その事が、芸術における意外性という果実に結実することとなる。

コメント
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