乳ふさをろくでなしにもふふませて桜終はらす雨を見てゐる(辰巳泰子)
この歌は、間違いなく名作なのに、世間の評価は中途半端な感じがある。その理由の1番は、他の作品の出来が悪いことにある。玉石混淆ということである。2番目の理由は、通俗臭である。それは、試しに冒頭に主語(たとえば「泰子は」)を入れて読んで見ると、ドラマのナレーションのような感じに読めてしまうことでもわかる。
作品の出来の良し悪しとしては、しかし見事であると言えよう。桜は、実際に見ているのかもしれないし、空想しているのかもしれないが、あざやかな景色となって、作中主体の虚無観を表現できている。濡場の相手を「ろくでなし」の1語で表現している手腕も、なかなかのものと言えよう。
ところで、作品中「も」の意味するところについてだが、合理的に考えれば「子以外の」ということで確定だ。おととし、当ブログで、作者がとんでもない表現をしたことが原因で、ずれた批判をしたという苦い経験があるので、きちんとおさえておく。1首の文脈から、他の選択肢は消え、子で確定となるのは明らかであるし、現実の辰巳氏にも子がいるそうである。
わずか1音の「も」が、この作品に奥行きを与えている。
最後に、もつながりの拙歌。
明治期の日本人がいやらしく愛想笑いし吾もまたする(椎名夕声)
この歌は、間違いなく名作なのに、世間の評価は中途半端な感じがある。その理由の1番は、他の作品の出来が悪いことにある。玉石混淆ということである。2番目の理由は、通俗臭である。それは、試しに冒頭に主語(たとえば「泰子は」)を入れて読んで見ると、ドラマのナレーションのような感じに読めてしまうことでもわかる。
作品の出来の良し悪しとしては、しかし見事であると言えよう。桜は、実際に見ているのかもしれないし、空想しているのかもしれないが、あざやかな景色となって、作中主体の虚無観を表現できている。濡場の相手を「ろくでなし」の1語で表現している手腕も、なかなかのものと言えよう。
ところで、作品中「も」の意味するところについてだが、合理的に考えれば「子以外の」ということで確定だ。おととし、当ブログで、作者がとんでもない表現をしたことが原因で、ずれた批判をしたという苦い経験があるので、きちんとおさえておく。1首の文脈から、他の選択肢は消え、子で確定となるのは明らかであるし、現実の辰巳氏にも子がいるそうである。
わずか1音の「も」が、この作品に奥行きを与えている。
最後に、もつながりの拙歌。
明治期の日本人がいやらしく愛想笑いし吾もまたする(椎名夕声)