草原の四季

椎名夕声の短歌ブログ

HPはhttps://shiinayuusei-1.jimdosite.com/

万葉大誤読

2015-12-09 15:03:43 | 和歌・短歌

1冊6千円もする本だが、どうも納得いかないのである。

旧国歌大観番号1424万葉集巻第8の山部赤人の歌

春の野にすみれ摘みにと来し我そ野をなつかしみ一夜寝にける

ある本の訳は、次のとおり。

春の野にすみれを摘もうとやって来た私は、野があまりにも親しみ深く感じられ♡て♥、♡つい♥一夜寝て♡しまった♥ことだ。

スマホのシステムに傍線の機能がないようなので、♡から♥まで傍線を引いたものとして読んでください。僕の訳では、傍線部分削除。つい、何何してしまった、なんてどこから持ってきたのだろうか。また、訳の「て」は、原因と結果の関係性を意味しているが、懐かしむことと寝ることとは、そのような直列の関係ではなく、むしろ並列の関係だと思う。昼間に見た野の風景を眼裏に思い起こしながら心地よい眠りを眠ったという解釈でよいと思います。言外に、宿泊したという意味があるということまで否定するつもりはないが、懐かしんだから家へ帰らなかったという、そんなもんではなかろう。

ただし、これは山部赤人が「懐かしむ」という動詞を使用したものと仮定した場合にしか成立しない解釈です。万葉集の時代には、「なつく」という動詞が「なつかし」という形容詞に変化した語は使用されていたが、それがさらに動詞化されてはいなかったようだ。
したがって、学問的には、6千円の本が正しく、僕の解釈は正しくないのだが、山部赤人が上記全てを含んだニュアンスで詠んだという可能性もあるのではないか。第一、僕の解釈のほうが、この歌の壮大さが、わかるというものだ。
なお、この本には明らかな誤り(勘違い又は誤植)の箇所が何箇所かあるが、話題性がないのでここでは触れない。

歌における文法というのは、文法に従って解釈しても差し支えはないが、本当の歌意は、1首の流れから読み取るべきではないか。

店員の片手にスッポリ。ポーズ決めペット住民票のたれ耳(短歌人2015年6月号。椎名夕声)

ペット住民票って、どんなものだろう。普通、そこでつまずくだろう。市役所で交付される住民票は、紙に住所、氏名、生年月日が書かれているだけだ。

来月から、マイナンバーの使用が始まる。本人の顔写真がついたカードが住民票の役割を果たすようになる。この歌の材料になったペット住民票とは、そのカードのようなものだ。一般的に、人間用のものより、ペット用のもののほうが先進的である。決まり事に縛られないので、自由度が高い。

ペットショップでは、売買が成立すると、翌日までにシャンプーし、ポーズの決まった写真を撮影する。まだ仔犬だから、片手に胴体がスッポリおさまって可愛らしい。

(後日記)
上記の高価な本は、実はつっこみどころが多くて、いろんなとこにメモしておいたが、一例を紹介しておく。

泊瀬川夕渡り来て吾妹子が家の金門に近づきにけり(巻9No.1775)

「が」は、現代文では「の」。金門とはどんな門であるか説明が書いてあるが、原文(西本願寺本)を見ると、単に「門」。金門に化けた理由はどこにも書いてない。

斉藤茂吉は「門(かなど)」と訓み、「単に『門』という意味に使っている」と説明している。意味は金門ではないが、適切な読み方が思い浮かばないので「かなど」としておくという趣旨のようである。一見矛盾しているようだが、それが当面最上の方法かとも思う。

また、あるところ(巻8No.1565)には「ほとほと散らしつるかも」の現代語訳として「ほとんど散らしてしまうところだった」と書いてあるが、「ほとほと」には「ほとんど、だいたい」という意味と「もう少しで、危うく」という意味と、ふたつの意味があるので、一見すると前者の意味に解釈していると理解される。ただし、「ほとんど~してしまう」という現代文には「危うく~してしまう」と解釈する若干の余地があるので、やや曖昧である。

一方、注としては「ほとほとーほとんど(危うく)・・・しそうだ、の意。」と書いてあり、括弧書きの用法として、意味を追加するケースと、直前の語句の言い換えのケースとふたつあり、通常は文脈により選択可能だが、この場合は注であるから言い換え、もしくは説明と理解するのが自然だろうとは思う。注のあとには広いスペースがあるので、もう少し丁寧に書くことも可能なのに、ぶっきらぼうだ。

辞書で「ほとほと」の用例を見ると、「ほとんど、だいたい」という意味で使用しているケースでは数量が多い事物について言っており「危うく」が入る余地はないし、「危うく」という意味で使用しているケースでは数量が1個の事物について言っており「ほとんど、だいたい」が入る余地はない。

結局のところ、訳注者が何を言っているのかわからない。(70%の確率で「危うく」と言っているだろうとは思うが、それが正しい解釈であるかと言えば疑問に思う)

 

次の例。巻20No.4440は上総国の役人今城が、8月まで1年間についての書類を都へ届けに向かう際の送別の宴の歌。この使者を朝集使という。この歌の注で朝集使の説明として、No.4116を参照すべき旨の言葉に続け、次のように書いてある。

        十一月一日が提出期限ゆえ、今城は提出後

        半年以上、都に滞在していたことになる。

宴の時期や今城の上京時期については一切書いてない。4439と4441歌を見ても「半年以上」の根拠はない。4439歌は「今城」という記述が初めて登場した歌である。巻4No.519に今城王の名が見られるが、大伴女郎が今城王の母であるとの記述のみであり、今城王が上記今城と同一人物という確証はないと書いてある。この4439歌の注を見ると、今城が朝集使として在京中に伝えて誦詠したと書かれているが、時期を特定した根拠は書いてない。万葉集巻20が大伴家持の歌日記であるから、今城と家持の接点として顔をあわせた時期という意味で推定したもの。一方、4116歌は749年に越中国の役人久米広縄が朝集使の任務を終えて帰任した際の歌だが、748年に上京し、翌年5月27日帰任と明記されている。半年以上は久米広縄であって今城ではない。

なお、No.4442歌は755年5月9日都における宴で今城が詠んだ歌であり、注には上総国へ戻る今城の送別の宴と書いてあるが、問題の4440歌との関係は全く書かれていない。仮に両者が一連のものであることが通説であるのなら、その旨書くべきだろう。ただし、Wikipediaを見ると今城がこの任を果たした時期は755年頃と書いてあるので、異論もあるのかもしれないが、異論の内容が、この上京の時期が755年である可能性と754年である可能性と両方有り得るというものであれば、これら2首が同じ時期であることは通説と解釈できるが、その場合「半年以上」は通説ではないとの帰結になるだろう。

著者の癖として、例えば大伴池主が登場した巻8No.1590歌の注では「獄死(拷問死)したか。」と断定を避けるが、巻20No.4506歌の注では「同行した大伴池主は、奈良麻呂の変に連座して獄死。」と断定しているごとく、その人物登場時の歌の注から検証する必要があるが、問題の4440歌に関しては説明が親切じゃないというレベルを超えて、当然あるべき説明が抜け落ちている。注が書かれた場所には十分な余白があるのに。

ちなみに、提出期限を過ぎて提出した例として、巻20No.4472では11月8日に出雲国の役人が朝集使として都へ向かう際の宴が催されたことが書かれているが、さらに遅い例も集中にあると記憶している。雪国のことだから何か月も遅れることは想定される。

この問題は、案外単純なもので、今城の上京は755年と見ることが可能で、従って半年以上都に滞在していたという多田一臣氏の見立ては当たっていないように思う。

少し遡りNo.4321~4436は、家持が防人交代業務に直接従事した関係歌である。No.4436~4439は今城が伝え詠んだ歌であり年月は示されていない。No.4436は防人関係歌でもあり、今城関係歌でもある。防人関係歌から今城関係歌へ、なだらかに移行していることが明確である。防人関係歌で、時期が示されている歌で最も後の時期のものは、No.4433歌であり、755年3月の宴であることから家持自身の防人交替業務が一段落した頃のもの。そして、次に年月が記載されているのはNo.4442の「5月9日に」(年が示されていない。注には755年と書いてある)であるから、直前の今城上京の歌は755年と見るのが自然である。年を書かず月日のみ書くのは同じ年、というのはこの巻では普通のことである。月日が書かれていない場合でも、前後の関係から同じ年と推定するのが自然である。「755年頃」という解釈が妥当であり、「755年または754年」は許容されるが「754年頃」は許容されない。

ゆえに、上記で「次のよう」として示した文の末尾は許容されない。せめて「半年以上、都に滞在していたことになるだろう。」とすべきである。繰り返すが、余白は十分空いている。

あと、何を言わんとしているのか、何を考えているのか不明な例として巻19No.4157の結句の訓は「我かへり見む」で、現代語訳は「私たちは繰り返し見よう」 となっている部分の注が「「我」は、原文「吾等」。複数を示す。」となっているところ。

訓を原文のままにし「吾等(あら)かへり見む」とするか、「我等(われら)かへり見む」が妥当と思われるが、なぜ単数形の文言にするのか?

色々調べてみたが、「我」の語源が自分と他人とをノコギリで切り離すところにあるということしか出てこない。「我」は決して複数を意味する語ではない。

巻3歌番号454の結句「吾乎召麻之乎」を「我(わ)を召さましを」と訓んでいることを見ても、また巻4歌番号526の結句「吾恋者」を「我(あ)が恋ふらくは」と訓んでいることを見ても、著者が「我」の字を好んでいることは想像できるが、要するに昔の人の訓みに従ったということだろうが、そうであるとしても「われかへり見む」とすべきであろう。

更に、巻19歌番号4252の結句「旅別るどち」の注として、次のように書いている。

 

「別るる」とあるべきところ。終止形で直に下接。

 

これでは、まるで原文がwakaruとなっているかのごとしだが、原文は「別」の一文字であり、これはwakareともwakaruruとも読み得る。

追って、ここまで言って本文で「著者の勘違い」と断定した内容に触れないのも、かえって気持ち悪い後味になるので書いておくが、著者は巻第6歌番号983の下注等において、稜線を山と空の境界と言っているが、山と空の境界は見る位置に応じて変わるのに対し、稜線は山の地形から絶対的基準により決定しており、見る位置が変わっても変化しないのである。なお、稜線の英訳はRidgelineであってskylineではない。

また、藤原朝臣久須麻呂の説明において「父仲麻呂の謀反に連座、射殺

」とあるが、Wikipediaでは「764年9月11日以後久須麻呂の手勢と坂田苅田麻呂たちの軍勢が交戦し、久須麻呂は射殺された」と書いてあり、また、その後9月18日以後まで戦いが続いたとも書いてあるのと矛盾している。どちらが正しいかは知らないが、多分著者の説明が誤りであろう。

また、巻第6歌番号917中「雑賀野ゆ 背向に見ゆる 沖つ島」の現代語訳が「雑賀野から向き合って見える沖つ島」となっており、下注にも「向き合う」と書いてあるが、これは「うしろの方向」が正しく、別人の本ではそのようになっている。

また、同じ巻第6歌番号919の下注で、若の浦を説明して「旧和歌浦」と書いてあるが、現在でも行政町名として「和歌浦東1丁目」等が存在する。1933年まで自治体名が「和歌浦町」だったことを書こうとして「町」が脱落したのだろう。

 

巻9歌番号1731では「石田の社」の「社」に「もり」とフリガナを付してあるが、色々調べても根拠がわからない。杜と混同していないか?

(また別の日に記す)
ネットを見てたら、目からウロコの記事があった。」」」」
匿名コラムとなっているが、僕の現代語訳と大意は同じだった。
以下に抜粋の写真をアップしておく。

 

 

 

(5周年に際して)
5周年に際し、過去の記事を見直ししたら、追記したほうが良いと気づいた。
匿名コラムの記事についてだ。

万葉集の時代に「野を懐かしむ」と言う場合には、「昔を懐かしむ」という意味は無いというのが定説で、僕もその点には異議なし。

なお、万葉集の時代に「懐かしむ」が動詞的に使われていたとする椎名説は、誰か研究してみてください。僕は、そういうことには興味がないので。あくまでも短歌創作の実践上のことにしか興味がない。

 

(2018年初めに)

「懐かしみ思ひ」の「思ひ」が省略されていると解釈すれば、全て解決するのだが、学問的にどうなんだろう。

柿本人麻呂の歌に「懐かしみ思ふ」という例(巻7No.1305)があったので、ふと思った。

あと、次のようなこともあるので、研究する価値はありそうだ。

 

「コチタシ」は、万葉集の時代には、人のうわさが多くてわずらわしい意味で使用され、平安時代以後に新たに、仰々しいという意味で使用されるようになったが、万葉集巻10No.2322歌においては、原文が「言多毛」とあり、あきらかに毛髪の多さを意識した用字であることから「仰々しく空が曇って」との現代語訳になっている。

 

(2018年も残すところひと月となった頃に)

この本で原文を読み下す際に誤ったと思われる箇所を見つけた。これについては、後日稿を改める。

さて、形容詞の動詞化の件だが、巻17歌番号3984に「乏しみし」という語があり、形容詞のミ語法が動詞化したものとの説明がなされている。

また、同じ巻17歌番号4009では「なつかしみす」は「なつかしむ」の再活用形であると説明されている。

山部赤人の「懐かしみ」は形容詞のミ語法と解されているが、上記と同様に形容詞が動詞化した姿と見ることは、本当に不可能なのだろうか?

さらに、巻19歌番号4201の注において、冒頭の歌を類想歌として記しているが、「咲ける藤見て一夜経ぬべし」が類想歌というのであれば、当然夜のあいだも花を思う状況と解釈され、単に花を思うことなく宿泊したとは解釈しづらい。著者の頭にも、単なる原因と結果の関係にとどまらず、「懐かしむ」と「一夜寝る」が同時進行であるとの認識があるという証拠と言ったら、いささか我田引水だろうか。

「懐かしみ」が形容詞(ミ語法)であるとしても、意味の上でこれに続く動詞に連続していたと解釈するのであれば、現代語訳もそのように表現すべきだろうが。

 

(2019年1月21日記す)

長い期間学問的疑問ということで書いてきたが、学問にこだわることに意味があるのか疑問になった。

斉藤茂吉の「万葉秀歌」を見たからだが、茂吉はスミレの歌について、次のように書いている。

 

 

    赤人の歌だから(中略)、「野をなつかしみ」といっても、余り強く響かず

 

これで解決ですね。

学問では、どうしても文法や古代の用例に拘束されてしまう。定義やら類例で説明するのが学問だから、同じ用語を使用しても作者によって強弱の差がある、などという説明では説明と認めてくれないに違いない。

しかし、茂吉が思ったことは、同じように短歌作者である僕には理解できる。短歌作者にとって、個性以上に重要なことは滅多に無いからだ。同じテーマや情景を複数の作者が作品化した場合、個性だけが作品の価値を決定する。

改めてスミレの歌における「野をなつかしみ」という読み下しについて説明すると、形容詞のミ語法ということだから原因をあらわしていると学問的には説明されるが、山部赤人の個性により文法による解釈の拘束が弱まっているので、現代語訳としては「野を懐かしみ」とするのが妥当である。

 

(2019年7月7日記す)

いまさらでどうでもいいが、京都大学学術情報リポジトリに蔦清行博士「形容詞の活用をめぐる問題」(2007.3.23)という論文をみつけた。

結論だけ書くなら、「ミ」がほとんどのケースで「原因・理由」の意味になるのは平安時代以後であり、万葉集の時代には「主観的判断」や「客観的形容」の意味で使われているケースがある。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする