草原の四季

椎名夕声の短歌ブログ

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動機は変化する

2018-08-15 07:00:16 | 和歌・短歌

最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも(斎藤茂吉)

最近何百年間に誕生した短歌で最高峰と目されている短歌で、作成されたのは昭和21年2月下旬もしくはそのしばらく後と伝えられている。
逆白波という語は、それまで誰も使ったことがないもので、最上川が北流するのに対して逆方向から北風が吹き付けて逆波が立った風景の描写である。
さすがに天才だから造語も決まっているものだと思っていたが、弟子が発明した語を横取りしたという疑惑があるらしい。横取りだったらどうなんだ、という問題を考えてみた。


話替って、次の例はどうだろう。
崖っぷちを歩いてた人Aバランス崩す→近くにいた知人Bが掴もうと手を伸ばしたらAが伸ばした手とぶつかり転落死→実はAはバランスを回復したのに、Bが余計なことをしたものである。
この場合、Bに殺す動機が認められたら第1級殺人罪に問われ冤罪となる。その瞬間の動機を判断することが生命線となるが、被疑者B以外の人間にはわからないことである。
先程殺人の動機があったと書いたが、実はAが末期癌であることをBが知っていたとすると、矛盾する心理状態とも言えるが、思わず救おうとした可能性はある。

これに対して逆白波の横取りは、わずか6音の小さなパーツなのに、この新発明に大きな賞賛が寄せられるため、作品について一瞬判断保留せざるを得ない。

斎藤茂吉は第二次世界大戦における戦争協力歌が非難されており、そういう背景を前提とした内省の歌が戦後の氏の特徴となっている。
逆波の風景は、読者にとって単なる風景に留まらない。また、世間一般の者が中高年になることにより抱く寂しい思いすら超えた、内省の象徴としての意味を持っている。これは発明者である弟子には無いものである。ゆえに、新造語の横取りであろうがなかろうが、やはりこの歌は賞賛に値する。
横取りというマイナスのイメージに囚われず、理詰めで判断すべきということだ。

かつて4大証券会社のひとつの山一證券が破綻し、取付け騒ぎの行列が道路につながったとき、残りの大証券の営業マンが挙って行列に群がり顧客獲得に励んだ際に「火事場泥棒みたいなことをしやがって」と不快感を表した人がいたが、山一證券は何ら不利益を被っていないのだから火事場泥棒みたいというのは当たってない。不快だという感情は気の毒ではあるが、アンフェアな競争ということにも該当しないし、山一證券を煩わせることも無かったようだから、むしろ不快感の表明は他社からしたらイチャモンの類いと看做される可能性がある。

次の例はどうだろう。

メルルーサ珍しいねと給食に笑いし頃君不登校なると(椎名夕声  短歌人2018年8月号)

かつてネット上で有名歌人を一緒に攻撃していた某が、小学生の頃一時的に不登校だったことをカミングアウトした。それに触発されて作った歌で、友情の確認といったところだ。
ひねくれた人が読むと、作者が自分だけ楽しんでいる歌であるというふうに、ひねくれた解釈も有り得るだろう。
先程の崖っぷちの例における被疑者と同じく、動機は作者にしかわからないことだ。
ただし、作者の感情も永遠不変であるという保証はないので、あくまでもその時点での感情である。


コメント
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