草原の四季

椎名夕声の短歌ブログ

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まんまの歌

2013-08-01 17:34:55 | 和歌・短歌

雨負ひて暗道帰る宮肇君絵を提げ退職の金を握りて(宮柊二)


まんま(誰が何をしたというようなことを、そのまんま)の歌だ、ある意味。半数ほどの人が経験するような平凡な内容であり、しかもそれらの人にとっても特には興味が湧かない内容を詠んでいる。なのにドラマティックだ、ある意味。
「ある意味」を重ねたのには意図がある。どのように説明しても、通じない人種もいると思うので、単に「皆さん、そうではありませんか」と言うと馬鹿をみるのだ。
続けます。

連作全体を読むと、雨はどしゃ降りが長い時間続き、風も吹いていることがわかる。絵は同僚から餞別として贈られた一流画家(二流?)の描いたものだ。暗いのは道だけでなく、心もだ。弟が医院開業資金の調達に難渋しているので、退職金は全額与えようかとも詠んでいるが、一族郎党にとって極めて重要な金である。
作歌技術のうえで肝なのは「金を握り」だろう。そのときスーツを着用していることは疑いようもないので、字義どおり手のひらで握り持っているはずはない。あくまで比喩だ。
個人的な金銭のことを詠むのは恥ずかしいことだ。卑俗である。それでも、必死に持ち帰らなければならない重要なものである。その屈折が「宮肇君」という茶化した表現に現れている。(肇は本名である)

短歌は短いので、1首だけ読んでも意味が理解しづらい場合がある。作者の側で連作という方法で補足する場合もあるが、読者の側も想像力を働かせ、場合によっては学問的に調べてみたりする努力が求められる。


社会には役に立たない決心を静かにしけり二十二歳の春(椎名夕声。短歌人2013年6月号)




(後日追記)
 ネットでぐぐると、たいていのことは調べられる時代だが、調べられる内容は1995年以後スタンダードとなったことだけだ。それがネットの限界である。1995年以後は、対人関係が築けない人が多く見られるようになった。だから、今ネットをぐぐると「対人」という概念は「対社会」と極北とは捉えられておらず、むしろ類概念とされているようだ。僕が職業適性テストを受けた頃には、「対人奉仕心」と「対社会奉仕心」とは、正反対と理解されていた。

 

(さらに後日記)

新潟県魚沼市のサイトにわかりやすい年譜があった。退職は41歳のときだが、すでに糖尿病だったことがわかる。

 

(2025年に記す)

僕のこの短歌が引用されていたのを発見

 

https://jh3pig.shiga-saku.net/e1692551.html

 

コメント
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