叶わない夢の話しと思いしがハッピーエンドのオズの魔術師(椎名夕声 短歌人2019年6月号)
歌壇11月号で、大御所の作品をそれと知らず酷評した人の逸話が紹介され、ツイッターでちょっとした話題になっているのを目にした。
高野公彦の「<人の読み>に耳を傾ける」という文章のことで、あいにく大御所宮柊二のその作品は紹介されていないので「そういうことは有る有る」と話題になっただけだが、酷評した人の判断誤りの可能性が高いのではないか?
高野の文を一部次のとおり引用させていただく。
宮柊二の言葉で今でも印象に残っているのは、「この歌は、人情の世界をうたっている。人情をうたった作品は分かりやすくて共感を得ることが多いが、それは本当の〈優れた歌〉ではない」という発言である。たぶん真の優れた歌とは、人情でなく詩情をうたったもの、あるいは思想をうたったもの−と言いたかったのではなかろうか。
柊二自身も時々(コスモスの東京歌会に)歌を出した。だが高点数になったことはない。地味な歌を出し、いつも低い点数だった。
上記引用中かっこ書きは椎名が加えた。
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寺山修司と岸上大作との政治に対する確執については以前書いたが、wikipediaの「寺山修司」を見たら、意外なことが紹介されていた。
岸上の没後に編纂された「岸上大作全集」に、寺山が寄せた「虚無なき死、死なき虚無」と題した文章で「私は、リングの中央にダウンしている鼻血まみれのみにくい敗者への一瞥のような眼できみの全歌をよみかえしている。実際のところーいい歌などただの一首もないではないか。」と書いたとのこと。
これは一時的に感情にまかせて書いてしまったというのとは違う。全集の原稿提出から製本まではそうとう長い期間がかかるので、十分クールダウンしても意見が変わらなかったことになる。
あの巨星寺山でも、正しい評価はできなかったのである。
創作で名を成した人が書いた評を有難がって聞くことに、そもそも無理がある。評論のプロではないのに。
なお、合議制で評をしたらどうかという意見には、僕は否定的。責任があいまいになるだけ。
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話しは替わる。
ある場所で「継続は力なれ」と書いている人がいた。その文章に明白に示されている「努力し継続しているのだから今後良いことがあると期待している」という気持ちがこの言葉に示されていることはわかるが、通常目にする「継続は力なり」と比べて違和感が大きかったので古語辞典を調べたらふたつの問題点が浮かび上がった。
まず、「なり」が断定なのか、推定なのかの問題。
これらは語源が別なのだ。
断定の「なり」の語源は「に+あり」で、推定の「なり」の語源は「音(ね・な)+あり」
2番目の問題は1番目の問題と関係しているが、「なれ」が已然形か命令形かの問題。
結論から先に言うと、この人は命令形として考えているだろう。
「継続こそ力なれ」という已然形での係り結びなら「強調」の意味になるが、この人は期待や祈りを表明しているのだから、命令形しかない。(強調で「こそ」が省略される用法が例外的にあることは過去の記事でくり返し述べたが、それとは違う。)
すると、文法的には断定の「なり」ということになる。
推定の「なり」には命令形は無いのだ。
しかも、強調の意味なら「継続こそ力なり」で十分であり、ここで係り結びを使うのは無駄に空騒ぎになる。
結論だが、この人が言いたいことは伝わるが、「金太郎よ、お前は力持ちなれ」なら意味がスーと通るけど、「継続は力なれ」で命令・期待・祈りは語法的に無理がある。
「継続」という抽象的な概念に対して「力であれ」と命令するのかよ、とツッコミが入ることになる。
強調の意味でならギリ通用可能な「継続は力なれ」に、祈りの意味を与えてしまったために混乱が発生しているのである。
こういう言葉の使い方に対して強く違和感を感じるのがプロというものだ。
(後日記)
寺山修司と岸上大作の件だが、以前「長男」という題の記事で、ふたりの共通点を並べ立てたことを、今となって反省している。
僕も世間と同じ過ちをしてしまった。
表面を見ても本質は明らかではない。
岸上大作は貧しさと戦っていたが、寺山修司は19歳で運良く長期入院になったので生活保護を受けたため、貧しさと格闘していない。
生活保護制度は、その5年前にできたばかりである。
ふたりとも貧しかった、と書いたことは間違いではないが真実では無いということである。