使命感と覚悟を崩す様な状況
月・火曜は学校教育話。今回は学校教育の問題点などを、私なりの視点で分析し、私なりの意見を述べるシリーズの第4弾です。
ここ2回くらい、教員の仕事はブラックとホワイトの狭間にある…って話をしました。その中で、「突き詰めて考えると、教員の仕事は日本と言う国の未来を築く事が目的であり、そこに一歩でも二歩でも近付けようと言う使命感と覚悟がなければ、教員の仕事のホワイトな部分は感じられないだろう」と、私なりに結論づけました。
しかし今、この使命感と覚悟を崩す様な状況が発生しています。それを端的に述べているのが、第2弾の記事「ブラックとホワイトの狭間」でnote仲間からいただいたコメントです。以下、全文紹介します(ただし、記号は省略し、行間も詰めてあります。また、列挙部分は見やすくするため、1文字下げました)。
こんにちは
学校で働いた経験は無いですけど、良い印象はありません
理由はいつか書いた通り、
・なんか、世間知らずというレッテルを貼られてる。
・もはや生徒の方が強い。
・だけど、教育的指導をしなきゃいけない。
・教育的指導の結果、パワハラと騒がれる。
・生徒や保護者の方が強いのに、何故か教員の方が強いと誤解してる人がいる。
・つまり、カスハラは問題視されないけど、権力が無いのにパワハラと騒がれる。
記事から読み取れるホワイトの部分も、果たして評価されるんでしょうか?
私だけ塾講師の時、授業評価はかなり高かったけど、上からの評価は低かったです
こういうことを言ったらダサいけど、年齢や外見とか、能力以外の点で低評価スタートになることが少なくないのかな? とか、思ってます。
しかし…。
ある種、手に職つけたような状態なので、これ意外に生きる道が無い
なんか愚痴みたいになりましたけど、教職はブラックで、これから志願者は減少の一途を辿る気がしてます
このコメント中の列挙部分、本当に、その通りだと感じます。そして、こう言った流れの結果、教員は数多くの「攻撃」(コメントの言葉で言えば、「カスハラ」とか。パワハラと騒がれる」とかです)を受ける事になります。やがて、それらが教員の使命感と覚悟を少しずつ削っていき、最終的には崩してしまう…少々悲観的ですが、そんな風に私は考えています。
もっとも、私が教師になった頃から、そんな状況だった訳ではありません。私が教師になてから少しずつ変わっていき、現在は「激変」と言ってイイくらい変わってしまった…そんな印象です。
いつから激変したのか?
昔々の半世紀くらい前、私が小学生の頃の教員は「絶対的な存在」でした。うっかり、「学校で先生に叱られたさ~」なんて言おうものなら、「そりゃ、お前が悪いからだろ!」と家でも叱られる事、もう間違いなしです。私なんて、学校まで引きずって行かれて、職員室で謝らせられた事もありました。
これがイイと言うつもりはありませんが、とても羨ましくは感じます。
私が教員になった30年前は、教員を「絶対的な存在」と考える方は少数派でしたが、それでも「先生を支えよう」と言う意識は、まだまだ保護者の中にも残っていました。だから、教員が行った指導に対して、全否定から入る保護者はいませんでしたし、もっと言えば、若い教員を育てようと言う意識の保護者は、かなりの数いたものです。
私の話で言えば、教師になって6~7年目くらいまでは、もう信じられないくらい、トンチキな失敗ばかりしていましたが、その事で保護者からクレームの入る事はありませんでした。あんな失敗、今やったら、校長室に怒鳴り込んでくる保護者が何人もいるでしょう。実際、「先生は若いから、私たちが育てていかないとね」と、保護者から言われた事もあります。
しかし、今や、それは過去の物語です。
その原因は、社会全体に「心の余裕」が無くなってきたからではないか…と私は考えています。「先生は若いから、私たちが育てていかないとね」なんて言葉、鷹揚に構えていられるだけの、かなり心の余裕のある方でないと言えないでしょう。
では、何故「心の余裕」が無くなってきたのか。これについて私は、大きく2つあると仮説を立てています。
1つ目は、「自分が損をする事を極端に忌避する様になってきた」です。ここで言う「損をする」は、「嘲笑される」とか「馬鹿にされる」も含みます。少しでも自分が損をする事を忌避する為に、鷹揚に構える事は出来なくなったのではないでしょうか。
これは、私の感覚的には「勝ち組・負け組」と言う言葉が広まった辺りから、その傾向が強まった様に感じています。もっとも、その源流は更に少し前からかもしれません。お笑い番組やバラエティ番組などで、真面目に何かへ取り組む姿を馬鹿にする傾向が強くなってきて、その先にコレが来た印象です。
2つ目は、「社会全体が正しさを求める様になってきた」です。「真面目に頑張っている人を馬鹿にしてはいけない」とか、「悪い事をした人が得をする社会はいけない」とか…そう言った正しさが、求められる様な社会になってきたって事です。もちろん、正しさを求める事は間違っていませんし、正しさの追求によって幸せがもたらされた部分もあります。
ただ同時に、ギスギスした社会を生み出したとも感じています。特に、個人の考える正義と、その人が損をする事への忌避が結びつくと、一気に問題が先鋭化します。最近、問題になっているカスタマーハラスメントなども、そう言う側面があるのではないかと考えています。
流れを変える事は困難
この、「社会全体に『心の余裕』が無くなってきた」と言う状況は、直ぐには改善されないでしょう。「自分が損をする事を極端に忌避する様になってきた」と言う傾向も、「社会全体が正しさを求める様になってきた」と言う傾向も、大きく変わる感じがしないからです。
そうであるならば、教師を取り巻く環境の激変が、良い方向に改善される可能性は低いと考えられます。当然、教員は数多くの「攻撃」を受ける事も変わりませんし、教員の使命感と覚悟が少しずつ削られていき、最終的には崩されてしまう状況も、改善される可能性は低いと考えるべきでしょう。
では、どうするか?
私が考えている事は2つあります。
1つは、より個人の使命感と覚悟を高め、鍛え、磨き上げると言う事です。それにより、削られて摩耗し切る事を防ぐ事が出来るだろう…と考えているからです。その為に、様々な学びの場に出ていき、技術的な面も人間的な面も共に鍛えていく必要があります。
もう1つは、頼りになる仲間を得る事です。自分一人では耐えられない事でも、仲間がいて少しでも支えてくれれば、案外、耐えられる事も多いものです。その為に、学校現場での人間関係を大事にしたい…ところですが、「ドブ泥げす校長」の例もある様に難しい事もあります。ですから、学校現場以外でも人間関係を築く努力が必要です。教育研究団体へ所属したり、教育研修サークルに参加したり…もちろん、趣味の人間関係だって「あり」だと思います。
どちらも自分が行う事です。社会を変える事が困難である以上、まぁ、それしかないですよね。コレって、教育の本質と通ずる部分がある様に感じます。
…と言う事で、この最終段落まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。今日または明日、皆様が良い一日を過ごせるよう願ってます。
月・火曜は学校教育話。今回は学校教育の問題点などを、私なりの視点で分析し、私なりの意見を述べるシリーズの第4弾です。
ここ2回くらい、教員の仕事はブラックとホワイトの狭間にある…って話をしました。その中で、「突き詰めて考えると、教員の仕事は日本と言う国の未来を築く事が目的であり、そこに一歩でも二歩でも近付けようと言う使命感と覚悟がなければ、教員の仕事のホワイトな部分は感じられないだろう」と、私なりに結論づけました。
しかし今、この使命感と覚悟を崩す様な状況が発生しています。それを端的に述べているのが、第2弾の記事「ブラックとホワイトの狭間」でnote仲間からいただいたコメントです。以下、全文紹介します(ただし、記号は省略し、行間も詰めてあります。また、列挙部分は見やすくするため、1文字下げました)。
こんにちは
学校で働いた経験は無いですけど、良い印象はありません
理由はいつか書いた通り、
・なんか、世間知らずというレッテルを貼られてる。
・もはや生徒の方が強い。
・だけど、教育的指導をしなきゃいけない。
・教育的指導の結果、パワハラと騒がれる。
・生徒や保護者の方が強いのに、何故か教員の方が強いと誤解してる人がいる。
・つまり、カスハラは問題視されないけど、権力が無いのにパワハラと騒がれる。
記事から読み取れるホワイトの部分も、果たして評価されるんでしょうか?
私だけ塾講師の時、授業評価はかなり高かったけど、上からの評価は低かったです
こういうことを言ったらダサいけど、年齢や外見とか、能力以外の点で低評価スタートになることが少なくないのかな? とか、思ってます。
しかし…。
ある種、手に職つけたような状態なので、これ意外に生きる道が無い
なんか愚痴みたいになりましたけど、教職はブラックで、これから志願者は減少の一途を辿る気がしてます
このコメント中の列挙部分、本当に、その通りだと感じます。そして、こう言った流れの結果、教員は数多くの「攻撃」(コメントの言葉で言えば、「カスハラ」とか。パワハラと騒がれる」とかです)を受ける事になります。やがて、それらが教員の使命感と覚悟を少しずつ削っていき、最終的には崩してしまう…少々悲観的ですが、そんな風に私は考えています。
もっとも、私が教師になった頃から、そんな状況だった訳ではありません。私が教師になてから少しずつ変わっていき、現在は「激変」と言ってイイくらい変わってしまった…そんな印象です。
いつから激変したのか?
昔々の半世紀くらい前、私が小学生の頃の教員は「絶対的な存在」でした。うっかり、「学校で先生に叱られたさ~」なんて言おうものなら、「そりゃ、お前が悪いからだろ!」と家でも叱られる事、もう間違いなしです。私なんて、学校まで引きずって行かれて、職員室で謝らせられた事もありました。
これがイイと言うつもりはありませんが、とても羨ましくは感じます。
私が教員になった30年前は、教員を「絶対的な存在」と考える方は少数派でしたが、それでも「先生を支えよう」と言う意識は、まだまだ保護者の中にも残っていました。だから、教員が行った指導に対して、全否定から入る保護者はいませんでしたし、もっと言えば、若い教員を育てようと言う意識の保護者は、かなりの数いたものです。
私の話で言えば、教師になって6~7年目くらいまでは、もう信じられないくらい、トンチキな失敗ばかりしていましたが、その事で保護者からクレームの入る事はありませんでした。あんな失敗、今やったら、校長室に怒鳴り込んでくる保護者が何人もいるでしょう。実際、「先生は若いから、私たちが育てていかないとね」と、保護者から言われた事もあります。
しかし、今や、それは過去の物語です。
その原因は、社会全体に「心の余裕」が無くなってきたからではないか…と私は考えています。「先生は若いから、私たちが育てていかないとね」なんて言葉、鷹揚に構えていられるだけの、かなり心の余裕のある方でないと言えないでしょう。
では、何故「心の余裕」が無くなってきたのか。これについて私は、大きく2つあると仮説を立てています。
1つ目は、「自分が損をする事を極端に忌避する様になってきた」です。ここで言う「損をする」は、「嘲笑される」とか「馬鹿にされる」も含みます。少しでも自分が損をする事を忌避する為に、鷹揚に構える事は出来なくなったのではないでしょうか。
これは、私の感覚的には「勝ち組・負け組」と言う言葉が広まった辺りから、その傾向が強まった様に感じています。もっとも、その源流は更に少し前からかもしれません。お笑い番組やバラエティ番組などで、真面目に何かへ取り組む姿を馬鹿にする傾向が強くなってきて、その先にコレが来た印象です。
2つ目は、「社会全体が正しさを求める様になってきた」です。「真面目に頑張っている人を馬鹿にしてはいけない」とか、「悪い事をした人が得をする社会はいけない」とか…そう言った正しさが、求められる様な社会になってきたって事です。もちろん、正しさを求める事は間違っていませんし、正しさの追求によって幸せがもたらされた部分もあります。
ただ同時に、ギスギスした社会を生み出したとも感じています。特に、個人の考える正義と、その人が損をする事への忌避が結びつくと、一気に問題が先鋭化します。最近、問題になっているカスタマーハラスメントなども、そう言う側面があるのではないかと考えています。
流れを変える事は困難
この、「社会全体に『心の余裕』が無くなってきた」と言う状況は、直ぐには改善されないでしょう。「自分が損をする事を極端に忌避する様になってきた」と言う傾向も、「社会全体が正しさを求める様になってきた」と言う傾向も、大きく変わる感じがしないからです。
そうであるならば、教師を取り巻く環境の激変が、良い方向に改善される可能性は低いと考えられます。当然、教員は数多くの「攻撃」を受ける事も変わりませんし、教員の使命感と覚悟が少しずつ削られていき、最終的には崩されてしまう状況も、改善される可能性は低いと考えるべきでしょう。
では、どうするか?
私が考えている事は2つあります。
1つは、より個人の使命感と覚悟を高め、鍛え、磨き上げると言う事です。それにより、削られて摩耗し切る事を防ぐ事が出来るだろう…と考えているからです。その為に、様々な学びの場に出ていき、技術的な面も人間的な面も共に鍛えていく必要があります。
もう1つは、頼りになる仲間を得る事です。自分一人では耐えられない事でも、仲間がいて少しでも支えてくれれば、案外、耐えられる事も多いものです。その為に、学校現場での人間関係を大事にしたい…ところですが、「ドブ泥げす校長」の例もある様に難しい事もあります。ですから、学校現場以外でも人間関係を築く努力が必要です。教育研究団体へ所属したり、教育研修サークルに参加したり…もちろん、趣味の人間関係だって「あり」だと思います。
どちらも自分が行う事です。社会を変える事が困難である以上、まぁ、それしかないですよね。コレって、教育の本質と通ずる部分がある様に感じます。
…と言う事で、この最終段落まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。今日または明日、皆様が良い一日を過ごせるよう願ってます。