湖の子守唄

琵琶湖・湖北での生活、四季おりおりの
風景の移り変わり、旅先でのふれ逢いなど、
つれづれなるままに、語りたい。

近江・青の洞門

2011年04月07日 | 詩歌・歳時記

余呉湖の周辺では、かって養蚕が盛んで、その良質な絹糸は京、大阪の琴糸として重宝がられたとか。水上勉の名作「湖の琴」に詳しいが、余呉湖から余呉川沿いを歩くと、哀しい物語が彷彿とされるほど、ひなびた風景が続く。                   

       

さて、この余呉川なのだが、少し西側に小高い山が、綿々と続き、
その麓に幾つかの集落が散らばり、田畑が犇めきあっている。
はるか南の山が途切れた辺りで琵琶湖へ注いでいた訳だ。そのため、大雨に見舞われると、たちまち、川が氾濫し田畑を水浸しにしてしまうのだ。

江戸時代後半の天保3年(1832)大洪水による大飢饉で、この西野地区は壊滅的打撃を受けた。この惨状を救うため、西野・充満寺住職、恵荘は、西山を掘り抜いて水道をつくり、
余呉川の水を琵琶湖に流すしかないと考えた。工事は天保11年より着工され、能登の3人の石工により、湖水側から掘り始めた訳だが、岩盤が堅く1日に6センチしか掘れず作業は難行した。


掘り進むにつれ、洞中や両山肌の落盤もしきりに起こり、山の神を勧請して工事の無事を祈ったそうな。幾多の苦難の末、6年の歳月をかけて、長さ220メートル、幅1.2メートル、高さ2メートルの
放水路は完成した。昭和25年に二代目が55年には三代目ができ、今の余呉川はこの直径10メートルのトンネルを抜けて、湖に注ぐ。二代目は4メートル四方の随道で、歩いて湖岸に行くことが出来る。
                                
何年か前に東京の俳句仲間が、こぞって湖北に吟行にきた時、この洞門に案内した折りのことだ。みんなでトンネルを歩き、湖岸に出た時、突然一尾の巨鯉が湖面を割ってでた。拍手喝采である。俳句仲間へのご挨拶であろうか、見事にも阿吽の呼吸を備えた、琵琶湖の鯉ではあった。