湖の子守唄

琵琶湖・湖北での生活、四季おりおりの
風景の移り変わり、旅先でのふれ逢いなど、
つれづれなるままに、語りたい。

大きくなった、長浜市

2011年04月25日 | 詩歌・歳時記

かの豊臣秀吉が初めて持った城、長浜城を中心にして開けていったのが、長浜の町だ。
それまでは今浜と言っていたのだが、信長の「長」を頂戴して改名した訳けだ。
小憎らしい秀吉の人心掌握術のなせる所以である。

そもそも羽柴秀吉という名前自体が、織田家の二人の重臣、丹羽長秀、柴田勝家から一字ずつ
拝借したものだ。その頃、佐吉と言っていた石田三成が、
稀代のひとたらしの術を、幾らかでも学んでいたなら、関ヶ原合戦は勝利したであろう。

けれども、そうであるなら、これ程三成を好きにはなるまい。人とは歴史とは面白いものである。

さて、この長浜で秀吉を「さる」呼ばわりすれば、張り倒されるのがおちだ。
4月12日から始まる「曳き山祭り」は、秋の大円遊会と並ぶ長浜の一大イベントなのだが、
猿の、もとい秀吉の長男誕生を祝って、町衆に砂金が与えられた。その金で曳き山を創り、
その上の舞台で子供が歌舞伎を演じ、跡継ぎ誕生を祝ったのが、祭りの始まりだ。
ゴブラン織りのタぺストリー、柱には精巧な彫金の飾り、それは見事な山車である。

また、橋の欄干、マンホールの意匠など、秀吉の旗印である千なり瓢箪が随所に使われている。
今も秀吉への親しみがどことやらに漂う町なのである。

去年の市町村合併で、長浜市はとてつもなく大きな町になった。最北の余呉町までもが加わり、
ややこしい事態になってしまった。「長浜市、積雪120センチ」などとニュースで言う。
市内は晴れていて、あまつさえ日も照っているのにである。遠来の客足が減り、
盆梅展の入場者数が減少したとか。

余呉町は名うての豪雪地帯であり、2、3メートルはらくに積もる。
余呉湖畔を歩いていて、そこが長浜市とは到底思えない。お役人とは妙な発想をするものだ。
                                                             
今、長浜市は第三セクターの尽力で町起しが大成功し、黒壁ガラス館を中心に大変な賑わいを見せている。
若い頃の想い出を探り、見果てぬ面影を抱きつつ歩く者にとってはいさいさか迷惑な話ではある。