めでたき人のかずにも入(いら)む老のくれ 芭蕉
「めでたき人のかずにも入(いら)む老のくれ」。「もらうてくらひ、こうてくらひ、やをらかつゑもしなず、としのくれければ」と前書きて、この句がある。貞享三年、芭蕉43歳。
私は定年一年前に役所を退職しました。前々から私にはやりたいことがありました。それは園芸です。派手な花ではなく、野に咲く平凡な花が好きなんです。自宅の小さな庭に桜草や桔梗、海棠の花などを植えて楽しみたいと考えていたんです。
新聞に園芸大学校生募集の広告を見たんです。これだと思いました。期間は一年、主催は県でした。授業料も安く、ちょっと家からは遠かったんですけれども、園芸について基礎的なことから勉強できるというのが魅力でした。
その晩、妻に話しました。役所は定年一年前に退職する。収入が無くなる代わりに電車賃やら授業料、その他雑費がかかるけど、県が主催する園芸大学校に入って勉強したいと妻に話しました。妻は黙って聞いていましたが、私の話を聞いた後、妻は静かに頭を下げて結婚以来三十数年間お疲れさまでした。これと言った病気をすることなく、子供たち二人もどうにか、結婚し、家族を持つようになりました。お父さんが真面目に働いてくれたお陰だと思っています。一年間の生活費や園芸大学校への入学費や学費、通学代くらいは何とかしますから、お父さんが好きなことを退職後はして下さいと言ってくれました。
私は今、近所の園芸会社にパートで働きに行っているんですよ。自分の家の庭の手入れだけでは時間が余ってしますからね。
今は自分の生活を第一に考えて生活してます。一週間に四日働いて、三日休みにしています。月に一度、昔の仲間との飲み会を楽しみ、また別の地域で知り合った人たちとの交流を兼ねた飲み会があります。自分が自分でいられる飲み会がこんなに楽しいものだと思いませんでした。昔の宴会では楽しいと感じたことは一度もありませんでしたね。早く宴会が終わらないかと思ったものでした。しかし、今はそうじゃありません。酒の肴は昔と比べるとはるかに安いものですが、とても美味しい。酒も旨い。
年金が入ってきます。昔の給料と比べたら、はるかに安いものですが、今の生活を支えるには十分です。妻も元気に家事をしてくれています。私も特に体に具合が悪いと言うこともありません。妻とも年に数回は温泉旅行に行っています。
私は福島の公立高校を卒業と同時に国家公務員試験に合格し、東京に配属されました。私の兄は家業の農家を継ぎ、親の面倒を見てくれました。私の父も母も今の私の年齢の時には腰が曲がり、歩くのも大儀でした。父と母は温泉旅行に行くこともなく、母は畑で家で食べる野菜などを作ることを楽しみしていたような老後でした。父はこれと言った趣味もなく、庭掃除が唯一の仕事のような老後でした。それに比べ、私は東京近郊に自分の家を建てることができました。そこには小さいながら、庭もあります。子供たちの家族が近所に住んでいます。孫が休みの日には遊びに来ます。毎日の食事を時間をかけてゆっくり食べられます。時計を見ながら食事をしたことを思うと嘘のような日々です。「めでたき人のかずにも入(いら)む老のくれ」。