醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  561号  白井一道

2017-11-05 16:04:05 | 日記

 古池や蛙飛びこむ水の音  芭蕉

「古池や蛙飛びこむ水の音」。貞享三年、芭蕉43歳。この句は最も有名な芭蕉の句である。

 この句について、長谷川櫂氏は『古池に蛙は飛びこんだか』という一冊の本を書いた。この句は俳人が一冊の本を書くだけの量的にも質的にも内容のある一句のようだ。
 結論を言えば簡単なことである。なぜこの一句が蕉風開眼の一句なのかということを懇切丁寧に説明し尽くしている。その主張は実に説得的である。であるが故であろう。今や、文庫本にもなっている。
 私は長谷川櫂氏の主張に説得され、芭蕉の俳句についての理解を深めたように考えている。私の俳句理解を大いに進めてくれた恩人になっている。今、私は長谷川櫂氏の主張をどのように理解したかということを述べてみたいと思う。
 この句は「古池に蛙が飛び込み水の音がした」という句ではないと言うことに尽きる。
 この句を「古池に蛙が飛び込み水の音がした」と解したため、芭蕉と同世代の鬼貫は「から井戸へ飛(とび)そこなひし蛙よな」と「古池」の句をもじって詠んでいる。また正岡子規は『俳諧大要』の中で「古池に蛙が飛びこんでキヤブンと音のしたのを聞きて芭蕉がしかく詠みしものなり。」と書いている。高濱虚子もまた同じように「古池」のを解していたと長谷川櫂氏は紹介している。しかし、「古池」の句は「古池に蛙飛びこむ水の音」ではない。「古池や蛙飛こむ水の音」である。
 「古池に」と「古池や」では、天地ほどの意味の違いがある。なぜなら「や」は切字である。切字とは、句を切る言葉である。「古池」と「蛙飛びこむ水の音」とを「や」が切っている。「古池に蛙飛びこむ水の音」は散文である。「古池や蛙飛びこむ水の音」にすることによって散文が韻文になる。韻文になることによって「古池」と「蛙飛びこむ水の音」とが切れる。その結果、「古池に蛙が飛びこんで水の音がしたという意味ではないと長谷川櫂氏は主張する。
 俳諧集『蛙合(かわずあわせ)』の発句が「古池や」の句である。深川芭蕉庵に門人たちが集まり、『蛙合』をした。この時、小名木川で鳴く蛙の声を芭蕉庵に集まった門人たちは聞いていた。芭蕉はまず「蛙飛びこむ水の音」の中七と、下五を詠んだ。すると其角が「山吹や」では、いかがと提案したが、芭蕉はそれを退け、「古池や」と置いた。
 「古池」とは、どこにあるのか。そんなものはどこにもない。芭蕉の心の中にある。この句は一物仕立ての句ではない。芭蕉の心の世界にある「古池」と現実世界にある障子越しに聞こえる「蛙飛びこむ水の音」。この二つの世界を取り合わせた句である。このように長谷川櫂氏は主張している。蛙が飛びこむ水の音を芭蕉は聞いていると心の中に「古池」のイメージ浮かび上がってきたというのだ。
 何か具体的なものを見て、感じたことによって浮かび上がってくるイメージと取り合わせる。ここに蕉風俳諧の本質を発見したと長谷川櫂氏はこの著書を通じて述べていると私は解釈した。