醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより 578号 永き日も囀り足らぬひばり哉 (芭蕉) 白井一道  

2017-11-22 12:26:54 | 日記

 永き日も囀り足らぬひばり哉  芭蕉


句郎 「永き日も囀り足らぬひばり哉」。貞享4年、芭蕉44歳の時の句。
華女 季語「永き日」を詠んだ句の中で傑作の一つだと思うわ。
句郎 季語「永き日」の本意とは、どのようなものなのかな。
華女 春は日暮れが遅いのよ。日がいつまでも長いのよ。だから「永き日」が季語になったのよ。
句郎 それは分かっているんだ。今、華女さんが言ったことは事実だと思うけれど、「永き日」の本意とは、違うように思えるけど、そうでしょ。
華女 春は出会いと別れの季節でしょ。新しい門出に逡巡する気持があるでしょ。なんとなく今までの仲間との生活に別れ難い気持ちがあるでしょ。そんな一日の日が長いのよ。いつまでたっても日が暮れていかないのよ。決断を鈍らせる春の温かい風が吹いてくるのよ。
句郎 あぁー、春の憂愁というか、春の憂鬱というやつかな。
華女 そうなのよ。季語「永き日」の本意は、春の憂鬱にあるのじゃないかと思うわ。
句郎 それじゃー、永き日を囀り続ける雲雀を見て芭蕉は春の憂鬱を吹っ切ったということなのかな。
華女 囀るには永き日がたりないと囀り続けていると芭蕉は雲雀を見て感じたのじゃないかしらね。
句郎 芝不器雄の句「永き日のにはとり柵を越えにけり」も同じように永き日の憂愁を吹っ切ったことを表現しているということかな。
華女 芝不器雄の有名な句よね。この句には、芭蕉の精神が継承されているのかもしれないわよ。
句郎 「永き日」も囀り足りないと芭蕉は詠み、春の憂鬱を吹っ切ったの対して芝不器雄は鶏が柵を飛び越えることによって春の憂愁を吹っ切ったと詠んだということなんだね。
華女 春の憂鬱というか、憂愁というものは青春の憂鬱というものなのよ。
句郎 なるほどね。青春は人生の春だからね。
華女 そうよ。青春というのは、実感として、長いのよ。その時はね。そうじゃなかった?
句郎 言われてみると、そんな気もするな。過ぎ去ってみると一瞬だったように感じているけどね。
華女 青春時代の真ん中は道に迷って長いのよ。
句郎 春の日を長く感じるの一緒なのかな。
華女 実際、一番日が長いのは夏至でしょ。六月というのは、日本の夏よ。むしむしする時期よ。汗がべっとり下着に付く嫌な日本の夏ね。しかし「永き日」は夏の季語じゃないのよね。春の季語なのよ。季語「永き日」の本意は春の憂鬱、憂愁というものなんじゃないのかしらと私は思っているわ。
句郎 そうなのかもしれないな。「永き日も囀り足らぬひばり哉」。この句は確かに季語「永き日」を正確に表現しているんだなと言えるように思うよ。
華女 そうでしょ。芝不器雄は農家の庭先で飼われている鶏が檻の柵を飛び越える一瞬を見て、体の中に電撃が走るのを感じたのよ。「永き日」の憂鬱を飛び越えていく力、勇気を鶏に芝不器雄は発見したんじゃないのかしら。その発見したことを五七五の言葉によって表現した句が「永き日のにはとり柵を越えにけり」だったんだと思うわ。この句は芭蕉を継承しているわ。