醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  569号  白井一道

2017-11-13 16:02:16 | 日記

 初雪や幸ひ庵にまかりある  芭蕉


句郎 「初雪や幸ひ庵にまかりある」。「我が草の戸の初雪見んと、余所にありても空だに曇り侍れば急ぎ帰りることあまたたびなりけるに、師走中の八日、はじめて雪降りけるよろこび」と前詞を付け、載せてある句である。貞享3年、芭蕉43歳の時の句。
華女 とても素直な句ね。
句郎 悪く言うと?
華女 俳句初心者のような句よね。芭蕉庵で初めての雪を眺めたかったのよね。それだけの句なんじゃないの。
句郎 それが俳句というものなんじゃないのかな。
華女 そうなのよね。雪が降って喜ぶ子供のような気持に人間が生きる喜びがあると言うことに気付かせてくれるのよね。
句郎 「師の詞にも、俳諧は三尺の童にさせよ、初心の句こそたのもしけれ」と土芳は『三冊子』の中で書いているからね。
華女 日常の何でもないことに喜んだり、びっくりしたり、綺麗だなと思うこと、好奇心旺盛な子供の心に発見があるのよね。
句郎 そういうことなんだろうね。「俳諧は気にのせてかべし」と芭蕉は言っていたようだからね。
華女 土芳が『三冊子』に述べているの?
句郎 そうなんだ。子供の気持ちを知るということは難しいのかもしれないな。昔聞いた話なんだけどね、新派の大女優だった初代水谷八重子の言葉だ。彼女は17才の少女の気持ちを60才になって初めて分かったと言っていた。
華女 そういえば、杉村春子もそのようなことを言っていたような気がするわ。
句郎 俳句と演劇は違うけれども子供の気持ちには人間の本質を窺うことができるのかもしれないな。
華女 雪が降って喜ぶ。このような気持ちに大人はなれないわ。そうでしょ。雪が降ると大変よ。そんなことが先に立ってただ雪が降って喜ぶ気持ちにはならないでしょ。
句郎 そうだよね。だから大人になることによって身についてくるいろいろな気持ちや雑念を削ぎ落さなければ子供の気持ちになんかなれないものね。
華女 そうなのよ。芭蕉がこの句を詠んだのが43才なんでしょ。元禄時代にあっては、もえすでに老境といってもいいくらいな年になっているわけでしょ。その人がよ、雪が降って嬉しい、急いで草庵に帰えり雪見をしようとしたという話でしょ。全く子供の気持ちそのものよ。そんな気持ちになっていたらちょうど今日は我が草庵で雪見ができて嬉しいと詠った句なのよね。
句郎 何でもない句のように見えて、実は大人が三尺の童になって詠んだ俳句、立派な俳句なのかもしれないな。
華女 そうなのかもしれないわ。三尺の童が詠む世界を詠むことは、俳句の神様だから詠み得たのかもしれないわよ。
句郎 どうしてもいろいろ余計なものを大人は詠みがちだからね。
華女 そうなのよ。すっきり詠むことが難しいのよね。他人の句は、こんな簡単な、平凡な、つまらない句が俳句になるのかしらなんて思ってしまうけれど、自分で読んでみるとなかなか詠めないのよね。
侘助 確かにそうだよね。こんな簡単なことが句になるんだと思うよね。