稲妻を手にとる闇の紙燭哉 芭蕉
「稲妻を手にとる闇の紙燭哉」。「寄李下(りかによす)」と前詞あり。貞享三年、芭蕉43歳。
今にも潰れそうな日本の小さなオートバイ製造会社の社長が言った。私はマン島TTレースに出場する。周りにいる誰もができっこないと考えた。マン島TTレースと言えば、世界一のオートバイを競うレースである。自転車に毛の生えたようなオートバイを作っていた会社の社長は世界一のオートバイを作ってみせると豪語したのだ。だが誰も信じなかった。なぜなら一秒間に一万回以上回転するエンジンでなければ世界のオートバイと競争などできるはずがないとオートバイ関係者は誰もが思っていたからだ。その頃、その小さなオートバイ製造会社のエンジンは最大五千回転が精いっぱいだったからだ。大言壮語もいい加減にしろと相手にする者はいなかった。
第二次世界大戦が終わるとすぐ米ソ冷戦の時代が始まっていた。日本が植民地支配した朝鮮半島では南に大韓民国が誕生し、北には朝鮮民主義人民共和国が成立すると北朝鮮が南朝鮮を解放すべく朝鮮戦争が1950年に始まった。日本は米軍の補給基地となり、日本経済は好景気を迎えた。この好景気は神武以来だといわれるようになった。朝鮮戦争は1953年に休戦協定が結ばれたが好景気は1957年まで続いた。1956年には「もはや戦後ではない」と『経済白書』が書いた。戦後復興の完了が宣言された。
こうした時代にも恵まれオートバイ製造会社だった「ホンダ」は1954年マン島TTレース出場を宣言してから五年後の1959年に出場を果たし、6位入賞した。その後、1961年にはグランプリ優勝を果たした。
ホンダのオートバイエンジンは一秒間に二万六千回転するまでになっていた。これは日本が戦時中に開発した戦闘爆撃機エンジンからヒントを得たエンジンであった。
稲妻に打たれた本田宗一郎は起死回生策としてマン島TTレース出場を宣言した。一寸先は闇の世界に向けて明かりを照らすべく本田宗一郎はオートバイエンジンを開発した。
「稲妻を手にとる闇の紙燭哉」。
稲妻を手に取るあなたの行為は闇に明かりを照らす紙燭ですよ。
芭蕉は門人李下を励ました。