醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  711号  華厳の滝を芭蕉は見ていない   白井一道

2018-04-25 11:20:32 | 日記


  『おくのほそ道』紀行に華厳の滝の記述がない


 芭蕉は日光東照宮を参拝している。だが東照宮陽明門などについては、一切何も書いていない。
 どうしてなのかと、小板橋さんは疑問を持った。その疑問に答えることが私にはできなかった。
 堀切実著「おくのほそ道」《日光》の部分を読み、ヒントを得た。堀切の解答は「あらたうと青葉若葉の日の光」である。この句が日光東照宮を荘厳すると同時に表現している。東照宮という建物群によって日光の自然が荘厳なものになっている。芭蕉が東照宮について感じたことはこの荘厳さなのだということになる。細かなことはすべて省略し、そこは読者の想像力に任せている。このような解答を堀切の著書を読み私なりの解答としたい。
 また今ではほとんどの観光客が訪れることのない「裏見の滝」を見て、「暫時(しばらく)は瀧に籠るや夏(げ)の初(はじめ)」と詠んでいるが華厳の滝までは足をのばしていない。なぜなのか。疑問をもったが、わからなかった。
 何冊かの芭蕉学者たちの
著書を読み、私なりの仮説をえた。「奥の細道」とは何の旅だったのかということに尽きる。ここに解答がある。「奥の細道」は歌枕を訪ねる旅だった。「華厳の滝」は歌枕ではない。そのため「華厳の滝」は芭蕉の興味・関心をひくことがなかったからではないか。これが私の得た仮説・解答である。
 ちなみに華厳の滝を詠んだ和歌はないかとインターネットで調べてみたが見つからなかった。
 華厳の滝を始めて発見した人は日光開山の祖、勝道
上人である。命名者も勝道上人のようである。由来は華厳経からとられた。奈良東大寺の宗派が華厳宗である。華厳経が説く仏がいわゆる大仏・毘盧遮那仏である。奈良天平時代、聖武天皇の帰依した仏教が華厳宗、この華厳の教えが支配的あったがゆえに「華厳の滝」と命名された。勝道上人は八世紀後半から九世紀初めころに山岳修行を説く密教に帰依し、下野薬師寺で得度した僧侶である。滝に打たれる修行の場にならないかと見つけたにちがいない。しかし滝に打たれる修行など絶対に不可能なことを悟ったであろう。険阻な山道を一歩一歩上り、木につかまって降りて初めて眺められる華厳の滝、こうしてまで和歌を詠んだ古人はいない。芭蕉が崇めた古人は宗祇であり、西行であった。彼らは華厳の滝を詠んでいない。華厳とは菩薩の徳を華とたとえたことのようだ。大量の川水が一気に百メートル近く落下する水しぶきを荘厳な華と感じたからではないか。
 明治三十六年、一高学生藤村操が華厳の滝から飛び降り自殺をした。このことから華厳の滝が自殺の名所となり、昭和の初めに滝壺近くに下りるエレベーターが設置されてから観光名所となった。
 現代の私たちにとって、華厳の滝は大変な観光の名所であっても、元禄時代にはほとんど知られることの無かった瀑布であったのであろう。また華厳の滝にいたる道も無かったのかもしれない。当時、裏見の滝から華厳の滝まで日帰りできる距離でもなかった。中禅寺湖畔には宿泊できるような所もなかったに違いない。そこは山伏たちの修行の世界であった。


醸楽庵だより  710号   「軽み」について  白井一道

2018-04-24 13:14:42 | 日記


  芭蕉の俳諧理念「軽み」について


 道のべの木槿(むくげ)は馬に食われけり

 「野ざらし紀行」に載っている句の一つである。この紀行文の最初の句が有名な「野ざらしを心に風のしむ身かな」である。旅に死ぬ私の髑髏(されこうべ)が野ざらしになっていることを想像すると心の中に吹く秋風が冷たく寒い。旅に生き、旅に死ぬ覚悟を詠んだ句である。時に芭蕉四十一歳、貞享元年(1684)、元禄時代の直前である。こんなに重い覚悟の句の直後に芭蕉は馬上吟の句、「道のべの木槿は馬に食われけり」と詠んでいる。この句が「軽み」を表現した句である。
「野ざらしを心に風のしむ身かな」、この句はとても重い。死ぬ覚悟ができると心が軽やかになったのであろう。すべての柵(しがらみ)から解放され、後ろ髪引かれるものが無くなったのであろう。日常普段に眼にするものをそのまま表現する。卑近なものであっても卑俗にならない。ここにこの句が軽みを表現していると言われる
所以がある。モーツアルトの音楽の軽快さに共通するものがある。
 芭蕉と曽良、他の門人たちは深川の芭蕉庵から隅田川をさかのぼり千住で船をあがる。門人たちは芭蕉と曽良の後姿が見えなくなるまで見送ってくれた。そのときに詠んだ句が「行春や鳥啼魚の目は泪」である。なんと後髪の引かれる思いであったことでろう。門人たちは皆、目に泪をたたえ、別れを惜しんでいる。それはもう二度とまみえることがないだろうという不安を抱えていたからである。芭蕉たちもまた振り返ることもなく足早に後姿が小さくなっていった。
 このような重い別れであったのに比べて「奥の細道」最後の句「蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ」、大垣に駆けつけてくれた門人たちとの別れを詠んだ句はなんとも軽い。大きな旅を無事終えた芭蕉にとっては身も心も軽くなっていたことでろう。そんな気持ちの軽さが表現されている。ここにも軽みがある。
 将来を背負ったときには荷の重さが心を占める。人生の歩みが始まってしまえ
ば心は軽くなるものなのかもしれない。忙しい毎日が過ぎていく。その忙しさに人間は楽しみを見出していく。歩く足裏の痛みもいつしか笑いの種になる。日射しの暑さに咽の渇きを覚えることがあっても井戸水で咽を潤す喜びがある。風の音に秋の訪れを感じる寒さがやってきても迎え入れてくれる門人たちのぬくもりに癒される。雨に濡れる冷たさはあっても見飽きることのない景色を心にとどめていく楽しさは今、生きているという実感があったであろう。
 テクテク歩く旅を通して芭蕉は人間の本質を究めた。その人間の本質とは重く悩み苦しむことではなく、生活を楽しむ軽さにあると気づいたのである。
 生きる苦しみにではなく、生きる楽しみに人間の本質はある。老いの苦しみに老いの本質があるのではなく、老いの楽しみに人間の本質はある。
 死ぬ危険性をたたえた旅を真正面から受け入れたとき、実感をもって知った人間の本質であった。この現実を肯定的に受け入れることによってこの現実を変える力を得るのだ。

醸楽庵だより  709号  涼しさを我宿にしてねまる也(芭蕉)  白井一道

2018-04-23 11:14:55 | 日記






  涼しさを我宿にしてねまる也  芭蕉


 涼しさを我宿にしてねまる也
 上手い。木陰で休んだ。これだけのことをこのように表現したことに技ありと、感じた。この私の解釈がいいと思う。このような解釈ではないと、岩波文庫の「奥の細道」には次のような解釈が出ている。「他人の家であることを忘れ、涼しさを一人じめにして、のんびりとくつろぐことであるの意」。
 また芭蕉は尾花沢の紅花問屋の豪商・鈴木道祐、俳号・清風の宅に招かれ、心ずくしのもてなしに対するお礼の一句だと長谷川櫂は「奥の細道」を読むのなかで説明している。
清風への挨拶の句だという解説は文学史的には正しいのだろう。しかし俳句は読者のものである。この俳句をどのように読むかは読者の自由である。この自由な俳句の読みに俳句の楽しみがある。曽良旅日記によれば旧暦の五月二十一に芭蕉たちは清風宅に泊まっている。この日を太陽暦に換算すると、七月七日になる。七月初旬の頃になると山形県尾花沢のあたりでも暑かった。三日前の昼間、寺にて風呂をもらったことが曽良旅日記に書いてある。徒歩での旅である。木陰での一服は心を癒したことであろう。道の脇の木陰で旅の疲れを癒した。その涼しさを表現した。私は自分の解釈に満足なのだ。
 テキストに沿って見ると違うという意見が聞こえてくる。その理由の一つが「ねまる」という言葉だろう。「ねまる」とは尾花沢地方の方言である。尾花沢地方だけではなく日本各地に「くつろぐ」というような意味を表す言葉、「ねまる」がある。この言葉は古い言葉で元禄時代の江戸ではもう使われてはいなかった。平安時代ごろには都のあった京都では使われていたのだろう。都で使われていた言葉が時間の経過とともに地方で使われるようになる。それと同時に都では使われなくなる。昔、都で使われていた言葉が方言となって地方に残っている。この言葉を芭蕉が用いている。その理由は清風への心遣いである。こう考えれば萩原恭男や長谷川櫂の解釈が妥当性をもつ根拠になるでろう。俳句とは挨拶である。挨拶とはその場での即興である。この即興性に俳句の特徴が
ある。和やかな挨拶にはユーモアがあると一層親しみが増すことであろう。諧謔、ユーモアが「ねまる」という尾花沢で使われている言葉、方言を使っていることはますます「涼しさを我宿にしてねまる也」という俳句が挨拶句であるという理由になる。私もそう思う。
 しかし道野辺の木陰で旅の疲れを癒したという解釈の方がこの俳句は力を持つ。道野辺の木陰を我宿にして旅の疲れを癒し、くつろいだ。この解釈でいい。
 一箇所に命を懸ける一所懸命の農民とは違って旅に生き、旅に死ぬ覚悟をした漂泊の詩人の道を選んだ芭蕉にとっては道野辺の木陰を我宿にしたと解釈する方が俳句に深みがてでくる。
 道野辺の木陰を我宿にする。ここには一箇所に留まって生活する者ではない漂泊の人生に生きる詩人の魂があるように思います。このような解釈をしてこそ芭蕉の心に近づくことができる。
 木陰で休む一筋の風に生きる喜びを知る。それは厳しい旅をしているものにしか分からない喜びなのでろう。この句は漂泊に生きる喜びを詠んだのだ。




醸楽庵だより  708号  五月雨の降のこしてや光堂(芭蕉)  白井一道

2018-04-22 12:41:54 | 日記


 五月雨の降のこしてや光堂  芭蕉
           「の」と「が」の違いについて


 「五月雨の降のこしてや光堂」。中尊寺の光堂に参拝したときに芭蕉が詠んだ句である。この句を読んだ際にKさんから「五月雨の」の「の」は何ですのと、質問を受けた。上手く説明できないなと、思い黙っていた。黙っていたら話題が移っていった。良かったなと、思ったが気分がすっきりしなかった。
 文法的なことは言いたくなかった。文法的なことを言わずに文章の意味を表現したい。こんな気持ちだった。この句の意味は「五月雨が」光堂を「降り残した」。これだけである。これだけでは俳句にならない。。
曽良旅日記によると芭蕉と曽良が中尊寺に参ったのは陰暦の五月十三日である。この日付を太陽暦で換算すると六月二十九日になる。この時期はまさに梅雨の頃である。この梅雨の時期の雨を「五月雨」という。ざぁーざぁー降る雨が五月雨なのだ。この強い風雨にさらされて光堂は金色に輝いていた。きっと光堂には雨を降らせなったに違い。このような解釈がある。また一方には長年にわたる風雨に耐え忍んで光堂は金色に輝いているという解釈があ
る。キーポイントは五月雨にある。ざぁーざぁー降る強い雨だ。この雨「が」光堂を降り残した。これで文章は完結する。これに対してざぁーざぁー降る強い雨「の」降り残した。これでは気持ちがすっきりしない。文章が完結しない。ざぁーざぁー降る強い雨「の」降り残した光堂だ。これで気持ちがすっきりする。文章が完結する。
 「五月雨『が』降りのこしてや光堂」と「五月雨『の』降のこしてや光堂」。たった一字しか違わないが「の」の方が感慨が深い。
「が」では俳句にならない。意味は通じても余韻がでない。感慨がでない。なぜなのだろう。
 「の」と「が」が表現する役割は同じなのだ。だから「の」を「が」に変えても意味は通じる。問題はなぜこの俳句の場合には「の」の方が感慨が深くなるのだろう。
 「五月雨が降りのこした光堂」。「五月雨の降りのこした光堂」。両方とも文章としては問題がない。しかし意味に違いが出てくる。「が」の場合は五月雨が強調されるのに対して「の」
の場合は光堂が強調されている。「の」と「が」では意味合いが異なってくるのだ。芭蕉が表現したかったのは「光堂」なのだから「の」でなければならなかった。
 「の」も「が」も文法的には格助詞というそうた。この句の場合、主語を導く役割をしている。そのため入れ替えは可能なのだ。可能ではあるけれども意味合いに違いがでてくるようだ。
 「君『が』代」は「君『の』代」とも表現は可能だ。意味も同じだ。けれども「君が代」は「君が代」でなければならない。こう表現しなければ私たちの気持ちはすっきりしない。この場合の「が」と「の」の働きは体言に付いて連体修飾語をつくる役割をしている。この場合も「君が代」の場合は君を強調しているが、「君の代」の場合は代を強調している。だから「君が代」は君・天皇を讃える歌なのだ。天皇を讃える歌でなければならないから「君の代」であってはならない。「君が代」でなければならない。
 我々は芭蕉の俳句や紀行文を読み、言葉に対する感覚を磨くことができるように思うのですが、いかかでしようか。




醸楽庵だより  707号  唎酒四月例会出品酒を楽しむ  白井一道    

2018-04-21 11:49:12 | 日記


  四月例会出品酒


  二〇一八年四月唎酒例会 出品酒   

A、月不見の池・純米吟醸  720ml 1860円 
 新潟県糸魚川市早川谷  猪俣酒造株式会社
 酒造米:五百万石  精米歩合:50%精米  アルコール度数:15.8%
 日本酒度:+3 瓶火入れ急冷し貯蔵する瓶囲いです。熟成させたのち醸造年度別に出荷します。五百万石が熟した香りと、軽快で円やかな熟味とキレが魅力のお酒です。「こういう 純吟がいい」自信を持っておすすめできる純吟です。


B、オルタナ純米サビ猫ロック・黒サビ・無濾過・瓶火入れ53℃  720ml 1540円
 新潟県糸魚川市早川谷  猪俣酒造株式会社
 酒造米:五百万石  精米歩合:55%精米  アルコール度数:16%
 軽快で爽やかな味わいと喉越しの、五百万石の特徴が魅力。フレッシュな立ち香と含み香があり、旨味と抜群のキレがある非常に綺麗な、特別純米と呼ぶにはもったいない純吟レベルのオルタナ純米。


C、巻機三十周年記念  720ml 1450円税抜  銘柄「巻機」発売三十年記念限定販売酒
 新潟県塩沢 高千代酒造株式会社
 酒造米:南魚沼産一本〆、   精米歩合:53%精米
 アルコール度数:16% 

D、オルタナ純米サビ猫ロック・赤サビ・無濾過・瓶火入れ53℃     720ml 1370円
 新潟県糸魚川市早川谷  猪俣酒造株式会社
 原料米:たかね錦   精米歩合:60%精米  アルコール度数:16度 
 柔らかい飲み口で味にふくらみのある、たかね錦の特徴が魅力。


E、高千代・本醸造 720ml 898円  
 新潟県塩沢 高千代酒造株式会社
 酒造米:一本〆、こしいぶき 精米歩合:扁平精米 63%
日本酒度:+5.0、酸度:1.4、アミノ酸度:1.3、アルコール度数:16%


酒塾のしをり  第二七号
 今回は、新潟県のお酒にこだわってみました。一つはお馴染みの新潟県南魚沼郡塩沢にある高千代酒造のお酒、「巻機」と「高千代」。もう一つは糸魚川市にある猪俣酒造のお酒です。猪俣酒造のお酒は酒塾で初めて楽しむお酒です。どんなお酒なのか、楽しみです。糸井川市というのは新潟県にとっても、日本全国的に見ても特異な地域です。なぜかというと中学の頃、また高校では地学の時間に学んだことのあるフォッサマグナ、糸魚川―静岡構造線の起点にあります。糸魚川には親不知・子不知の天下の剣として有名な交通の難所があります。芭蕉の紀行文『おくのほそ道』にも「北国一の難所を超えて」とあります。関西文化圏と関東文化圏との境目に位置しています。五軒の酒蔵があります。「根知男山」という銘柄のお酒は有名です。