醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  691号  発句なり芭蕉桃青宿の春(芭蕉)  白井一道

2018-04-05 17:20:09 | 日記


  発句なり芭蕉桃青宿の春  芭蕉              



句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「発句なり芭蕉桃青宿の春」。貞享年間。
華女 俳諧師として立机した喜びの句ね。
句郎 難しい試験に合格した喜びのような句かな。
華女 若い芭蕉がここにあるわね。
句郎 若さかな。春四月が表現されている。
華女 そうよね。それ以上、何もないわ。
句郎 職業選択の自由が何もない時代、俳諧師という職を得た喜びは、天にも昇るような嬉しさだったんだと思う。
華女 芭蕉の身分は農民だったんでしょ。生涯農民としての身分を変わることはできなくとも、花の江戸に出て、俳諧師として認められたということは凄いことだったということなのかも。
句郎 俳諧師だったから農民身分の者であっても慣れたのかもしれないな。
華女 俳諧師は、言ってみれば、有芸人と同じような職業だったんでしょ。
句郎 芸能の民は江戸時代にあっても厳しい規制はなかったのかもしれない。
華女 才能によって職が得られたということなんでしょ。
句郎 芭蕉にとって俳諧師は天職だったんだろうな。
華女 地方から江戸に登り、芸の才能で職を得るということは、現代にあっても厳しく、難しい事みたいよね。
句郎 そう、才能、能力によって人に認められ、生活が成り立つようになるということは、封建社会の中にあって近代的な世間が俳諧の中にはあったということなんじゃないのかな。
華女 天才的な才能があれば、職が叶う。今でもそうよね。プロ野球の選手には誰でもが可能性としてはなれるが誰でもがなれるわけではない。大谷 翔平野球選手はベ―ブルースの再来かと、言われている。アメリカ大リーグ選手になった。野球の天才的な能力があったからアメリカ大リーグの選手になれたわけよね。
句郎 14歳の中学生であった藤井聡汰君は天才的な才能に恵まれて将棋のプロ棋士になった。
華女 役者や浮世絵師、囲碁、将棋、俳諧師などの芸能関係の職にあっては、身分を乗り越える力があったということよね。
句郎 芭蕉は天才的な句を詠む才能に恵まれていたということなんだろう。
華女 芭蕉は俳諧を自分の天職と自覚するようなところがあったんじゃないのかしら。
句郎 誰でも自分の天職を自覚し、その道で大成できたら、どんなにか素晴らしいことだと思うよね。
華女 英語で職のことをコーリングという場合があるじゃない。
句郎 天職ということでしょ。職業とは、そもそも天職だというプロテンタンティズムの考えがあったからなんだろう。
華女 そうなのよ。そうなんだけれども、自分の仕事を嫌々ながらしている人が現代にあっては、大半なんじゃないのかしら。才能があってもその才能をいかす職に就ける人は少ないのが実際なんじゃないのかしら。
句郎 そう、今より遥かに厳しい厳しい時代、社会にあって、芭蕉は自分の天職と自覚できるような俳諧師という職が得られたということは、当時にあっては、本当に珍しい事だったんじゃないのかな。その厳しさが芭蕉の句を名句にしたも言える。

醸楽庵だより  690号  二人見し雪は今年も降りけるか(芭蕉)  白井一道

2018-04-04 14:51:55 | 日記


  二人見し雪は今年も降りけるか  芭蕉



句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「二人見し雪は今年も降りけるか」。芭蕉45歳の時の句。『庭竈(にわかまど)集』「越人におくる。
尾張の十蔵、越人と号す。越路(こしじ)の人なればなり。粟飯(ぞくはん)・柴薪(さいしん)のたよりに市中に隠れ、二日勤めて二日遊び、三日勤めて三日遊ぶ。性酒(せいさけ)を好み、酔和(すいわ)する時は平家を謡ふ。これ我が友なり」との前詞を書き送っている。このとき越人は、「胸のしのぶも枯れよ草の戸」と脇句を付けている。
華女 「粟飯」とは、粟のご飯ということよね。「柴薪」とは、燃料でいいのよね。
句郎 「市中に隠れ」とは、悟りを得たものは山中にではなく、街中に住むということのようだ。
華女 越人とは、越後出身の人なのよね。
句郎 越前、越中、越後とがあり。越後のことを北越という。当時は北越だから、越人は北越の人だった。後に名古屋に出て、染物屋を営んでいた。芭蕉は『笈の小文』の旅で名古屋の越人を訪ね、真冬の三河国保美に蟄居している杜国を芭蕉は越人と共に訪ねている。渥美半島先端の村、雪の保美に訪れている。この時、芭蕉は「寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき」と詠んでいる。このことを思い出し芭蕉は「「二人見し雪は今年も降りけるか」と詠んだ。
華女 その時よね。「冬の日や馬上に氷る影法師」と詠んだのは。
句郎 「冬の日や馬上に氷る影法師」。名句だよね。
華女 「水取や氷の僧の沓の音」。この句に匹敵する句よね。
句郎 俳句は名詞の詩。作者の認識が詩になっているということなのかな。
華女 「二人見し雪は今年も降りけるか」。この句は少し力のない句なのかもしれないわ。
句郎 芭蕉は自分と繋がりを持った人を大事にした人だったんじゃないのかな。身の回りの人を大事にすることによって自分の生活が成り立つことを自ずから悟っていた人なんじゃないのかな。
華女 今だって俳人として、生活が成り立っている人はほとんどいないのじゃないのかしら。皆、それぞれ本業を持っていて俳句をしている人が大半なんじゃないりかしら。
句郎 元禄時代、俳諧師として生活が成り立っていた人なんて一人もいなかったのじゃないのかとおもうな。
華女 だから芭蕉隠密説が根強くあるのね。
句郎 そうなんじゃないのかな。俳句はその地方ごとの豊かさや名産品を知る有力な情報源だったんだろうからな。
華女 各地方の情報をもたらし、徳川幕府からなにがしかの金銭的援助をしてもらったことはあったんじゃないのかしら。
句郎 染物屋や川魚屋、僧侶、武士との交流のあった芭蕉には日本各地の情報が集まっただろうからね。
華女 気象だって、封建社会にあっては、秘密事項だったって言うじゃない。だから「二人見し雪は今年もふりけるか」という句も三河国にとっては、秘密事項だったのかもしれないわ。
句郎 江戸時代の社会にあっては、自由というものは何もない社会だったからね。

醸楽庵だより  689号  被(かづ)き伏す蒲団や寒き夜やすごき(芭蕉)  白井一道

2018-04-03 12:57:35 | 日記
   

  被(かづ)き伏す蒲団や寒き夜やすごき  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「被(かづ)き伏す蒲団や寒き夜やすごき」。芭蕉45歳の時の句。「李下が妻のみまかりしをいたみて」との前詞がある。このとき去来は、「寝られずやかたへ冷えゆく北おろし」。『曠野』と詠んでいる。
華女 「被(かづ)き伏す」とは、どういうことを言うのかしら。
句郎 蒲団を頭からかぶってと、いう意味だ思う。
華女 芭蕉の弟子、李下は芭蕉庵に芭蕉を贈ったことで有名な弟子よね。
句郎 バナナの木のような芭蕉は、当時珍しい植物だったんだろうね。
華女 芭蕉布が有名よね。南国の植物、沖縄や奄美群島の特産品だったんじゃないの。
句郎 江戸深川じゃ、根付かない植物だったんだろうな。
華女 この句、変な句ね。「蒲団や」、「夜や」と、「や」が二度出て来る句になっているわ。私がこのような句を詠んだら、厳しい言葉を方々から受けそうだわ。
句郎 三句切れの句になっているようだ。「被(かづ)き伏す蒲団や」、「寒き夜や」、「すごき」とたたみかけているんだろうとおもうけどね。将棋の言葉に「名人に定跡なし」とあるから俳句名人にきまり無しなのかもしれない。
華女 李下の悲しみぶりがあまりにも凄まじかったので芭蕉も悲嘆にくれてしまったということなのかしらね。
句郎 芭蕉の名句の一つに三句切れの有名な句がある。「から鮭も空也の痩も寒の内」゜芭蕉は「数日はらわたをしぼって」この句を詠んだと弟子が述べている。
華女 「から鮭も」の句は、「寒」というものが空也の痩せとから鮭から表現されているように思うわ。
句郎 だから「被(かづ)き伏す蒲団」と「寒き夜」とが「すごき」ことだと芭蕉は詠んでいるんじゃないのかな。
華女 「すごき」とは、名詞には違いないとは思うけれども、具体的なものじゃないのよね。そこが私には不満なのかな。
句郎 「から鮭」の句には及ばないということなのかな。
華女 私ごときものが言うのは憚れるけれど、感じたことを率直に言うとこういうことね。
句郎 この句は追悼句であることには違いないが、亡くなった人への追悼ではなく、妻を亡くした李下への悲しみを悼む句のようになっているように思うな。
華女 そうなのかもしれないわ。現代の人から見ると名句だと感じる人は少ないようにも感じるわ。芭蕉の句だからということで受け入れてしまうという句なのかもしれないわ。
句郎 今のどこかの句会に投稿した句だとしたらいろいろ指摘されそうなところがあるようにも感じるよね。「蒲団」は今じゃ、冬の季語でしょ。「寒き」も冬の季語だと思うからね。季重なりとして問題になりそうな気もするしね。でもこのような句の在り方を芭蕉は探っていたということが言えるようにも思うな。
華女 そうなのかもしれないわ。芭蕉はなにしろ俳句を和歌から分離独立させた功労者ですから。いろいろ工夫をこらし、和歌と俳諧の発句とは違うということを世間にしら示す必要があったのよね。

醸楽庵だより  688号  埋火も消ゆや涙の烹ゆる音(芭蕉)  白井一道

2018-04-02 17:28:48 | 日記


  埋火も消ゆや涙の烹ゆる音  芭蕉

句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「埋火も消ゆや涙の烹ゆる音」。『曠野』芭蕉45歳の時の句。「ある人の追善に」との前詞を置いている。
華女 埋火の思い出があるわ。
句郎 冬、炬燵の中の灰の中に赤く熾って炭に灰ををかけておくと翌日の朝まで火が持つんだよね。翌日の朝、埋火に炭を足すと炬燵が温かくなった思い出があるな。
華女 今ではどこの家庭でも見ることのない朝の風景なんじゃないのかしら。
句郎 今じゃ、焼き鳥屋の店先で熾った炭火を見ることがあるくらいかな。炭自体、普段見かけることがないものだから。
華女 火鉢が昔の家にはあったのよね。夜、母が火鉢の脇でお針をしていた風景が瞼に浮ぶわ。、
句郎 同じように火鉢の火にも灰をかけて寝たからね。冬の暖房というと炬燵に火鉢しか無かったからな。
華女 本当に昔の家は寒かったわね。埋火という季語もなくなっていく運命よね。
句郎 そうなんだろうね。芭蕉が「埋火」という言葉に秘めた思いとはどのようなものだったんだろうな。
華女 埋火というのは、灰の中で火を温存しているわけなんでしょ。だからいつまでも思い続ける気持ちのようなものなんじゃないのかしらね。
句郎 亡くなった人への思いは無くなることがない。この気持ちが籠った言葉が埋火ということなんだろうと思う。
華女 「埋火も消ゆや」とは、あなたへの思いはいつまでもなくなることはありません。あなたが亡くなった哀しみの涙が枯れ果てました。私の涙が埋火に落ち、じゅっと音を立てています。こうしてあなたを偲んでおりますと芭蕉は詠んだんだと思うわ。
句郎 季語「埋火」の本意は、消えることのない、とろとろといつまでも燃え続ける思いということなんだろう。
華女 後を引く恋心のようなものはまさに「埋火」ね。
句郎 秘めたる恋心を埋火として詠んだ歌があるんじゃないのかな。
華女 誰の歌なのか、知らないけれど「板間より袖に知らるゝ山おろしにあらはれわたる埋火の影」という歌があるわ。この歌は恋を詠んでいるのよ。
句郎 芭蕉の追悼句に「数ならぬ身とな思ひそ玉祭」という句がある。芭蕉が若かった頃、身の回りの世話をしてもらった寿貞という女性が亡くなった時詠んだ句といわれている。数ならぬ身と自分を貶めることは一つもないよと、墓前に芭蕉は句を捧げた。芭蕉にとって寿貞への思いは埋火のように消えることはなかった。
華女 「埋火」とは、追悼や恋の思い、消えることのない思いを表現する言葉なのね。
句郎 父や母、夫や妻、先立たれた子への消えることのない思いは埋火のように消えることはないだろうからね。
華女 「埋火も消ゆや涙の烹ゆる音」。この句の静かさが私は好きよ。
句郎 技巧的過ぎて好きになれないと言う人がいるようだけれど、私もしみじみしたところが良いと思っている。「埋火や壁には客の影ぼうし」という芭蕉の句もいいな。

醸楽庵だより  687号  冬籠りまた寄りそはんこの柱(芭蕉)  白井一道

2018-04-01 16:31:29 | 日記


  冬籠りまた寄りそはんこの柱  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「冬籠りまた寄りそはんこの柱」。『曠野』芭蕉45歳の時の句。
華女 芭蕉には「冬籠り」を詠んだ句がいくつあるのかしら。
句郎 全部で六句詠んでいるようだ。
華女 どんな句を詠んでいるのかしら。
句郎 先ず貞享4年、芭蕉44歳の時に「先(まず)いわへ梅をこころの冬籠り」と詠んでいる。この句は蟄居を命じられた杜国に蟄居させられたことを恨んだり、理不尽だと思ったりせず、蟄居を受け入れ、梅の花が咲く春が必ず来ることを心にして今は冬籠ることだと詠んでいる。
華女 「冬籠」という季語の本意は春を待つ熱い気持ちなのね。
句郎 「冬籠りまた寄りそはんこの柱」。この句もまた春が来るのを待ち焦がれる気持ちが詠まれているんじゃないかと思う。
華女 「この柱」という言葉に春を持つ気持ちが詠まれていると言うことなの。
句郎 そうなんだ。熊の冬眠と違って人間の「冬籠り」とは、何にも食べずに冬を過ごすことはできない。江戸深川芭蕉庵の柱とは、門人たちからの支援があってこそ、芭蕉庵の柱は立っている。門人たちこそが芭蕉庵冬籠りの柱だと芭蕉は詠んでいるんだと思う。
華女 芭蕉とその門人たちとの春を待つ思いが詠まれているといことね。
句郎 そうなんじゃないのかな。「冬籠り」の句は元禄元年芭蕉45歳の時の句のようだ。元禄2年には、「屏風には山を画書(えが)いて冬籠り」と詠んでいる。何も描かれていない屏風を眺め、その屏風に山を描く想像をして冬を過ごしていると詠んでいる。この句もまた野に出で、里山を歩く春を待つ望む気持ちを詠んでいるんだと思う。、
華女 「冬籠り」の本意は命の燃ゆる思いなのね。
句郎 元禄4年には「折々に伊吹を見ては冬籠り」と詠んでいる。分かるよね。芭蕉48歳の時の句かな。
華女 芭蕉は、伊吹の山々を見ては、春が来るのを待っていたのね。当時にあっては、もうそろそろ生い先の短いことを自覚し始めた頃なのかしらね。
句郎 元禄6年、芭蕉50歳の時には「金屏の松の古さよ冬籠り」と詠んでいる。狩野派の豪華な松の古木が描かれた絵を見ることに飽きない。わが命の燃える豪華な冬を過ごさせていただいている。
華女 芭蕉は元禄7年に亡くなっているのよね。
句郎 元禄6年といえば、芭蕉の晩年だな。「冬籠り」の最後の句が「難波津や田螺(たにし)の蓋も冬ごもり」だった。
華女 この句も春が来るのを待ちわびる句なのね。
句郎 「冬籠り」の本意は現代にまで継承されてきているのかもしれないな。
華女 「冬籠り」を詠んだ現代の名句というと何という句があるのかしら。
句郎 日野草城の「日の当る紙屑籠や冬ごもり」。この句を読んで楽しめるような気がする。すでに「紙屑籠」には春が来ている。紙屑籠には日野草城の思想や思い、推敲した経過などの断片が書きつけられている。それらの紙屑には草城の命燃ゆる気持ちが詰まっている。季語「冬籠り」の本意がより豊かになっているように思うんだ。