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常識という幻

2011-01-23 | 思うこと
「常識」という言葉を使う時、話す相手に対して「常識」を要求する意味合いの場合が多いと感じます。
私も時々使ってしまうので反省することが多いのですが、話す側としては相手にも当然同じ常識があるはずといったスタンスでいます。
「常識」と一言で言っても、その中には基礎的な学問的知識、教養、礼儀、社会通念など幅広い内容を含んでいるので、状況によってその中のどれを指しているかを類推しながら対応するわけで、語る側は当然その中のどれを意味するのか相手には分かるはずと思い込んでいる場合も多い。
常識=すべての人が知っているはず、それが常識だと言われる事も多いのです。
ところが、よく考えてみれば同じ生い立ちや経験を持つ人はいない、そう言えるほど人には様々な歴史があります。
性別や職業、生まれた時代、育った場所などたくさんの要因によって多様な考え方が育まれます。

日本は単一の稲作民族の国である、というどこかで意図的に作られたとも思われる認識については、近い歴史を紐解いても士農工商という階層があって、立場を超えた通婚などもなく、それぞれが別の価値観の中に生きて、そして幅広い生活の様式を持っていたことでその考え方の間違いは分かります。
宮本常一の著作を読んでいると日本には昔から多様な職種があって、士農工商の外側にも多くの人が生きていた。
農地と共に生きていた農民の他にも山の中や流浪の生活に独自の世界を持っていた人々がいて、そして不足するものを補い合っていた。たとえば金属製品であったり木を切る技術であったり芸能であったり。

家族の中での常識、住んでいる場所での常識、今の常識。
家族の中では常識であってもそれはあくまで家族の中だけの話であって、一つ一つの家族には独自の歴史があるわけで、人の移動の激しい現在は狭い地域であっても様々な考え方を持つ人々が住んでいます。
そもそも昔から「常識」はなかったのに、「常識」はあるという幻を見ていただけなのかもしれません。

世の中の人が同じ常識を持っている訳ではない事を前提条件として、それでも人は周りの人々とうまく付き合っていこうと努力していた。
それが先人の知恵だったのだと思います。



常識がプライベート化していく シロクマの屑籠(汎適所属)