木曜日に友人たちと一緒に御徒町から湯島、お茶の水と佃島・月島を歩いてきた。
大阪市西淀川区の神崎川と左門殿川に囲まれる島のような形をした地域が佃と呼ばれる。
元は田蓑と呼ばれる漁業の盛んなところであったが、
徳川家康が漁業も大事だが人は先ず田で働けとして田にニンベンを付けて佃に改称した。
その後、佃村の漁民が家康に招かれ隅田川河口の埋立て地に住むにあたって佃島と呼んだ。
今も船溜まりは残っているが、昔ながらの家並みは少なくなって高層マンションが立ち並ぶ。
漁民たちが移り住んだ時に佃村ゆかりの神社をこちらにも創建したのが
いま朝のドラマでもおなじみの住吉神社だ。
隅田川べりに出ると壁にレリーフが3点かけられている。
これは三代安藤広重「東京明細図会 佃島灯明台下 汐干」という版画が元になっている。
版画(画像が小さいけれどカラー) 参照
一部を拡大してみると親子らしい二人が潮干狩りをしているようだ。
上の全体図の右上には灯台らしいものが見える。
これは最近建てられたモニュメントだが、元はこのあたりに灯台があったそうだ。
佃島の隣の石川島には無宿人対策のための人足寄場が置かれていて油絞を行っていた。
慶応2年その益金で隅田河口・品川沖航行の船舶のために、この灯台が築かれたという。
佃島小学校の近くにはこんなモニュメントもあった。
石川島の造船所の名残のようだ。
月島のほうへ進んで、西仲通りを歩く。
通称もんじゃ通り、朝のドラマの舞台だが洋品店も「あにおとうと」もなかった。
今はもんじゃ屋さんが目立つが、2階部分に目をやるとその昔がうかがえる。
昔は、ここから東京湾が直接見られたのでしょうね。
今となっては、内陸部のような感覚を受けてしまいます。
東京の佃島のルーツが大阪の佃とは知りませんでした。
商店街の中華料理屋さんの上に青果店の看板というのは面白いですね。
時代に合わせて変わっていったのでしょうか。
もんじゃさんの古い看板、缶詰て読めばよいでしょうか。
実缶詰?どんなことかなあって朝から悩んでます
東京の昔が残る街を歩くのは楽しいですね。
ま、廃屋とかにも異常に関心を示す私ですが。。。
落ち着きますよね。
高層ビルが邪魔~なんてブツブツ言ったら叱られそうですが(笑)
先日もいいな~って思った町並みの写真を見たのでわざわざ出掛けたのですが、ないんです(涙)
その写真、5年前のものだったので今は更地になってたり大手スーパーが建ってたり。。。
これからは5年どころか1年1年が勝負みたいですね。
あまり人に知られてない隠れた昔の町並みの風景、失われてしまう前にひとつでも多く目と写真に留めておきたいと痛感しました。
昨年行ったとき入ったもんじゃの店の割引券があったので、同じ店でもんじゃを食べて、レバカツを食べながら朝ドラの風景を訪ねながら散策してきました。
10日に埼玉県のときがわ町のシュウカイドウの群生地を見てきました。思った以上に良かったです。
安藤広重は3代?えっ?安藤広重は何人いたんでしょう?
東海道五十三次は知ってますが・・・
無知ですいません~~;
明日ぐらいからこちら天気が崩れるみたいです。^^;
下町情緒があっていいところですよね~
隅田川の川べりに出るとたくさんの船が行き交って・・・
この灯台 実はトイレなんですよ~
佃島も車で通りますが もんじゃ焼き屋さんが軒を並べていますね。
私はもんじゃ焼き食べたことないです~
おいしそうには見えないので・・・笑
私が訪れたのはもうかなり前、未だ高層ビルが出来ていませんでした。
その名の通り、佃煮屋さんも何軒か残っておりましたが
今は無いのでしょうね。
新旧混在、不思議な町になってしまいましたね。
朝ドラ繋がりでしょうか
興味深い所を散策されましたね。
古い庶民の町に高層マンションが進出して独特の雰囲気の街になりましたが、江戸時代は東京湾がすぐそこだったのでしょうね。どんどん埋め立てられて今は内陸といえると思います。
泉州や紀州から房総に移住した漁民も多いようですが、佃はその先駆けかもしれません。
正確にはレンガのモニュメントは小学校の裏側にあります。
実缶詰・・一字隠れていて果実缶詰野菜だと思います。
千葉のおーちゃんも街歩きは上手ですよね。
街並みを保存しようという運動があっても経済的な波の前には無力なことも多いです。
都内は高層ビルが林立しても、その隙間みたいな所に古い横丁が残っていたりします。それもいつまで残るのか・・
付近の地価が上がったりすると個人では持ちきれないのでしょうね。
きのうだったかテレビで千葉の水郷佐原の街並みを紹介していました。こういうところはいつまでも残したいものです。」