宮若市長のパワハラ疑惑で、辞職勧告決議案が可決された。百条委員会も設置されたそうです。発端は車内での運転手の職員に対する叱責です。市長はスマホを扱っていいのか的な発言をしています。前後が切り取られているので、よく分かりませんが、運転業務での個人のスマホを扱っていたことを注意し、怒ったように見えます。ことの発端は、マスコミからこれはパワハラではないかと、指摘があり、議会が呼応して、決議まであげている。市長本人は反省していると言っている。議会はその反省をすると言っている市長を見守るしかないのではないか。
市長は選挙で市民が選んだ、まだ1期目だ。選挙戦では市長が掲げる政策や人柄で、おそらく市民は市長にしたんだと思います。
まだ始まったばかり、そりゃ、気合が入りすぎて、失敗も、やらかしもあるだろう。それで指摘されて、今までの県議の時とは違う、首長になったら、市を代表するので、その発言なども気を使わないといけない。今までのいち議員の時とは、振る舞いも変わってくるものです。
まさに、宮若市長はその過程にあったんだと思います。全く謝罪もなく、反省もしないと言うことであれば、決議などで猛省を促すみたいなのは、戦略としていいかもしれませんが、反省し、これからは改めると言っているんだから、それ以上、なんのことがあるだろうかと思うのです。
本当に、辞職していいのでしょうか。また選挙があって、当選した人の粗が見つかって、また辞職勧告をするのか。本当馬鹿らしい。政治家の使い捨てではないか。こんな行政で、子供達が政治に興味を持てるだろうか。
責めている側も、同じ境遇になれば、そうしないといけるだろいうか。目の前で、職員が運転中にスマホをしていて、お前危ないやろうが、市長公用車で、すいませんで済むかと、言うんじゃないか。
結局は、みんな同じ轍を踏む可能性があるのに、それにはダンマリで、私は、そんなパワハラはしません。聖人君子ですよと言わんばかりに、自らの隙は棚に上げて、辞めろと叫ぶ。なぜならば、この流れに乗らないと次は自分が槍玉に挙げられるからだ。
これは完全にいじめの構造に似ている。誰かがいじめられて、それを庇うと、自分のやられるんじゃないかと、いじめる側に回る。それは人間の心理かもしれない。しかし、政治家なら敢えて、それとは逆に進んでほしいものです。
以前、私が小学生の時に、クラスでリーダー格だった友達が、なんかのことで、グループから外されてしまった。それから彼は今まで最大グループの親分だったのに、そこから総スカンを受けて、一人ぼっちになってしまった。元々フリースタイルの私は、元いたグループに戻れなくなった友達と、2人でよく遊んだ。仲間外れにされていることは知っていたいが、私は特に、そのグループに気を使うこともないし、なんでそうなったのかの訳も知らない。多分なんちゃないことだと思うが、しかし、学年では、その元リーダーのこと、誰も交わろうとしなかった。別のグループの子達は、元々つるんでなかったので、1人になったその子を受け入れるようなことはなかった。なので、彼は完全に一人ぼっちになってしまった。
そんな中、彼と2人で多くの時間を過ごした。しばらく時間がたって、ほとぼりが覚めたのか、その子は、また元いた最大グループに帰って、そこのリーダー格に戻って行った。私とは密には遊ばなくなり、彼も元のリーダーに戻れたので、私は問題が解決したと嬉しく思った。
私がいなければ、彼は一人ぼっちだったかもしれないし、でも誰かが現れたかもしれない。でもそんな世の流れとは違う動きをする人間も必要なのだ。特にスポーツも勉強もできるわけでもないし、リーダー格でもない。細かい作業もできない。でも社会やクラスに必要なもの。それは昔は村での三年寝太郎のようなものや、祭りや揉め事をおさめるヤクザ的なもの、働きもしない、理想を追い求める幕末の浪人だろうか。
政治家もそうした部類ではないか。クラスや社会に必要な人。世間とは違い、自らの立場にとらわれない生き方。それは勤め人には難しい選択ができる人でもある。だから、選挙で選ばれて、自分たちの代わりに、議会で頑張ってくれと送り出された人達が政治家だ。なので、ちょっとマスコミから言われたからといって、それにビビってことを起こすべきではない。マスコミが正義なのか。そんなことはない。時間軸の中で、ある部分を切り取って、それをマスコミの記者の感性で論じているにすぎない。なぜならば、ネタになるからだ。彼らはジャーナリストでも、正義のヒーロでもない。視聴率や広告収入のための金儲けのためにやっている。
本当に、宮若市のためになるならば、これを納める道筋を持っていなければならない。議会も弱すぎる。もっと毅然として物事にあたるべきだ。批判をするほど、自らが立派だとは思えない。いやそんな立派な人間なんていない。みんな人生にしろーとで、模索しながら、失敗しながら、一所懸命やっているだけじゃないか。
なのに、到底無理な完全を求めている。完全なんて神でしかないのだから、それをなぜ、求めるのか。そんな清廉潔白の世を描いて、一体誰か幸せになると言うのだろうか。それは生きにくい社会ではないか。失敗の許されない社会、完全を求められ、それに応えなければならない社会。こんな社会の何が面白いのだろうか。
やすやすと決議案を通してしまった議会や、マスコミは、自らが行った結果をしっかりと考えるべきです。私は少なくとも、そうしたレールからはみ出すことができない。はみ出したら、生きていけない社会など、くそくらえと言いたい。
中間市長の、挨拶とスカートは短い方がいいという話、これは一般的に使いまわされた引用句です。私は今まで、何度も聞いてきて、むしろ、つかみはオッケー的な、一般的なスピーチの導入部分で、本にも書いてあるフレーズじゃないかと思うのです。長いスカートが好きな人もいるでしょうし、短いスカートが好きな人もいる、スボンがいい人もいる。市長は、自分は挨拶とスカートは短い方がいいと、自分の好みを言っただけということもできる。自分の好みさえ言えないのかと、これは不適切発言というより、これを弾圧することは、表現の自由を奪うことにつながってはいないか。
表現の自由は、不適切発言よりも、価値の高いものとされる。もちろん、表現の自由はわかると、でも受け止める側の人権はどうなるのかとの議論もある。しかしスピーチとスカートが短い方がいいと聞いて、人権を侵害される人がいるだろうか。短いスカートがいいと思う人は、そうだねと思うだろうし、長いスカートがいいと思う人や、長いスピーチが聞きたい人は、そうかな、俺は長いのがいいな、ぐらいに思うだけではないか。
ならば憲法の思想信条の自由、表現の自由という、何人も犯すことのできない権利という視点でいくと、今回のパッシングは被害者不明の、市長の表現の自由を奪ったということで、人権侵害になるのではないかと考えます。ジェンダー的にも、LGBTQ的にも、なんら問題ない発言で、これで市長の揚げ足を取って揺さぶりをかけたい議員と、ネタになって金儲けしようとしたマスコミの共同犯罪といわざるをえない。市民の幸せや市政の発展になんら貢献しない、ただの愚弄である。
こうした風潮がもたらす結果の方がむしろ甚大である。それは生きにくい社会であり、マスコミが指定した、世間で通用する表現しかできない社会であり、中国の監視する相手が見える監視社会とは違うが、得体のしれない、見えない、紐でがんじがらめにされ、どこにどう抵抗すればいいのかさえ分からないような、巧妙な監視社会といえよう。
だから多くの市民は、抵抗する相手も分からず、ただ見えない世間と相手にもがいて、絶望してしまう。支配の構造がよくできている。
私達は、こうした見えない紐を解き、真に人間らしく、自由に、表現していけるような社会を目指したい。未来を担う子どもたちが、絶望するような社会にしてはいけない。今回の、二つの市長に対する辞職勧告決議は、まさしく、その見えない監獄、見えない手錠の一つの例である。
敵は確実に私達に足枷、手枷を嵌めようとしている。ならば、それを打ち破るような、突き抜けるような、生命のみなぎるエネルギーで大いに、笑飛ばし、大いに楽しもうではないか。
井上真吾