津和崎灯台から戻るとき、車窓に見えた米山教会に寄ってみました。

米山教会は上五島にある29の教会の最北端に位置しています。
最初の聖堂は1903(明治22)年に建立されましたが、信徒の多くが海岸付近に居を構えるようになったことから、1977(昭和52)年、集落のほぼ中央の場所に新しい教会が建立されたそうです。

津和崎集落に「国選定 重要文化的景観 北魚目の文化的景観」を解説する掲示が掲げられていました。

その概要は、
「津和崎は、海岸沿いから山の斜面のふもと付近にかけて家屋が集中する北魚目の典型的な漁業集落です。
米山は寛政期以降に大村藩外海地方からの農民移住によって開かれた集落で、山の東、北東斜面に形成され、平地はほとんどなく、家屋は点在し、その周囲に耕作地が展開します。
この地区では、上五島にもともと住んでいた人々と外海地方から移住してきた人々の両方によってもたらされた歴史が夫々の集落形態を示す、特徴ある景観です。」
と記されていました。
そういえば、米山に教会がある一方、津和崎には教会がなく、現在も住職を隣島の明覚寺から招き、更に津和崎漁港に恵比須神社を祀っていることが夫々の集落の歴史的背景を物語ります。

津和崎漁港の恵比須神社
米山教会の次に赤波江教会に向かいました。
前々回のページに記したように、赤波江教会は山裾の斜面が海に落ち込む急傾斜の地にあります。

県道32号を南下すると、仲知教会を過ぎた辺りで、赤波江教会へ導く標識を確認しました。

標識に従って県道を左折するとすぐに、道は斜面を下り始めました。
傾斜を緩める為、斜面を横切りながら進む道の空は、木々の枝葉で覆われていました。

道路下に民家が覗く場所に出ると少し視界が開け、その場所から、海の向こうの山腹を横切る道路が見えていました。
3枚上の赤波江教会の写真は、あの道路から現在地辺りを見た光景のはずです。

その場所から数十メートルも進むと、赤波江教会が午後の陽射しの中で朱色の屋根を輝かせていました。

周囲は不思議な静寂に包まれていました。
風にそよぐ木立の葉音もなく、波の音すら聞こえてきません。
教会に隣接する民家に人の気配はなく、瓦を乗せた庇が傾いていました。

坂の下に見える家には、かすかに人の息吹が感じられます。

赤波江教会の出入り口に掲げられた解説に、
「赤波江教会は1884(明治17)年に初代教会が献堂され、現教会は1971(昭和46)年に献堂されたものである。
この教会には、明治10年にフランス人の宣教師が初めて巡回したときの洗礼簿があって、それによると、当時の信者達が比較的自然条件に恵まれた平地と湧き水のある場所を見つけて移住したことが伺える。
この地は急斜面で人を寄せ付けないほどに険しい山の中ではあるが、信仰を守るために移住してきたのであろう」
と記されていました。

県道からこの場所に至る道は簡易舗装されていましたが、そう遠くない昔は、車が入れない未舗装の道であったろうことが容易に想像できます。
ネットで、県道32号を通う定期バスを調べると、津和崎から青方まで75分程かけて、一日4本のバスが片道運賃1320円で運行されています。
通学定期は一ヶ月2万5千円でした。
この地から高校へ通うのは、かなり大変なことでしょう。

赤波江教会を訪ね、信者が暮らす様子を肌身で感じることができました。
そして私は、潜伏キリシタンの人々が人目を避け、信仰とともに、修行僧のように暮らしただろうことを理解しました。
一方私は、五島を離れるフェリーの時間が気になり始めていました。
そろそろ、フェリーが出る有川港へ向かうべきかもしれません。
そんなつもりで走り始めると、県道脇の、
「五島・平戸領境界(仲知)」と題する掲示物に目が留まりました。

その記載概要は、
「貞和2(1346)年の記録によれば、松浦氏、青方氏による領地分にて、ここより北が平戸領となる。
また、正和2(1645)年に、平戸藩、五島藩の間で中通島の境界の確認、制定がなされた。豊かな漁場と塩窯を持ち、古くから領地紛争が絶えなかったことが至徳2(1385)年、青方文書にも記されている」
とありました。
赤江波教会の信徒達は、厳しい地形に居を構えながらも、豊かな海に恵まれ、心豊かな暮らしを得ていたのかもしれません。
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