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凍てつく人吉梅園

2015-03-31 09:27:54 | 九州の梅を訪ねて

 2月9日

 

 人吉梅園の駐車場で朝を迎えました。

 

 結構寒い朝です。

 

 

 周囲の梅の木は凍り付いたような白色に枝を広げています。

 

 大分の吉野梅園の朝も寒かったのですが、今朝の寒さも相当なものです。

 

 

 駐車場の横に人吉梅園の案内板が掲げられていました。

 

 花の季節にはこんな風に、薄紅色の花が丘の斜面を飾るのでしょう。

 

 

 梅園を横切る道路が、丘の上に伸びていたので、車で様子を見に行きました。

 

 すると小さな駅に、ジーゼルのワンマンカーがヴォーンとエンジン音を立てながら、停車していました。

 

 時刻は7時半頃でした。

 

 2~3人の学生らしき乗客の姿が見えています。
 

 

 

 駅名は大畑と表示されていました。

 

 駅前道路の水溜りが白い色に凍っていました。

 

 そんな時、駅からジーゼルカーが発車しましたが、1分もしない内に、反対側に向かって走り去って行きます。

 

 おお! どうやらこの場所でスイッチバックしているようです。

 

 そう言えば、昨晩国道221号線をはしる時に、ヒガンバナ以来となるループ橋を越えてきました。

 

 この急峻な地形が薩摩と肥後の気風や風土を隔てたのでしょう。


 加藤 清正と島津の勢力を隔てる舞台装置を見るような思いがします。


 

 

 再び梅園に戻ると、朝日が山の頂を越えて梅の木を照らし始めました。

 

 光はいつも、ありふれた風景を一瞬のうちにフォトジェニックに変化させる魔術師です。

 

 

 

 私は昨晩、資料を確認し、ルート選定に大きなミスを犯していることに気付きました。

 

 人吉梅園から、水俣へ向かう予定をしていたのですが、鹿児島県の薩摩川内にある藤川天神の臥龍梅を見落としていたのです。

 

 ここの臥龍梅は日本最大のものと言われています。

 

 30~40キロを戻ることになりますが、迷うことなく、国道267号を薩摩川内へとはしり始めました。

 

 

 山間を縫うように、柔らかな陽射しの中に田舎道が続ゆきます。

 

 

 1時間半程はしった頃に、目の前に小高い峰が見えてきました。

 

 地図で確認し、高倉山かと思うのですが、自信はありません。

 

 

 そして、その峰を廻り込んだ時、何と言うことでしょう。

 

 山の木立に薄い雪化粧が施されていたのです。

 

 

 本当に驚きました。

 

 北九州の雪にも驚かされましたが、まさか、これほど南に下った場所で、再び雪を見るとは思ってもいなかったのです。

 

 九州の気象に関する認識が、明らかに間違っていたと痛感させられました。

  

 

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鹿屋市の「めがね橋梅園」

2015-03-30 14:53:15 | 九州の梅を訪ねて

 

 宮崎県都城市から進路を南に取ります。

 

 国道269号を鹿屋市へ向かいました。

 

 

鹿児島県鹿屋市は、鹿児島湾の東側に伸びる大隅半島の中央部に位置し、半島の行政、経済、産業の中核をなす人口10万強を擁する都市です。

 

 鹿屋市にはかって、日本海軍航空隊の基地が置かれ、第二次世界大戦中は特攻隊の出撃基地となっていました。

 

 現在も海上自衛隊の基地が置かれ、国防拠点としての役割を担っているそうです。

 

 

私が鹿屋市を目指したのは、鹿屋市の「めがね橋梅園」を訪ねるのが目的でした。

 

 めがね橋は鹿屋川を交差する国道に掛けられた橋で、「袚川大園の石橋」として市の文化財に指定されています。
 

 

 

 ネット情報では、めがね橋横の通称「めがね橋梅園」は、近くの老夫婦が50年ほど前から100株ほどの梅を育て、季節になると市民に無料開放しているとありました。

 

 

 しかし、実際には数十坪ぐらいの庭に20本弱の枝垂れ梅と、20本程度の梅の鉢が並べてあるのみで、梅園と云うには少々寂しい状況でした。

 

                  

 

園内には、

  「日数まつ春を遅しと白雪の 下より匂う梅の初花」 

                         詠み人知らず

 の句が掲げられていました。

 

 本当に拍子抜けする程の、ちいさな梅園でしたが、何だか、この梅園を目指し1000キロ以上をはしってきた自分を褒めたいような、ほのぼのとした感慨に浸ることができました。

 


 

「めがね橋梅園」をしかと確認した後、私は「かのやばら園」を訪ねることにしました。

 

 鹿屋市はバラを市の花に制定し、日本屈指のバラ園を1993年に開設しています。

 

 めがね橋に着いたのが既に17時を過ぎていました。

 

 2月上旬のこの季節ではバラを見れる筈はないのですが、国内有数のバラ園の門だけでも見ておこうと、国道脇の「バラ園→」の看板を頼りにバラ園のある霧島ヶ丘公園を目指しました。

 

 バラ園の駐車場に車を停めると、予想通り、バラ園は既に門を閉ざしていました。

 

 管理棟の裏手に広がる広大なバラの庭園に花の姿は見えません。

 

 

 何時かまた訪ね来ることができるのでしょうか?

 

 明日のことは全く分かりません。

 

 年毎に変動する、花の開花時期に合わせることは更に困難を極めます。

 

 我ながら、因果な遊びに嵌ったものだと思います。

 

 バラ園から鹿屋市内へ向かう途中、北の方角の高隅山が雲を被っていました。

 

 右手に明るく開けた場所が海上自衛隊の鹿屋空港でしょうか。

 

 

 今夜は次の目的地の人吉まではしる予定です。

 

 明日は2月9日。

 

 5日後の14日夕方には、同窓会が開催される博多に着いていなくてはなりません。

 

 ナビへ人吉梅園の住所をインプットし、20代後半かと思える、ナビのお姉さんのアナウンスに導かれ鹿屋市内を抜けて行きました。

 

 

 

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宮崎の梅園と椿園

2015-03-27 21:18:14 | 九州の梅を訪ねて

 

日南線「子供の国」駅付近のコンビニで再度道を確かめて、好隣梅に無事到着しました。

 

 好隣梅は自然休養村の中にある梅園で、自然休養村は青島に隣接しているために青島自然休養村とも呼ばれているようです。

 

 宮崎市のホームページでは、住所が「宮崎市大字加江田6896番地」となっています。

 

 インターネットで検索すると、殆どの全てのページが「青島自然休養村 宮崎市大字加江田」と記載されていました。

 

 多分、最初に紹介したページをそのままなぞっているのでしょう。

 

 インターネット情報はその程度のクオリティーと考た方が良さそうです。

 

 便利で、安価で、多くの情報を瞬時に得ることができますが、残念ながら情報の信憑性に関しては、書籍に遠く及びません。

 

 

坂道を上って行くと、坂の途中から、路肩に車が並び始めました。

 

 警備員の方に誘導され、私も道路脇に車を停めました。

 

 

 100メートル程も歩くと、笛や太鼓とともに、広場で御神楽が行なわれていました。

 

 そう言えば、今日は日曜日。

 

 今日から梅まつりが始まったようです。

 

 広場に張られたテントの中で甘酒が振舞われていました。

 

 

 梅まつりは賑やかでしたが、残念ながら梅の花は下の写真の通りでした。

 

 自然休養林はハイキング・自然観察会など、市民のレクリエーションの場として整備され、梅の木も5~6ヶ所に分かれ約1700本が植えられているようです。

 

 しかし、この梅の開花状況では、流石にハイキングコースを歩く気にはなれません、

 早々に次の場所を目指すことにしました。

 

 

 

 自然休養林から車で30分程はしり、山道を上って、宮崎椿山森林公園を目指しました。

 

 

この公園は、椿の名所として愛好家に知られており、椿の写真を撮り始めた頃から一度は来てみたいと思っていたのです。

 

 

 公園は昭和59年から整備を始め、現在は約1000種、約5万本の椿が植栽され、平成15年に国際ツバキ協会から、国内で初めて「国際優秀椿園」の認定を受けています。

 

 

 椿の花は12月頃から咲き始め、4月上旬まで見られるそうですが、今の4季節では多くは望めそうもありません。

 

 椿の花を求め園内を歩くことはしませんでした。

 

椿の花の観察と撮影は、自宅から通える東京や埼玉の植物園で腰を据えて取り組むつもりです。

 

 今回は、椿山森林公園の様子が分かれば、それで満足です。

 

 

 公園の管理事務所から北を望むと、双石山(ぼろいしやま)が見えていました。

 

 

 駐車場の東屋で、冬山装備のハイカーが携帯コンロでインスタントラーメンを作っていました。

 

 お話を聞くと、加江田渓谷を麓から3時間かけて登ってきたそうです。

 

 椿山森林公園の周囲には花切山(669m)や双石山(509m)など、程好のハイキングコースが整備されています。

 

 この季節には虫もいないので、快適な山歩きが楽しめるそうです。

 

 

 

 

 椿山森林公園を14時を過ぎに出発しました

 

 宮崎県内での訪問予定先は後一ヶ所を残すのみです。

 

 ナビに予定先住所を入力しますと、2時間弱の時間を要することが分かりました。

 

 しかし、ナビは都市部の走行条件で計算しますので、信号が殆どないコースでは、所要時間は大幅に減少します。

 

 目の前に見えているのが霧島連山かもしれません。


 予定通りの順調なドライブが続きました。

 

 

 

 そして、宮崎県都城市高崎町大牟田。

 

 宮崎県で予定した最後の梅林「高崎梅林」には15時半頃に到着しました。

 

 

 

  町を望む丘の斜面に470本の梅が植栽されています。

 

 しかし今までの梅園同様、この梅園も花の季節には早すぎました。

 

 この梅林は、町で旅館業を営む相良俊信さんが竹や杉が生い茂る1ヘクタールの山を開墾し、高崎町の名所にしたいと10年程前から梅を植え始めたのだそうです。

 

 花の季節に梅園は、無料開放されるそうです。

 

 家業の助けになればとのことでしょうが、この様に一途に努力を重ねるお話を聞くと、胸にジンと来るものがあります。

 

 

 陽が西に傾き始めた高崎町の丘の上で、僅かに花を付けた白梅を眺めながら、努力を惜しまず、懸命に暮らす人々が、何時までも健やかであって欲しいと心から願ったことでした。

 

 

  

 

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青島に梅を探す

2015-03-26 20:44:50 | 九州の梅を訪ねて

 

 宮崎市内を抜けて南へはしります。

 

 目的地は青島自然休養村です。


 ナビに宮崎市加江田と入力しました。

 

 椰子並木の国道をはしり、運動公園が近づくとジャイアンツ球団の旗が並んでいました。

 

 春季キャンプが行なわれているようです。

 

 

  色とりどりの花が道路脇を飾っていました。

 

 

 やがて、「こどものくに」の付近で、ナビが「目的地に到着しました」と告げました。

 

 道路際の生垣越しに「こどものくに」を覗くと、寒桜が満開の花を咲かせていました。

 

 

 しかし、梅園は何処にあるのでしょう?

 

 とりあえず青島に渡ってみることにしました。

 

 青島亜熱帯植物園のパーキングに車を停め、海岸に沿って青島を目指します。

 

 

 青島に渡る弥生橋のたもとには、綺麗な砂浜が広がっていました。

 

 

 ウインドサーフィンの帆が2月上旬を忘れさせます。

 

 

 そういえば、青島には何度も来ていますが、島で梅の木を見た記憶がありません。

 

 しかし、島に行けば何か分かるかもしれないと、取り敢えず島をめざしました。

 

 

 島に渡り、目につく限りの掲示物を確認しましたが、梅園の文字は見当たりません。

 

 

 神社に梅園はつきものなので、青島神社の境内に初めて入ってみました。

 

 

 拝殿の右手の絵馬掛けの下に、島の奥へと通じる道が伸びていました。

 

 

 青島全島を覆う、国指定特別天然記念物のビロー樹の解説を読みましたが、ここにも梅の文字は見えません。

 

 そもそも、天然記念物が覆う島へ梅を持ち込むはずはないし、変だな~

 

 

 その先に祠があり、「元宮」の掲示が見えます。

 

 元宮の周囲はビロー樹に囲まれ、道はそこで途絶えていました。

 

 

 祠の横に、貝殻が積み上げられていました。

 

 後ろの「真砂の貝文」の説明によると、

 

 「ここ青島は、二千四百年前の隆起海床に貝殻が堆積してできた島である。・・・」

 

 と記載されていました。

 

 えー! そうなんだ。

 

 そんな所に梅が育つはずはありません。 

 

 

 狐に摘ままれたような、半分諦め気分で、車に戻りました。

 


 

 帰りは、入場無料の植物園の中を通り、門の前までやって来ますと、観光客にアンケート調査をしている小母さんがいたので、

 

 「この辺で梅の花が咲いている場所をご存知ないですか?」

 

 と聞いてみました。

 

 

 すると、「子供の国」駅の裏手の山の中に「好隣梅」という梅園があると教えてくれたのです。

 

 アンケートにも答ながら、雑談をしていますと、

 

 手に持っていた保温瓶の甘酒を「今朝家を出る時に作ってきたから、飲みませんか」と勧めてくれました。

 

 混ざり気のない、程好い甘さの甘酒でした。

 

 

 「美味しいですね!有難う御座います。

 

 実は、私は旅のブログを書いるのですが、写真摂らせてもらっていいですか」

 

 と言いながら、レンズをむけると、

 

 「いやー、恥ずかしい」のお言葉が返ってきました。


 そうそう、お嬢さんが一人、ニューヨークのマンハッタンに暮らしているそうで、そのことがとても嬉しそうでした。


 甘酒の程よい暖かさが、何処に居ても変わらぬ親心そのもののように思えました。

 

 

 

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宮崎市民の森

2015-03-25 21:06:30 | 九州の梅を訪ねて

 

 宮崎市民の森にやってきました。

 

 

 

 入口の管理事務所で梅園の位置をお聞きして、公園の中を歩き始めました。

 

 遊歩道を歩きはじめるとすぐ、路傍に歌碑が現れました。

 

 「雲はどこにでも 似つかわしい 姿で 現れる」 

 

                            中村地平

 

  とあります。

 

 私は中村地平という人を知りませんが、なかなかにいい詩です。

 

 

 

 石碑に添えられた年譜に

 

 中村地平は明治41年2月7日 宮崎市当時町に生まれるとあります。

 

 昭和5年に東大にすすみ、佐藤春夫、井伏鱒二、川端康成、太宰治などと交友したと記載されていました。

 

 

 更に調べますと

 

 大学卒業後に新聞社に入り、芥川賞にノミネートされるような作品を発表したようです。

 

 疎開して宮崎に戻り、昭和22年に宮崎県立図書館長となり、晩年は父の後を継いで宮崎相互銀行社長を務めたようです。

 

 

 歩を先に進めると、 木立の下に幾つもの歌碑が見えてきました。

 

 

 最初に目にしたのは、次のような万葉歌碑でした。

 

 

 しい 和名スダジイ ブナ科

 

 家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕(くさまくら)

 旅にしあれば椎(しい)の葉に盛る


                           有馬皇子

 

 

 

 何だか、車に寝泊まりしながら旅する、今の私を詠っているような気がして、意味もなく嬉しくなりました。

 

 2、3年前から樹の観察を始めたので、椎の葉のイメージが瞬時に湧き上がります。

 

 

 この公園は樹木に関する万葉集の歌碑を随所に設置しているようです。

 

 なかなかにお洒落な公園です。

 

 

 くは 和名クワ クワ科

 

 筑波嶺(つくはね)の、新染(にいくは)まよの きぬはあれど

 君がみけしし あやに着ほしも
                                         

                           常陸

 

 「筑波山のクワで育てた繭の着物があるので、貴方に着て欲しい」という意味でしょうか。

 

 

  


 興味を惹かれ、歌碑毎の万葉集を読み進んで行きました。

 

 

 つばき 和名ヤブツバキ ツバキ科

 

 奥山(おくやま)の 八峰(やつを)の椿 つばらかに 今日は

 暮らさね 大夫(もののふ)の徒(とも)

 


                         大伴家持

 

 「奥山の峰の椿のようにはつらつと、男たちよ、今日一日を過ごしてください。」
  

 


 幾つかの歌碑を鑑賞し終えた頃、目の前で照葉樹の森が開けました。

 

 そして、風に香りをのせた紅梅が、柔らかな光の中で春を告げていました。

 

 

 

 梅林の横に、数日前に北九州で見て来たような情景を詠った、大伴家持の歌碑が見えています。

 


 うめ 和名ウメ バラ科

 

 今日零(けふふ)りし 雪に競ひて 我が家前(やど)の

 冬木(ふゆき)の梅は 花咲きにけり


                        大伴家持

 

 「今日降った雪と競うように、私の家の冬枯れの梅に花が咲きました。」

 


 

 花や木も、このような歌が添えられるとイメージが広がり、楽しさが膨らみます。

 

 

 

 

 帰り道で、森の中の池が静かに緑を映しこんでいました。

 

 水面は、水温むという言葉がそぐわしく思える表情を見せていました。

 

 

 

 

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西都原と高岡の月知梅

2015-03-24 20:10:27 | 九州の梅を訪ねて

  

 

 次の目的地は西都原古墳(さいとばるこふん)。

 

 以前からかなり気になっていた場所です。

 

 宮崎には幾度か来ていますが、なかなか西都原まで足を伸ばすチャンスがありませんでした。

 

 

 「湯の宮座論梅」から西都原古墳までは、車で20分も掛かりません。

 

 道路脇に「西都原古墳」の標識が見え、右手にUFOのような形をした古墳が現れました。

 

 

 古墳の手前に解説板が設置されていました。

 

 

 今回の旅は梅を見ることが主目的ですから、古墳を詳細に見て歩くつもりはありませんが、3~4世紀にかけて前方後円墳が作られ始め、4世紀から6世紀は円墳、5世紀後半から6世紀にかけて地下式横穴墓群がつくられました。

 

 6世紀末に鬼の窟(おにのいわや)古墳を最後に、西都原の古墳の築造は終了したそうです。

 

 

 6世紀は飛鳥時代に当たります。

 

 646年には大化の改新が始まり、662年には百済救援の為に朝鮮に遠征し、白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗しました。
 

 

 北九州からは、飛鳥の都よりも近い場所で、唐の脅威を感じる状況となり、664年には筑紫に大宰府を守る水城が造られました。

 

 西都原周辺の首長にも大きな影響が及んだことは想像に難くありません。

 

 

 実は、私は日本史が得意ではありません。

 

 高校生の時に、受験科目から日本史を外した程ですから、今回ブログを書くに当っては、歴史を一から調べ直しました。

 

 60有余にして再び、「学を志す」の状況です。

  

 古墳の上に登って周囲を見回すと、野菜畑や茶畑の中に幾つかの古墳が見えていました。

 

 

 しかし、本来の目的の梅の木が見えませんので、車に戻り、古墳群の中の道を北西方向に向かいました。

 

 1kmもはしらない内に、舗装道路を外れた畦道の奥で、亜麻色に枯れた草の上に、白梅を見出しました。

 

 

 周囲が広すぎる為でしょうか、梅の姿に共鳴するものが、私の中に湧き上がってきません。

 

 これほどまでに開けた風景の中では、梅花は、一輪毎に香る繊細な味わいを消されてしまうのかもしれません。

 

 

 梅の元を離れる道筋に、見事な桜並木が続いていました。

 

 このような情景にあっては、見上げれば、空を染め上げる桜こそがお似合いだろうと思えました。

 

 

 梅と桜の違いは多々ありますが、

 

 梅木の下は思索をやすめ、一人毛氈に吟醸酒を酌み

 

 桜木の下は心をやすめ、友と縁台に地酒を酌み交わしたいものです。

 

 

 

 次に訪ねたのは「三州三梅」の一つ、月知梅です。

 

 月知梅は、今から約200年前までは一株でしたが、その後、地に着いた枝が根を張り、新芽を出して四方に株を増やし、現在では70株を数えるそうです。

 

 

 

 先に訪ねた「湯の宮座論梅」と同様、イチゴなどの匍匐茎(ランナー)と同じ繁殖をウメが行なっていることになります。

 

 改良を重ねた品種は一般的に繁殖力が弱くなる傾向がありますので、月知梅はより原種に近いかもしれません。

 

 ウメは中国から渡来しましたので、原種に近いウメが九州に多く残るのは、興味深いことです。

 

 

 この木も国指定天然記念物で、みやざきの巨樹百選に選ばれています。

 

 

 「湯の宮座論梅」の花は白色一重でしたが、月知梅は白色八重の花を咲かせていました。

 

 

 

 梅を見ていると、梅園横の公民館から、笛と太鼓の賑やかな音が聞こえてきました。

 

 何だろうと思い覗いてみますと、若者達が神楽の練習をしていました

 

 

 

 もうすぐ、梅まつりが始まるようです。

 

 

 

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湯の宮座論梅と四つの座論梅

2015-03-23 12:06:52 | 九州の梅を訪ねて

 

 次に訪ねたのは、隣町の新富町湯之宮にある「湯の宮座論梅」です。

 

 

 目の前には白い花を付けた梅林が広がっていました。

 


 

 どうやら、この梅林全体が座論梅で、一本の樹齢300年以上と推定される白梅が、伸ばした枝を地面に着け、そこから根と新芽を出して、四方に株を増やしてきたようです。

 

 花は白の一重でやや小ぶりです、 実は種が大きくて果肉が薄く、現在の実梅よりも原種的な品種と考えられています。

 

 
 新富町のホームページには、

 

 「湯之宮地区にある古い梅園です。

 

 もとは1本の木から増えたといわれ、神武天皇が立てた梅の木の杖から芽ぶき、元木になったとの言い伝えがありますが、その始まりは定かではありません。

 

 江戸時代の文献に歌が登場することから、今から300年前には今の梅園として有名だったようです。

 

 現在60以上の株があり、白い一重の花を咲かせます。

 

 国内に梅の国指定天然記念物は5ヶ所しかなく、江戸時代には、鹿児島県薩摩川内市東郷町の藤川天神梅、宮崎市高岡町の月知梅とともに、「三州三梅」と呼ばれました。

 

 「座論梅」のいわれは、「ザロミ」という梅の品種からきたという説や、人々が集って話し合う様子からきたという説、江戸時代の藩境の協議がここであったからという説などがあります。」

 

 と記載されていました。

 

 

 以前から、座論梅に関する知識は持っていましたが、実際に目にした迫力はかなりのものです。

 

 陳腐な表現ですが、「百聞は一見に如かず」の言葉通りでした。

 

 何だか、還暦を迎え、学んだことを実際に見に行く、人生の修学旅行のような気分になってきました。


 

 

 実は、座論梅と呼ばれる梅の品種は、私の知る限り四種類あります。

 

 一つはこの場所の「湯の宮座論梅」。

 

 二つめは、東京の池上梅園にある座論梅で、その解説によると、梅の愛好家の野村さんが中国から持ってきた座論梅を株分けし、池上梅園に寄贈したのだそうです。

 

 この座論梅は一つの枝に対になって花が咲き、その姿が中国の賢人(孔子と老子)が向き合って議論を交わしている様に似ていることから座論梅と命名されたそうです。

 

池上梅園の座論梅

 

 三つめは、一輪の花に3~8個の実がなり、その実が座って議論をしているように見えることから座論梅の名がつき、八房梅(やつぶさうめ)とも呼ばれます。

 

 この梅を私が最初に見たのは、新潟県の梅護寺でした。この梅は、親鸞聖人が梅干しの種を庭に植えたところ、この実から芽が出て花1つに8つの実を結ぶようになったと伝えられ、越後七不思議のひとつとされています。

 

梅護寺の座論梅

 

 四つめは中津川市駒場の桃山公園の女夫梅(座論梅)です。この梅を私はまだ見たことがありませんが、白い八重の花と実の各々が対になる特徴があるようです。

 

 

 「湯の宮座論梅」は宮崎県以外では、唯一東京の神代植物公園でも見ることができます。

 

 また、二つめの座論梅は、水戸の偕楽園でも見られるようです。

 

 三つめの八房の座論梅は、以下の数か所で見ることができます。

 

  常勝院 福島県いわき市平中平窪字岩間61 花期 3月下~4月上旬

 

  梅護寺 新潟県阿賀野市小島377 花期 4月中旬

 

  岩窪八房の梅 山梨県甲府市岩窪町信玄公廟所 花期 3月下旬

 

  洞雲寺 山梨県牧丘町北原1116 花期 3月下旬

 

  八房の梅 山梨県都留市大幡4229 花期 3月下旬~4月上旬

 

  聖蓮寺 岐阜県不破郡関ヶ原町今須2367 花期 3月下~4月上旬 

 

  月照寺 兵庫県明石市人丸町1-29 花期 2月中旬~3月上旬

 

  柿本神社 兵庫県明石市人丸町1-26 花期 2月中旬~3月上旬 

 

  雲乗寺 福岡県宗像市朝町2410 花期 2月下旬~3月上旬   

 

 

 

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高鍋の舞鶴公園の梅

2015-03-22 22:47:12 | 九州の梅を訪ねて

 

 2月8日

 

 昨日は、国道219号線をはしり、西都市の西都温泉で汗を流し、高鍋町の片隅で一晩を過ごしました。

 

 夜明けと共に目を覚まし、コッペパンをかじりながら、7時半頃に高鍋町の舞鶴公園に到着しました。
 

 

 公園に着くとすぐに、南国らしからぬ、涼やかな朝の空気の中で、梅の花探しを始めました。

 

 舞鶴公園は高鍋城跡を公園として整備したものです。


 高鍋城舞鶴城とも呼ばれることが、公園名の由来となっています。

 

 

 高鍋城は平安時代末期に宇佐八幡の神官の出で、日向で豪族となった土持氏によって築かれたと言われます。

 

 1587年に豊臣秀吉が九州を平定するとき、薩摩の島津氏側に付いた、筑前秋月城主の秋月種実が、降伏後に高鍋に移封され、その後幕末まで高鍋城は秋月氏の居城となりました。

 

 鶴舞公園の石段を上がると、すぐ上の萬歳亭の裏手に、20~30本の梅の古木が花を咲かせていました。

 

 

 樹齢を重ねた古木に花が咲く姿は、賢人が沈思黙考するような趣を感じさせます。

 

 鶴舞公園には100本の梅があるとされます。

 

 後から分かったことですが、残りの60~70本の梅は高鍋城跡の上の広場にあるのだそうです。

 

 本丸へ登る坂を挟んだ反対側に、舞鶴神社がありました。

 

 華やかな紅梅が、舞鶴神社の鳥居横で枝を広げていました。

 

 

 舞鶴神社の拝殿の両脇に、白い柵に囲まれた白梅と紅梅が見えます。

 

 

 白梅には「一重青白大輪 東京茶青」、紅梅には「八重桃色大輪 肥後紅」と梅の品種名が表示され、大宰府天満宮から寄贈されたと表示されていました。

  

 

 

 境内には昭和26年に指定された、国の天然記念物「高鍋大楠」がありました。

  

 指定されたとき、枝張り東西28m、南北29mに及び、地面よりの高さは約35mだったそうです。
 

 

 

 平成4年の高鍋町教育委員会の説明板には

 

 「県内でも珍しい古木で、旧八幡神社の神木であった。

  明治以降、宮崎県山林会指定の老樹名木となっていたもので樹齢は500年を越えるといわれている。

 

 高さ16メートル、根周り13メートル、目通り幹周10メートル余である。

 地上約2メートルの高さから南北の2支幹に分かれている。

 枝張りは東西20メートル、南北に28メートルある。

 

 昭和20年終戦直後の台風により幹や枝を損傷し年々老衰が目立つようになったものの、依然として古木の風格を保っている。」

 

 と記載されていました。

 

 みやざきの巨樹百選にも選ばれているそうです。


 

 ブログを書くに当って、高鍋城や秋月氏に関する歴史を調べてみました。

 

 すると、元アメリカ大統領のJ.F.ケネディに「最も尊敬する日本人政治家」と言わしめた、江戸時代の名君、米沢藩主の上杉鷹山は、秋月氏6代種美の次男で、母方祖母の実家である米沢藩上杉氏に養子入りし、米沢藩主となっていたことを知りました。

 

 また、鷹山の兄である秋月種茂も、明倫堂という藩校を設立し、高鍋藩の歴代藩主の名君として名が知られているそうです。

 

 大分の杵築で、豊後の国は学問好きが多いようだと感心しましたが、日向の高鍋藩も教育熱心では、引けを取らぬ歴史があるようです。

 

  

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樅木尾有楽椿(もみきおうらくつばき)

2015-03-21 22:58:27 | 九州の梅を訪ねて

 

 宮崎県西都市尾八重(おはえ)の「有楽椿の里」には、みやざきの巨樹百選に選ばれた椿がひっそりと花を咲かせていました。

 


 

 この木は、樅木尾有楽椿(もみきおうらくつばき)と呼ばれ、平成3年に宮崎県から天然記念物に指定されています。

 

 推定樹齢500年、幹周り243cm、樹高9.8m、枝張り13.4メートルの有楽椿と呼ばれる椿の品種で、現存するものの中では日本最大級です。

 

 

 有楽椿は室町時代の頃、中国から導入された西南山茶(ピタールツバキ)と日本のヤブツバキの雑種ともわれ、京都を中心とする地域で出生したと考えられますが、詳細は明らかではありません。

 

 現存する有楽椿は、京都や奈良など、由緒ある古社寺や、格式ある旧家でしか見られません。

 

 

 豊臣秀吉、千利休から江戸時代にかけて、上流階級の間で行われた茶会記に出てくる「薄色椿」は有楽椿を指すのではないかと考えられています。

 

 

 有楽椿の名は、千利休に茶道を学び、後に茶道有楽流を創始した織田信長の実弟織田有楽斎が、この椿を茶花として愛用したことに由来すると言われます。

 

 有楽椿は江戸で太郎冠者と呼ばれていました。

 

 家康が都を定めた江戸で、織田信長の実弟の名に由来する「有楽椿」と呼ばなかったのは、何となく分かる気がします。

 

 

 そのように、はるかな都で珍重されていた有楽椿が、このような九州の山中にあるのは不思議ですが、この辺りは、かっては政治、経済、交通の中心地として栄えたのだそうです。

 

 

 推定樹齢が500年の樅木尾有楽椿。

 500年前と云えば戦国時代でした。

 

 1587年には秀吉が九州を平定しています。

 

 この頃、秀吉の軍と人の動きに伴って、有楽椿が九州にもたらされたと考えれば、辻褄が合うストーリーを想像することができます。

 

 

 樅木尾有楽椿の前に「有楽椿の里」と、周辺にある尾八重有楽椿(おはえうらくつばき)、大椎葉有楽椿(おおしいばうらくつばき)の解説がありました。

 

 

 尾八重有楽椿は「西都市大字尾八重920番地 黒木丑畩さんが所有する椿で、黒木さんの住宅北側の一段高い畑地にあり、排水、土壌、日照など椿の生育には最適な場所にあります。

 

 樹高9.2m、幹周りは盛大で2.02m、地上1.5m余りで2本に分枝し、さらにそこから孫枝に分かれています。」と記載されていました。
 

 

 

 大椎葉有楽椿は「西都市大字尾八重394番地・395番地 中武辰雄さんが所有する椿で、 樅木尾有楽椿の南方約3km、大椎葉集落内の東側に位置する旧中武辰雄氏宅入口傾斜面にあります。

 

 通風、排水は極めて良好で、樹高9mを有しています。樹幹は、地上0.55m余りで分枝し、さらにそこから孫枝に分かれています。」とありました。

 

 

 

 解説には地図も付されていたので、取り敢えず、次は近くにある尾八重有楽椿を訪ねてみることにしました。

 

 

 

 先ほど通り過ぎてきた、尾八重神社り口まで戻り、

 

 

 集落を探し歩きましたが見当たりません。

 

 県の指定を受けた天然記念物ですから、すぐに分かると思ったのですが、見付けることはできませんでした。

 

 

 

 集落には人影もありませんので、灯りを点けた一軒の家のドアをノックして、出てきた小母さんに、尾八重有楽椿のことを聞いてみましたが、小首を傾げて「さあ、分かりません」の返事が返ってきました。

 

 

 考えてみれば、県から天然記念物の指定を受けたのが平成3年で、しかも個人の所有物です。

 

 所有者が、今も集落に居るとは限りません。

 

 他人の敷地に勝手に入って行くわけにもいかないので、尾八重有楽椿探しは、この時点で諦めることにしました。

 

 (ブログを書くに当って調査したところ、尾八重有楽椿は2001年に枯死したようです。)

 

 

 既に時刻は5時半を過ぎ、辺りは薄暗くなり初めていました。

 

 

 今日は朝一番に、凍りつく空気の中で咲いた白梅を眺め、菜の花の咲く堤防を歩き、戦国時代から咲き続けた巨樹に出合えました。

 

 

 今日も沢山の、未知なるものに出合い、満ち足りた、お腹いっぱい胸いっぱいの一日となりました。

 

 多分明日も刺激的な旅が待っていることでしょう。

 

 

 私は、温かい風呂に浸かることを想い描き、明日の訪問予定先である、高鍋町の舞鶴公園に向け、車のヘッドライトを点しました。

 

 

 

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九州の山深く

2015-03-20 20:06:34 | 九州の梅を訪ねて

 

 かいごん塔から国道388号、446号を戻り、尾鈴山を周り込んで西都市へ向かう県道22号に入りました。

 

 県道22号は工事中で、一時間に一回だけ通行できる交互通行規制が行われていました。

 

 

 県道22号に入る分岐点に、何やらそれらしき表示がありましたが、ダメなら戻ればいいと、タカをくくって、ここまではしってきました。

 

 なにしろ、ここを通れないとなれば、今日は、この後の計画が全てご破算なのです。

 

 「停止位置」の場所で、赤白の旗を持つ小父さんに、「あとどれくらい待つの?」と聞くと「10分ぐらい」との回答が得られました。

 

 私の車の練馬ナンバーを見て、「東京からはしって来たの?」と聞かれましたので、4日夜に東名を出発して、車で九州の梅を廻っていることを話しました。

 

 「これから何処まで行くの?」と聞かれたので、次の目的地の「大椎葉有楽椿」の住所を伝えると、

 

 「そりゃ、だいぶ遠いね」との返事が返ってきました。

 

 そうなんです、このルートが通れないなら、私の今日の旅はもう店じまいです。

 

 こちら側の通行時間が来て、ゴーサインと共に県道22号をはしり始めました。

 

 はしり始めて直ぐに、小丸川を渡りました。
 

 

 

 小丸川の左岸を下流へと向かう県道22号は、道巾が広がり、心地よいドライブが続きました。

 

 


 下流にダムがあるのでしょう、小丸川は森の緑を溶かし込む色に水を湛えていました。

 

 

 エメラルド色の水の上の、赤錆びた橋を対岸へ渡ります。

 

 

 周囲の山々の深い緑が、水辺にこぼれ落ちそうです。

 

 

 橋を渡りきると、中之又の分岐に出ました。

 

 

 その先で、再び道巾が狭まりました。

 

 

 対向車があれば、ちょっと厄介そうな道です。

 

 

 100メートル以上にも亘る工事区間は、右側が山の崖で、左側も路肩から崖が川へ垂直に落ち込んでいました。

 

 この状況では、交互通行も致し方ありません。
 

 

 

 左手に小丸川を見て、交互通行の道を進みました。

 

 対向車の心配がないので、周囲の景色を眺める余裕が生じます。

 

 

 道路標識も信号もない緑の道で、ハンドル操作にだけ注意して、運転を楽しみつつ、はしり続けました。
 

 

 やがて、小さなダムの脇を通過しました。

 

 

 暫くはしると、谷と道路幅が広がり、緊張感から解放されましたが、今度はちょっと退屈です。
 

 

 

 しかし、ここからが長かったのです。

 

 

 県道22号から、国道219号へ入り、一ツ瀬ダムの手前で右折して、大椎葉トンネルを抜け、尾八重川に沿って進みました。

 

 トンネルの入り口に見かけた後、要所要所に現れる、「有楽椿の里 」の看板を頼りに進みますと、道は途中から尾根へ登り始めました。
 

 

 

 

 気付くと、尾八重川を谷底に見下ろす尾根の上にいました。
 

 

 

 その先の「有楽椿の里 →」の標識は右手の尾根に通じる道を示し、距離は11kmとあります。

 

 

 車はナビの画面の中で、道のない、山の斜面を進んでいました。

 

 ナビを購入して7年程が過ぎましたから、ナビも相当疲れてきたようです。

 

 此処まで来ると、時折出てくる標識だけが頼りです。

 

 

 やがて、道は下り坂となり、

 

 

 その先の集落で、再び「有楽椿の里 →」の表示を目にしました。

 

 残りは5km。

 

 

 しかし道は、集落を抜けた後、反対側の尾根に登り始めました。

 

 時間は既に17時を過ぎていました。

 

 さすがに心配になり、のろのろと通りかかった車に声を掛けて、道を尋ねました。

 

 集落に人影は全くありません。

 このチャンスを逃がすと、二度と人に出会うことはなさそうに思えました。

 

 

 そして、やっとのことで「有楽椿の里」の駐車場に辿り着いたのが17:10分。

 

 現在地をナビで確認すると、県道22号線で工事中だった場所の、尾根を挟んだ反対側でした。

 

 

 

 

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かいごん塔 梅畑

2015-03-19 11:21:21 | 九州の梅を訪ねて

 

 若山牧水の生家を出て、国道446をはしり、右折して国道388に入りました。

 

 道路情報の電光掲示板に赤く「通行注意 路面凍結」の文字が見えています。

 

 

 暫くはしって左折し、町道106号に入ります。

 

 曲がり角に「梅園へ あと4k」の掲示を確認しました。

 

 

 2,3キロも進むと新折立橋に出ました。

 

 水清谷川に掛かる新折立橋には、水清谷音頭が刻まれていました。

 

 「山はつづらん 高峠 ホラ ・・・ 」とあります。

 

 

 

 なんだか、ほんわりのどかな気分になってきました。

 

 「梅園 →」 の看板の先には小高い尾根に登る道が見えていました。

 

 

 イギリス湖水地方のハイ・アドヴェンチャーを想い出させる、車一台がやっと通れる程の道を上って行きます。

 


 

 5分程もはしったでしょうか、突然目の前に空が広がりました。

 

 

 そして、そこで目にしたのは、標高数百メートルの峰に広がる一面の梅畑でした。

 


 

 周囲には、人の気配を全く感じさせない峰々が連なります。

 

 

 こんな光景は見たことがありません。

 

 

 たまたま、剪定作業をしていた方に、お話を聞いてみました。

 

 この峰の名は「かいごん塔」で、平成元年に梅木を植栽し、折立の集落の人達が麓から通いながら実梅(南高梅)を育てているそうです。

 

 

 この場所は寒暖の変化が大きく、良質な実梅が収穫できるそうです。

 

 写真では、十分にスケールが表現できていませんが、この梅畑一面に花が咲く光景を想像するだけで、瞳孔が拡散するような気分になりました。

 

 帰りも慎重に下りて行きましたが、雑木林の中から猪でも出てきそうな雰囲気です。

 

 

 

 戻り道で再度折立橋を渡りましたが、水清谷音頭四番の

 

 「霜の峠路 雪の峰 ホラ ・・・ 

 

 親の築いた 道清く ホラ ・・・」

 

 との文言に、高い尾根の上を開墾し、子孫に残してくれた先人達への感謝の気持ちが溢れていました。

 

 

 

 

 

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若山牧水の生家

2015-03-18 18:44:17 | 九州の梅を訪ねて

 

 

 都農から北へ戻り、高速道路を日向ICで下りて、国道327号を西に向かいました。

 

 次の目的地は美郷町南郷水清谷折立の梅の名所「かいごん塔」です。

 

 いつものようにナビに住所を入力し、鼻歌交じりのドライブを続けました。

 

 327号線を暫くはしり、ナビのアナウンスのままに、東郷町鶴野内で左折すると、国道446号に入りました。

 

 

 道の左に流れる坪谷川は、日向市から日向灘に流れ込む耳川の支流です。

 

 耳川は戦国時代、北に向かって勢力拡大を図る薩摩の島津氏と、北九州の覇者であった大友宗麟が激突し、九州の関ヶ原とも称される「耳川の戦い」の古戦場として知られます。

  

 

 一方、道路沿いの川は耳川から坪谷川へ、国道番号は327号から446号へと変わりましたが、「若山牧水生家 →」と記された表示が道路脇から消えることはありません。

 

 そして、質素なコンクリート製の橋のたもとを過ぎたとき、

 

  
 突然、若山牧水の生家が姿を現しました。

 


 

 なんという偶然でしょう。

 

 このような、降って湧いたチャンスを見過ごすわけにはいきません。

 

 時刻は既に14時を過ぎていましたが、都農への往復に高速道路を利用したので、時間にはまだ余裕がありました。

 

 

 若山牧水の生家は人気もなく、無料開放されていました。

 

 玄関を入ると、右手に二間続きの和室が見えました。

 

 若山牧水の生家は、江戸時代後期の1845年に祖父の健海(けんかい)が建てたものです。

 

 健海は埼玉県所沢の農家に生まれ、江戸・福岡・長崎で漢学・蘭学・西洋医術などを学び、天保7年(1836)に坪谷に移り住んで開業しました。

 

 写真に見える手前の部屋が患者の待合室で、奥の部屋を診療室として使っていたそうです。

 

 

 明治18年(1885)に、この豊かな自然に囲まれた家に生まれた牧水は、旅を愛し、広く全国に足跡を残しました。

 

 

 牧水の歌碑は全国に及び、その数は約300を数えるそうです。

 

 

 また牧水は、大の酒好きで、一日に一升程の酒を呑んでいたようです。

 

 土間には次のような解説が貼られていました。

 

 お隣の寅おぢやんに物申す 永く永く生きてお酒飲みませうよ

 

 「帰郷する度に幼少の時から可愛がってくれた寅おぢやんを訪ね、酒を酌み交わすのが牧水の楽しみだった。

 

 大正13年、父の13回忌に帰郷した牧水を待っていたのは連日の大歓迎。

 そんな中、滞在最終日の出発直前になって漸く逢えた牧水と寅おぢやんは ここの土間に立ったままで酒を酌み交わし別れを惜しんだと言う。

 

 2人にとってこれが永久の別れになった。」

 

 

 酒を愛し、旅を愛し、自然を愛した若山牧水だったそうです。

 

 そう言えば、こんな歌があります。

 

 それほどにうまきかとひとの問ひたらば 何と答へむこの酒の味
                                          牧水

 

 旅が好きで、酒を呑んでほろほろするのが好きな私は、今まで以上に牧水に親近感を感じ始めていました。

 

 そうか、そうだったんだ、と呟きながら私は、偶然出合った、牧水の生家を後にしたことでした。

 

 

 

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都農の梅

2015-03-17 13:48:26 | 九州の梅を訪ねて

 

 延岡から東九州道を経て都農(つの)町へ向かいました。

 

 九州に入ってから、基本的に高速道路は使わないようにしていました。

 

 めったに来ることのない九州を、高速道路で素通りしてしまうのは、あまりにも勿体なさすぎます。

 

 どんな小さな村や町でも、東京から1000km以上もの距離を訪ね来たのですから、今まで出会ったことのない風景や生活を見逃すと旅の価値が半減すると思うのです。

 

 しかし今回は、宮崎県中部の尾鈴山(1405m)を囲むように、訪問予定先が分散していますので、道路状況などを考慮すると、日向(ひゅうが)市と都農町の往復は高速道路を利用すれば訪問効率が良いと判断しました。

 

 

 都農町は宮崎の北方約40kmに位置し、西は九州山地、東に日向灘を望む、人口1万人強の町です。

 

 都農町ではブドウや梨などの果樹栽培が盛んですが、立野、轟地区では梅作りが盛んで、都農町は宮崎県で最大の梅の生産地だそうです。

 

 

 立野地区には梅園を巡るウォーキングコースが整備されています。

 

 高速道路を都農ICで下りましたが、目的地の都農町立野をナビが検索しないので、一旦国道10号線へ出て、コンビニで100円コーヒーを買って、店員さんに道を訪ねました。

 

 

 教えてもらった道を進んで行くと、小高い丘の斜面に梅畑が広がっていました。

 

 

 さすがは宮崎県。

 

 北九州では雪の降る季節ですが、この場所は幾つかの畑で、梅の花が薄紅色に枝を染めていました。

 

 

 この日は、風のない穏やかな陽射しの中、梅畑に霞がかかったような光景を見せていました。

 

 

 梅園脇の作業道を、車でゆっくりと進んで行きます。

 

 両側には、夥しい数の梅並ぶ畑が続いていました。

 

 

 作業道の随所にウォーキングコースの案内板が設置されていました。

 

 この案内板には「ここから見ても 向こう~まで 梅畑」

 と書かれていました。

 

 

 暖かな陽射しの日に、大麦パンにトマトサラダ、それに美味しく冷えた白ワインなどをザックに入れ、若草の上で、みんなでランチをすれば、素敵な休日が過ごせそうです。

 

 

 コースの所々に溜池が現れます。

 

 水温む季節となった池では、名も知らぬ水鳥が泳ぎ、木立の枝先も微かに赤味を帯びるように感じます。

 

  

 都農で春の息吹を胸いっぱいに溜め、右手にのっとりと水を湛える日向灘を眺めながら、私は再び東九州道を日向へと戻って行きました。

 

 

 

 

 

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延岡の梅

2015-03-16 18:17:57 | 九州の梅を訪ねて

 

 延岡の城山公園の駐車場に紅梅が咲いていました。

 

 

 公園の案内板を確認し、城山への坂を歩いて登って行きます。

 

 舗装された道に、赤い椿の花がこぼれていました。

 

 

 城山公園は延岡城跡を整備したもので、城山に生育する3300本のヤブツバキは、どの樹も個々に異なった特徴を持つことから、自生と考えられ、島根県松江城の椿谷、千葉県大原町伊能滝の群生と共に、日本三大ヤブツバキ群として知られています。

 

 このヤブツバキ群の中から、新しい品種が見つかる可能性もあると考えられているようです。 

 

 城山の頂きから延岡の町が一望できました。

 

 

 頂上の広場の入口に、天守台跡と記載された標識があり、その側面に

 

 「延岡城に関する古い資料によると、天守台の記載はあるが、天守閣はみられない、これは南九州の近世城郭の特色にもなっている。

 

 と記されていました。 

 

 

 また「明治初年頃には鐘つき堂の前身となる鼓櫓があったが、明治10年の西南の役の際に焼失した。」

 

 と掲示されていました。

 

 天守台には鐘が設けられていました。

 朝6時から夜8時まで、100年以上も市民に時を知らせているそうです。

 

 このような話を知ると、時がゆっくりと流れる街の、穏やかに暮らす人々の表情が見えるような気がしました。 

 

 

 

 天守台を下って、梅園に足を運びました。

 

 延岡のライオンズクラブによって植樹された30本弱の梅が並んでいました。

 

 

 この場所は城山の北斜面なので、木に花の姿は見られませんが、園内の一番奥で若山牧水の

 

 「なつかしき城山の鐘鳴りいでぬ をさなかりし日 聞きしごとくに」

 

 の句碑が、柔らかな陽を浴びていました。

 

 

 解説文には、

 

 「若山牧水は、明治18年8月24日、宮崎県東郷町坪谷に生まれ、延岡中学校を卒業後、早稲田大学英文科に進みました。

 

 延岡での8年間は、山紫水明の自然と良き師友に恵まれ、将来天下に名をなす歌人としての素養を培われました。

 

 この歌は昭和2年7月27日、台雲寺で詠んだもので、歌碑は昭和10年に建てられました。

 

 毎年春分の日に歌碑まつりが行なわれます。」

 

 とありました。 

 

 

 私は、若山牧水が宮崎県延岡の出身とは全く認識していませんでした。

 

 そうですか、延岡といえば若山牧水なのですね。

 

 ほんとに、まだまだ知らないことばかりです。

 

 

 延岡城跡を出て、白い柔らかな雲の下を五ヶ瀬川沿いに市内松山町の本東寺へ向かいました。

 

 

 五ヶ瀬川の堤防は春めく陽射しの中で100万本の菜の花が満開でした。

 

 

 

 本東寺は建武2年(1335)に開基された寺で、境内には宮崎の巨樹百選に選ばれた、樹高5.5m、幹周1.3m、樹齢220年の枝垂れ梅「慧日梅」が市民に親しまれています。

 

 

 まだ2~3分咲きでしたが、南国の早春に咲く、ふくよかな白梅にほほ緩む思いがしました。

 

 

 

 

 

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吉野梅園 一枝の花

2015-03-15 03:33:11 | 九州の梅を訪ねて

 

 2月7日

 

 昨晩は大分の牛丼屋で夕食を済ませ、今いる吉野梅園までの道を30分程もはしり、梅林脇の空き地で夜を過ごしました。

 

 翌朝は、夜明けを告げる太陽が、光りを投げる車内で目を覚ましました。

 

 夜明け前の寝袋の中で寒さを感じましたが、目が覚めて車外を確認すると、車の窓ガラスや鉄板がカンカラカンに凍り付いていました。

 

 

 「寒いはずだよな」と呟きながら、ダウンジャケットを羽織って、吉野梅林へと足を運びました。

 

 

 吉野梅園には、地を這うように枝を伸ばした臥龍梅があります。

 

 

 その臥龍梅には、下記の如き解説が添えられていました。
 

 

 

 「臥龍梅の由来

 

 建久3年(1192)京都堀川御所騒動のとき、藤原信近が都を退いてこの里に来て住んだ。

 

 その子近里は山に薪をとりに行き、出会った翁の教えにより太宰府に参籠し、梅花一輪を賜った。

 

 近里はこれをこの地に挿し祈念すると、その枝が芽をふき成長した。

 

 その後梅樹は繁茂し地を這い臥龍梅と呼ばれるようになった。

 

 また、永禄3年(1560)豊後国主大友宗麟がこの地で観梅の宴を催した時、活花にしようと御用人に梅一枝を折らせた。

 

 その途端、御用人は気絶したが、暫く我に返り「吾は、天満大自在天紳なり。汝はこの地主たるが故に、この度だけは命を助くべし、今後一枝たりとも折るべからず」といって再び人事不省となった。

 

 宗麟は己の非礼を謝罪し、神殿を造り年々祭りを怠らなかったと言う。

  

 あるとき、大分城主 松平不騫公が参拝し紳園をご覧になり

 

   よし野芳野 かしこは桜 ここは梅とお詠みになった。

 

 また、安政6年(1859)に、この地で開かれた芭蕉忌の折に、芭蕉の句

 

   この梅に 牛も初音啼つべし 

 

  の句碑が建てられた。」

 

 と記されていました。

 

 古の頃からの伝承を伝える梅園のようです。

 

 
 それにしても、本当に寒い朝でした。

 

 梅園内のベンチが白い霜で覆われていました。

 

 

 そして一枝にのみ、陽を浴びた白梅を認めましたが、

 

 

 石鉢に張られた、氷の上に吹き寄せられた枯葉が、この季節に咲く白梅の健気を語っていました。

 

 

 梅園を擁する吉野神社の境内は、凛として冷ややかな気配にたたずみ、清しい心地よさを感じさせてくれます。

 

 

 もしかすると、全ての梅枝に花が溢れる季節より、一枝に白梅がほころぶ今の季節だからこそ、吉野梅園の神髄を見せてもらえたのだろう、と思いました。

 

 

 満ち足りた思いで吉野梅園を後にして、国道10号を南へ向かいました。

 

 

 犬飼で大野川を渡り、国道236号の三国街道に入ります。

 

 

 山の中の道をはしり、幾つかのトンネルを抜けて行きます。
 

 

 

 吉野梅林を出てから小一時間もはしると、駐車場の山壁が紅梅で飾られた「道の駅 宇目」に至りました。

  

 

 道の駅を出て橋を渡れば、そこはもう宮崎県です。

 

 

 私はこの道の駅で目にした「アジ姿寿司」を買い求め、ハンドルを握りながらの朝食を得ました。

 

 パッケージに張られた「釣り」のラベルが食欲を刺激します。

 

 

 寿司は新鮮なアジに包まれ、飯の間にシソ葉が隠されていました。

 

 

 寿司を口に含めば、シソの香が口いっぱいに広がり、その直後に、アジの旨味が舌から喉の奥へと伝わります。

 

 私の朝食としては、いつもより量が多いと思えたのですが、瞬く間に二本の姿寿司が腹の中に納まりました。

 

 

 朝から満ち足りた気分に包まれて、快適なドライを続けながら、車は延岡へと近づいて行きました。

 

 

 

 

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