蒲田から仏生寺脇之谷内に向かいました。
氷見と高岡の境をなす西山丘陵の尾根襞の中へ、仏生寺川の支流に沿って県道64号を進みました。
たどり着いた仏生寺脇之谷内地区は、その昔、山伏の修験場だった天台宗の寺院があった三千坊山山麓の門前町だったそうです。
最初に斉藤家のツバキを訪ねました。
いつものように地域の人に道を尋ねながら訪れた場所は、土台だけが残る屋敷跡でした。
丸山さんの資料に「幕末の剣豪 斎藤 弥九郎の生家」と記されていたので、このブログを書くにあたって調べますと、
斎藤 弥九郎は江戸時代後期から幕末にかけての剣術家で、文化12年(1812年)満14歳のとき、親から1分銀(ほぼ1万円相当)を渡され江戸へ出立します。
旅の途中でアルバイトをしながら、野宿を重ねて江戸にたどり着き、旗本の家で住み込みの下働きを続けながら、20代で道場の師範代に昇進、その後、幕末江戸三大道場の一つである「練兵館」を創始します。
この道場は、桂小五郎が熟頭を務め、高杉晋作や伊藤博文など、明治維新の原動力となる人物を数多く輩出したようです。
時代は逆ですが、先にご紹介した浅野総一郎の話しを思い出させます。
この地では、多くの人々が、古の時代から外の世界に目を向けていたのでしょうか。
大伴家持などに代表される都との交流や北前船の運行などを通じて、外の世界に対する意識が醸成されていたのかもしれません。
斉藤家のツバキは桃色 牡丹咲 中輪で根元131㎝と資料に記載されています。
しかし、人の保護から外れて、自ら動けないツバキは、やがて笹や灌木の中に埋もれてしまう運命のようです。
次に、仏生寺脇之谷内の尾谷家を訪ねました。
「三千坊山」で検索しヒットした「三千坊山の案内板」には次のような記述がありました。
「・・・脇之谷内は三千坊の参道あとが今も残っている。昔は参道には尾谷の茶屋があって参詣者に湯茶の接待をした家があったという。」
地区の方に道を尋ねながら訪ねた尾谷家は蔵を備え、格式を感じさせる家構を見せています。
尾谷家の方にご挨拶をして、ツバキを見せて頂くことにしました。
ご自宅の裏に、根元135㎝の見事なツバキが真紅の花を咲かせていました。
尾谷家の方が、そのツバキの根元に見える細い道が、昔は三千坊へ登る参道だったと説明してくれました。
そして、尾谷家は昔、この道を通って三千坊に上る人達にお食事を提供していたとお話されていました。
※ 他の記事へは index をご利用頂くと便利です。
好奇心の植物観察 → 「つばきカテゴリー」
2019年に氷見市の斎藤弥九郎銅像巡りツアーで寄った生家跡の記念公園と、地形が違うので市役所に問い合わせたところ、記念公園は生家跡ではない事が去年わかったそうです。しかし、本当の生家跡の場所がまだはっきりしないということでした。
sparrowgrassさんが辿った道順を覚えている範囲で良いので教えていただけますか。
よろしくお願いいたします。