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広島の梅林

2020-07-19 18:30:59 | 西日本に梅を訪ねて

 

 柳井市の余田臥龍梅を後に、広島へ向けて車を走らせました。


 最初の目的地は広島市植物公園です。


 この公園は私のお気に入りの一つですが、東京からちょっと遠いので、気軽に来ることができません。


 なので、今回のような機会に立ち寄らなければ、後で後悔します。


 小雨降る生憎の天気でしたが、まずは梅林へ足を運びました。


 正門右手の斜面が紅色に彩られていました。
 

 

 その先で、カワヅザクラとカンヒザクラが、季節を告げていました。

 

 


 勿論、椿園も見逃すわけにはいきません。


 奥へ進んで「森のレストラン」の横を登ると、右手斜面一帯にツバキが花を咲かせていました。

 


 しかしやっぱり、雨の中では気力が続きません。


 温室へ逃げ込むと、スイレン温室で熱帯睡蓮が可憐な花で水面を飾っていました。

 しかし空は雨雲に覆われ、フィルム撮影が求める光条件ではありませんでした。

 

 温室をクルリ巡って、植物公園を早々に切り上げることにしました。

 

 私が幾度も同じ植物園に足を運ぶ目的の一つは「四季の花」を飾る花の写真撮影なのです。

 

 何事も、ダメと分かれば、すっぱり諦めることが肝心です。

 


 広島市植物公園を出た後、雨に濡れた国道を北上し、杉林が広がる峠を越え、

 


  広島市北西部の「ヒロテック梅の里」を訪ねました。


 ヒロテックは広島市に本社を置く自動車部品製造会社です。


 その㈱ヒロテックの湯来工場に梅林を訪ね来ましたが、残念でした。

 

 

 事務所の方にお話を伺うと、工場敷地の改築中で、一般公開の継続を検討中とのことでした。


 梅見客が怪我でもすれば大変ですから、ごもっともなお話です。


 そして次に、広島県三原市を目指しました。


 ナビにアドレスを入れ、画面の「案内開始」をタッチし、ナビのお嬢さんのアナウンス通りに車を走らせます。


 広島の北部を東へ、三篠川(みささがわ)に沿って県道37号(白木街道)を走ると、対岸の梅並木が花を咲かせているのに気付きました。


 川堤に桜並木はよく見かけますが、梅の並木が川面に映る景色は初めて見る気がします。
 

 

 桜の可能性もあると思い、国道を左折して白木山橋を渡り確認しましたが、梅の花に間違いはありません。


 下がそのときの写真です。


 ウメとサクラの見分け方は以前「春の景色に巡り会う」に記しましたが、梅は枝に一輪ずつ付きますが、桜は複数輪が束になって花を咲かせます。

 

    
三篠川堤の梅           小石川植物園のソメイヨシノ

 

 1時間半ほど走り、三原市浄水場の敷地内にある西野梅林に到着しました。


 この辺りは、旅の途中で菅原道真が梅を植えたことから、地区に「梅林」という地名が残るほど、江戸時代は多くの梅が花を咲かせていました。

 

 しかしその後の宅地開発などで梅が減り、それを嘆いた市民有志が、この場所に梅を植え育てているそうです。


 地域の子供たちが、郷土に誇れるものを作りたい思いがあるようです。


 日本という国は、何処にいっても各地に、将来を背負う子供たちの為に汗を流す人々の姿を見かけます。


 私は新潟に6年暮らしましたが、このような話を聞くといつも「長岡藩の米百俵」を思い出します。

 

 
   

 次に三原市深町の菰口山山頂に広がる満汐梅林を訪ねました。


 しかし入り口にロープが張られ、その先の坂に、止め石のようにプラスチック製のビールケーズが置かれていました。


 閉園中かと思い、先に来ていた広島ナンバーの方に「休園なんでしょうか?」と聞くと、さっき管理者に電話をしたら、2~30分後に行くと言われ、待っているそうです。

 

 そうですよね、こんな時に携帯かスマホがあれば便利なんでしょうね。

 

 私は今も、携帯やスマホを持ちませんが、旅に出た時は「持ってもいいな」とは思います。


 暫くして、車で来た元気なおばさんの後について坂道を上ると、見事な梅林の広がる景色を見ることができました。


 園内の七福神巡りを勧められましたが、今回の旅の主旨を説明し、この梅林の由来などをお聞きしました。

 


 満汐梅林を経営する濱浦さんは、元は「満汐丸」という漁船を有する尾道の漁師さんだそうです。

 

 お父様がこの場所を開墾し梅を育て、観光農園の営業もしつつ、梅ジャムや梅ジュースなどの加工も行う6次産業農家さんなのだとか。


 電話を受けて、尾道から車を走らせ、ゲートを開けにきてくれたそうです。


 私はお話を聞かせてもらったお礼のつもりで、お土産用に梅プリンを買いましたが、帰宅後に、満汐梅林の景色を思い出しながら、上品な味の梅プリンを楽しむことができました。

 

 

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宇部市常磐公園、余田臥龍梅

2020-07-18 16:07:41 | 西日本に梅を訪ねて

 

 山口県宇部市の常磐公園は、温室の花を撮る目的で2010年12月24日に来ていますので、今回は10年ぶり二度目の訪問ということになります。

 


 常磐公園にはかって、カッタ君という人気者のモモイロペリカンがいたので、常磐公園の名は全国に広く知られていました。


 私のパソコンを探すと、10年前に、池に浮かぶ白鳥を写した写真が出てきました。


 あの時は、ここにも白鳥が飛来するのか! と驚いた後すぐに勘違いと気付いた記憶があります。

 

 なにしろ北海道や新潟での生活が長かったので、冬にシベリアから飛んでくる白鳥しか見たことがなかったのです。

 


 
 常磐公園の正門に着いた頃は16時頃だったので、梅林の位置を確認すると、急いで車を梅林に近い東駐車場へ移動しました。

 

 しかし常磐公園の梅林は、来るべきタイミングを完全に外したようです。


 100本あるという、紅梅と白梅の殆どが花を散らせていました。


 花を訪ねる旅は、タイミングを合わせるのが本当に難しいのです。

 

 


 常磐公園で梅林の様子を確認し、本日の花巡りは終了です。


 そして私は、次の目的地である山口県柳井市余田川添の臥龍梅を目指し、国道の車列に加わりました。


 ナビには目的地まで、100㎞弱の距離と3時間強の走行予定時間が示されていました。


 途中のスーパーマーケットで、夕食のカツ弁当と寝酒の缶酎ハイ、朝食用のクロワッサンとミルクティーなどを買い求めました。


 何処だったかをはっきりと覚えていないのですが、多分防府を過ぎた辺りで銭湯を見つけ、二日ぶりのお風呂を楽しみました。


 その夜は、霧雨が降る余田臥龍梅の駐車場に車を停め、寝袋の中で500mlの缶酎ハイを飲み干し、後は白河夜船でした。


 翌朝外が明るくなる気配に目を覚まし、寝袋に半身を納めたまま朝食を済ませ、車のドアを開けて、カーペット状に広がる、雨に濡れた枯れ草に下りて臥龍梅を眺めました。

 


 臥龍梅は元株が既に枯死し、その株から伸びた枝が地に根を張って独立した「飛び梅」が、山の斜面に梅林を成しています。


 この梅も花の盛りは過ぎて、白い花の後に残る萼が、枝を微かに赤く染めていました。

 


 元株の梅は室町時代のものと伝えられ、昭和8年に国の天然記念物に指定されたときは、根廻が5.5メートルもあったそうです。
 

 5年前に九州の梅を訪ねた時、各地で幾つかの臥龍梅を見てきたことを思い出しました。


 そこでふと、全国に臥龍梅がどれぐらいあるか気になり、ネットで検索調査してみました。


 全国に32か所を数えましたが、仙台市の臥竜梅は、その殆どが一本の木から株分けされたものらしく、実際には全国で十数株程度と判断すべきかもしれません。

 

 

全国の臥竜梅 茶色は非公開

 

北海道松前町

松前公園の臥竜梅

松前町字松城(松前公園 松前神社) 

岩手県山田町

大沢の臥竜梅

岩手県下閉伊郡山田町大沢

宮城県登米市

旧亘理邸の臥竜梅

登米市迫町佐沼字内町63-20

宮城県松島町

瑞巌寺の臥竜梅

宮城郡松島町松島字町内91

宮城県仙台市

西公園の臥竜梅

仙台市青葉区桜ヶ岡公園1-3

宮城県仙台市

大願寺の臥竜梅

仙台市青葉区新坂町7-1

宮城県仙台市

瑞鳳殿の臥竜梅

仙台市青葉区霊屋下23-2

宮城県仙台市

片平公園の臥竜梅

仙台市青葉区米ヶ袋1-140-6

宮城県仙台市

柏木の臥竜梅

仙台市青葉区柏木1丁目5-2

宮城県仙台市

高等裁判所の臥竜梅

仙台市青葉区片平1-6

宮城県仙台市

愛子の臥竜梅

仙台市青葉区愛子中央5丁目8番25号

宮城県仙台市

伊達政宗公の臥竜梅

仙台市若林区古城(宮城刑務所)

宮城県仙台市

林香院の臥竜梅

仙台市若林区新寺5-1-1

宮城県仙台市

松音寺の臥竜梅

仙台市若林区新寺4丁目6-28

宮城県仙台市

聖ウルスラ学院の臥竜梅

仙台市若林区一本杉町1−2

宮城県仙台市

野草園の臥竜梅

仙台市太白区茂ヶ崎二丁目1-1

宮城県仙台市

園芸センターの臥竜梅

仙台市若林区荒井字切新田13-1

福島県福島市

浄楽園の臥竜梅

福島市桜本字荒神38

茨木県水戸市

偕楽園の臥竜梅

水戸市常磐町1-3-3 複数個体

茨木県水戸市

弘道館の臥竜梅

茨木県水戸市三の丸1-6-29

茨木県水戸市

鹿島神社の臥竜梅

茨木県水戸市三の丸1-6-4

千葉県四街道市

名主屋敷の臥竜梅

四街道市鹿渡626

神奈川県横浜市

三溪園の臥竜梅

横浜市中区本牧三之谷58-1

長野県須坂市

興国寺の臥竜梅

須坂市臥竜3丁目3番1号

三重県伊勢市

新開の臥竜梅

伊勢市御薗町新開

山口県柳井市

余田臥竜梅

柳井市余田河添2450番地

福岡県大牟田市

普光寺の臥龍梅

大牟田市大字今山2538

大分県大分市

吉野梅園の臥龍梅

大分市杉原537

宮崎県新富町

湯之宮座論梅臥竜梅

新富町大字新田字湯之宮

宮崎県宮崎市

月知梅臥竜梅

宮崎市高岡町高浜323-2

熊本県八代市

松井神社の臥龍梅

八代市北の丸町2-7

熊本県天草市

延慶寺の兜梅臥龍梅

熊本県天草市浜崎町9-32

 

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東行庵の梅と椿

2020-07-16 23:36:51 | 西日本に梅を訪ねて

 高杉晋作の墓所に約100本の梅が花を咲かせる、だけの知識で東行庵(とうぎょうあん)を訪ねました。

 

 「東行」というのは高杉晋作の号であることも認識していませんでした。


 駐車場に車を停めると、最初に高杉晋作の像が出迎えてくれました。

 

 
「東行庵」を説明する掲示を目にしました。

 

 

 そこに、


 「この地は清水山と称し、幕末の頃騎兵隊軍監山縣有朋が草庵を建て無隣庵と名付けた。

 

 1867年(慶応3年)4月、高杉晋作(東行)の遺言により遺骸を騎兵隊の本拠に近いこの地に葬った。

 

 晋作に仕えていた愛人うの(後に谷梅処)が出家したので、山縣は1869年(明治2年)無隣庵を梅処に贈り欧州に旅立った。


 現在の庵は明治17年に伊東博文・山縣有朋・井上馨等の寄付により建立されたもので、梅処は明治42年にその生涯を閉じるまで東行の菩提を弔った。」


 と記されていました。
 

 そして、「曲水の梅苑」の名を刻んだ石碑とともに、

 


 晋作が最も好んだと言われる梅が、枝々に花を飾っていました。

 


 墓碑に「東行墓」と刻まれた高杉晋作の墓が、晋作を紹介する一文を添えて、石柱に囲まれていました。

 

 


  
 「高杉晋作(号東行)は1839年(天保10年)長州藩士の長男として萩に生まれた。

 

 18歳にして生涯の師吉田松陰の松下村熟に入門したのを転機に稀代の革命戦略家として頭角を現す。

 

 1863年(文久3年)長州藩が外国艦隊と砲火を交えるに及んで奇兵隊を組織し自ら初代総督となる。

 

 以後各地に封幕線を指揮し明治維新のさきがけとなったが1867年(慶応3年)4月13日下関において結核のためその雷電風雨の如き27歳8か月の生涯を閉じた。


 遺言により、ここ奇兵隊本拠地吉田清水山に土葬される。」

 

 

 

 すぐ近くで、愛人うの(梅処尼)の墓が緑に包まれていました。

 


 そして東行庵には椿がある筈です。


 案内図を頼りに、椿の路を100メートル程も進むと、

 


 千本椿園の看板を掲げた椿園に致りました。

 


 東行庵の第3世庵主である谷玉仙尼は椿が好きな方で、東行庵椿会を設立し、椿展を開催したり、椿の第一人者の桐野秋豊さんを招き、指導を受け、近隣をめぐって椿の探訪をしたそうです。

 

 そして、谷玉仙尼がこよなく愛したのがあの「玉之浦椿」だそうで、今も椿園のどこかに花を咲かせるそうです。


 幾つかの木に花を見かけましたが、残念なことに名札が見当たりません。


 椿園芸品種は名を伴ってこその価値なので、勿体ないことです。

 

 そう言えば、先に訪ねた下関覚苑寺の乃木希典の銅像には、


「武士(もののふ)は 玉も黄金も なにかせむ いのちにかへて 名こそおしけれ 希典」


 と記されていました。

 

 椿も武士同様に、名が大事なのです。

 

 


 椿園から戻る途中、多くの墓碑を見かけました。


 これら墓碑は、東行庵三世谷玉仙尼が、維新戦争で亡くなった長州諸隊士の多くが10代、20代の青年だったこともあり、無縁仏となって荒れ果てるケースが多いのを嘆き、各地から隊士の墓を集め供養したそうです。


 花を愛した谷玉仙尼には、新しい日本を夢見て、命を散らせた若者達の心の花が見えていたのでしょう。

 


 東行池の周囲を歩くと、池の畔に、樹齢50年のサザンカ「藤の峯」を見かけました。


 東行庵は「山陽花の寺二十四か寺」の第8番札所だそうで、サザンカが約100本植栽され、11月下旬にはサザンカ・ツバキ祭りが開催されるそうです。


 少し余談ですが、樹齢50年のサザンカの幹の太さに着目して下さい。

 

 この木の太さに比べると、指月山サザンカの凡その樹齢が推測できます。

 

 

 

  
 東行庵ではツバキ、サザンカ以外に、ツツジやハナショウブなども花を咲かせるそうです。


 これからも可能な限り続けたいと思う「花の旅」の途中で、幾度かお寄りすることになりそうです。

 

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下関市園芸センター

2020-07-14 14:20:38 | 西日本に梅を訪ねて

 

 往路で閉園時間に間に合わなかった、下関園芸センターに向かいました。

 

 今回ナビに誘導された場所は園芸センター裏手の駐車場でした。

 

 駐車場に掲げられた案内図を確認し、園芸センターを左回りに巡ることにしました。

 

 

 車から降りて鑑賞温室に近づくと、ビオラ品種展示会の準備が進められていました。

 

 

 夫々の鉢に咲く花のどれもが可憐で、花弁の配色が魅力的です。

 

 急いで車に戻り、三脚とフィルムカメラを持参し、ビオラの撮影を始めました。

 

 

 

 以前のページでも紹介しましたが、私がブログ「花の旅」を始めた切っ掛けは、ホームページの「四季の花」に写真を掲載し始めたことに因ります。

 

 「四季の花」をスタートさせて数年後に、掲載する写真は掲載日の前後4日以内に撮影したものと定めました。

 

 スタートした頃は、機能性に優れた一眼レフのデジカメが超高価だったので、学生時代から使いなれたニコンのカメラで、コダック社のリバーサルフィルムを用い、全国の植物園などで撮影を続けていました。

 

 リバーサルフィルムは現像をラボに依頼しますので、翌年以降に掲載する写真のストックがなければ、撮影日前後4日以内の掲載はできません。

 

 当初は写真のクオリティを省みる余裕はありませんでした。

 

 しかし今では、100歳を超えて対応できる掲載予定日もあります

 

 そして次の目標は、週2回更新できるストックとクオリティーの確保です。

 

 実現するか否かは別にして、撮り溜めた花の情報を集め、コメントを考える作業は本当に楽しいものです。

 

 

 

 

 園芸センターの温室で、当園オリジナルの「海峡の翡翠」と名付けられたスイレンが花を咲かせていました。

 

 

 この花は咲きすすむにつれて、水色から翡翠色に花色が移ろい、キンモクセイカトレアよりも甘く強い香りを放つそうです。

 

 この花を撮影した写真もストックしましたが、現在使っているフジフィルムは赤が強調され過ぎるので、それを掲載すべきか否かが悩ましいところです。

 

 

 

 観賞温室のエントランスで、あの「玉之浦椿」が花を咲かせていました。

 

 高さが1メートルにも満たないので、大事に温室で育られているようです。

 

 

 園芸センターは、この観賞用温室以外に、熱帯果樹温室、鉢物温室、洋ラン温室、サボテン温室、ベゴニアアナナス温室が整備されていました。

 

 それ以外にも花ショウブ園やバラ園などを見かけましたが、花好きの人には嬉しい施設だと思います。

 

 温室を一通り見終え、管理事務所の前を通り、小高い丘のツバキ園に向かいました。

 

 

 ツバキ園には東洋系ツバキ80品種、西洋系ツバキ70品種が植栽されています。

 

 下関園芸センターは近年、「壇之浦」「赤間手毬」「下関千年浪漫」という品種を作出し、日本ツバキ協会が新品種を認定しています。

 

 

 こんもり茂るツバキの中を進み、梅園へ向いました。

 

 梅園には10品種、鹿児島紅、緑萼、緑萼枝垂、鶯宿、吾節舞、呉羽枝垂、甲州最小、白加賀、乙女舞、豊後紅梅、が植栽されているとの掲示を目にしました。

 

 

 園芸センターには14品種の梅が見られるそうですから、他の4品種は梅園以外で花を咲かせているのでしょうか。

 

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下関の覚苑寺と老の山公園

2020-07-12 16:51:33 | 西日本に梅を訪ねて

 

 2月24日に奈良の梅林を巡った後、広島から山口県の防府、山口、萩を経て下関へと旅を続けました。


 2月28日に下関から長崎へ移動し、29日のフェリーで長崎港から五島列島に渡った旅は「五島列島の世界遺産と椿」と題するブログに記した通りです。


 3月2日の夜に五島の中通島から長崎港へ戻りましたが、実はこのとき私は、中通島のレンタカー会社に旅の行程表を置き忘れていました。


 そのことを、長崎港の駐車場の自車に戻って気付きました。


 かなり入念に作成した行程表がなければ、旅を続けることは殆ど不可能です。


 そこで博多のネットカフェで、自分のホームページなどを参考に、もう一度旅程を組み立て直すことにしました。


 長崎でネットカフェを探すより、博多に行くほうが早いと判断したのです。


 これが、3月2日の夜に博多の屋台で寝酒を飲むことになった経緯です。

 

旅の行程表の一部

 

 
 ネタ晴らしは以上ですが、3月3日の10時半ごろ私は、下関の覚苑寺(かくおんじ)の境内で梅を探していました。


 覚苑寺は毛利家の菩提寺の一つで、1698年(元禄11年)に毛利綱元が建立しています。

 


 
 境内に、日露戦争で難攻不落の旅順要塞を陥落させた乃木希典(のぎまれすけ)の銅像を見かけました。


 この像は、乃木将軍を敬愛する住職が、昭和14年に托鉢で基金を募り建立しましたが、戦時中の金属不足で供出された後、昭和30年に、全国からの寄付で再建されたそうです。

 

 そう言えばふと、子供の頃に「だるまさんがころんだ」の遊びで、意味も分からずに「乃木さんは偉い人」と唱えたことを思い出しました。

 

 

 境内の一画に梅園を見つけました。約50本の梅が花を咲かせるそうです。

 


 覚苑寺が建つ場所は、明治から大正にかけての発掘踏査で、奈良時代に日本で最初に流通した貨幣「和同開珎」が鋳造された長門国鋳銭所跡であることが分り、出土遺物は国の重要文化財として、長府博物館に所蔵されているそうです。

 


 次に、彦島の老の山公園に向かいました。


 この時私は初めて、下関の先端部が島であることを知りましたが、今筆を走らせつつここを「本州最南端」と書こうとしましたが、ふと気付き、地図で本州最南端は和歌山県潮岬であることを再確認しました。

 

 フー 危うく嘘を書くところでした。

 

 

 老の山公園は老の山の頂上一帯を整備した公園ですが、駐車場に車を停めて、芝生広場を高見へ進むと、眼下の響灘に幾つかの島々が見えてきました。

 


 更に園路が伸びる先へ進むと、目の前にゴルフ場のような景色が広がり、この公園がとてつもなく広いことが分りました。


 老の山公園は当初の予定になかったのですが、昨晩、博多のネットカフェで新に加えた場所なので、私は此処へ何しにきたのかが分からなくなっていました。
 

 

 致し方なく目に付いた椿を撮影してお茶を濁しましたが、今調べ直すと、この公園のどこかで、80本の梅が香を放つようです。

 

 
   

 

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下関で至福の時を味わう

2020-07-10 19:47:29 | 西日本に梅を訪ねて

 

 思いがけない場所で椿群生地を見出し、気分良く、山口県を日本海に沿って南下しました。


 次の目的地は下関市豊浦の「リフレッシュパーク豊浦」です。


 私は全国の植物園や花公園のリストを作り、それをホームページで公開しています。

 その中の候補の一つである「リフレッシュパーク豊浦」を植物園か花公園のリストに加えるべきか迷っていました。


 植物園や花公園は「多種類の植物を観察できる場所」を判断基準とします。

 コスモス畑バラ園などに特化した施設は、夫々にページを分けています。 

 


 車を降りて門へ進み、受付で「どんな花が咲いていますか?」と尋ねました。


「今は、奥でナノハナが咲いています」とのことでした。


 受付横のガイドマップに、バラ、コスモス、パンジーなどの写真が掲げられていました。

 

 10月上旬にコスモスが100万本咲くことが確認できましたので、従来通りに「コスモスの名所」にリストしておくことで間違いはなさそうです。

 


 次に同じ豊浦町の、妙青寺梅園に向かいました。

 


 妙青寺が風格ある山門を備えていました。

 

 山門を潜り、静寂に包まれた境内へと歩を進めました。

 

 本堂の裏にまわると、雪舟が構築した庭が池に水を湛えていました。

 


 そして、その先の小高い斜面に、100本の梅からなる梅林を見出しました。


 梅は樹齢が進んだ故か、花を付けた若枝が少ない気がします。

 


 妙青寺は周防・長門の守護職の大内持盛が1431年(永享3年)に川棚に国清寺を建立し、江戸時代になると、長府の初代藩主毛利秀元が実姉の妙青大姉を埋葬するために伽藍を修理し、妙青寺と名を変えたそうです。


 この地の川棚温泉は、1932年(昭和7年)に種田山頭火が3ヶ月滞在し、300を超える句を詠んでいます。


 その句が句碑となっていました。


   「湧いてあふれる中に ねている」

 

 山頭火の句碑を見るのは今回が二度目です。


 前回は大分の宇佐神社の境内でしたが、その時も九州の梅を巡る旅の途中でした。


 句碑の横に、山頭火が川棚温泉に滞在した経緯が記されていました。

 

 

 山頭火は托鉢をしながら句作を続け、昭和7年5月、50歳の時に川棚温泉にたどり着きます。

 

 この地で草庵を結びたいと願いますが、その夢は叶わずに、山口市小郡へと去ったそうです。

 
 「山頭火の旅」を検索し、ウィキペディアに次のような記述を見つけました。

 

 山頭火の父竹治郎はツルゲーネフの父、セルゲイ・ツルゲーネフに似ており、美男子で体格がよく、意志薄弱で好色、結婚も財産目当てであった。

 

 竹治郎はセルゲイよりもお人好しで、寛容な人物であったという。美男子で女癖が悪く、妾を幾人も囲い、政党との関係に巻き込まれてからは金使いも荒くなった。

 

 冷ややかで好色、意志薄弱という特徴を備えていた。

 

 いやはや何ともですが、こんな人が父親だったら、神経をやられるのは当然かもしれません。

 

 もう書いても、誰も傷つかないと思いますが、私の実母の父(祖父)も相当な人物だったようです。

 

 下関園芸センターで、見事な大寒桜が満開の花で出迎えてくれました。

 


  事前の調査で、下関園芸センターには14種50本の梅と200種420本の椿が植栽されている筈です。


 管理棟から出てきた職員らしき人に、梅園はどちらでしょうか?と尋ねますと、


 「4時で閉園しました」と言われました。


 実は、この時はすでに16時30分を過ぎていたのです。


 迂闊でした、下関に着く頃はまだ青空が広がっていたので、すっかり時間を忘れていたのです。


 まあ、出直せばいいだけのことですが。

 

 

 そして実を申せば、私の意識の多くは、下関=フグなのです。


 大学受験に失敗しての予備校で、講義中に講師から、下関でフグを食べた話を聞かされて以来、私も下関へ行ったら絶対にフグを食べるぞと、50年程も念じ続けてきました。


 何時もの如くコインパーキングに車を停め、下調べしておいた、下関駅近くの「おかもと鮮魚店」という大衆居酒屋の暖簾を潜りました。


 18時を少し過ぎた頃でしたが、既に店は満席でした。


 そして席について、最初にひれ酒、

 

 
 そして次が白子、

 (久しぶりの白子があまりにも嬉しくて、写真撮影の前に箸を付けています)

 


  至福の時が流れました。


 ひれ酒の追酒をたのみつつ、刺身の盛り合わせを注文しました。

 

 

 ん~ どれもこれもが満足至極で、極楽とんぼ。


 生きててよかった!
 

 

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日本で最も美しい、死ぬまでに行きたい絶景

2020-07-09 20:01:48 | 西日本に梅を訪ねて

 

 萩を11時頃に出て、昼を過ぎた頃、山口県長門市の千畳敷で海を眺めていました。


 目の前の海岸で虫垂のように突き出た今岬の奥に青海島が、更にその奥に萩市沖の島々が見えていますが、写真でははっきりしません。


 青海島の周囲には、9000万年前の火山活動や地殻変動で生じた断崖や奇岩、洞門などからなる「海上アルプス」と称される絶景が連なり、それを海から眺める遊覧船が運航されていますが、今回はパスしました。

 

 今は2月下旬なので、もう少し温かい季節にまた来ようと思います。

 


 今居る場所の千畳敷は標高333メートルの高台に草原が広がる絶景の地ですが、この日は強烈な風が吹き荒れていました。


 キャンプ場もあるので、新緑の季節に、ここで星を眺めながら夜を過ごせば、思い出深い旅となることでしょう。

 

 今度来る時はそうしたいと思います。

 

 (鬼がどこかで笑っていますが、無視、無視)

 


 千畳敷から10数分程はしると、元乃隅神社に到着しました。


 アメリカのテレビ局が元乃隅(もとのすみ)神社を「日本で最も美しい場所31」に選定して以来、日本国内より先に海外にその名が知られた場所で、昭和62年から10年かけて建てられた123本の朱塗りの鳥居が、100メートル以上も海へ向かって連なります。


 今回の旅の目標の一つだったのですが、正直なところ「日本で最も美しい場所」とまでは思いませんでした。

 

 多分、アメリカ人の目と私の目には若干の位相差があるのでしょう。

 


 元乃隅神社のすぐ横で、竜宮の潮吹きと呼ばれる噴潮現象(岩礁内に縦穴があり、その下口に波が打ち寄せると潮が空に吹き上がる)が見られる場所がありますが、こちらは冬に北東風が吹き付けるときにだけ見られるそうです。

 


 前回のブログに書きましたが、50年程前に一度、普通列車でこの辺りを通過しましたが、山口県の日本海側を旅するのは初めてに等しいので、花だけでなく、主要な観光地も見て歩く予定です。

 

 次に訪ねたのが角島大橋でした。


 この橋は「死ぬまでに行きたい!世界の絶景」(何と大仰な!)で第3位に選ばれた名所中の名所です。

 


 角島大橋は1993年(平成5年)に着工し、2000年(平成12年)に開通しました。

 

 橋は国営公園内に位置する為、景観への影響と考慮し、橋脚の高さを押さえた構造になっています。

 

 更に景観保護の観点から、本土と角島の間の鳩島を迂回する架橋ルートにしたことなどが評価され、2003年に「土木学会デザイン賞2003」の最優秀賞を受賞しています。


 テレビCMのロケ地として使われることも多いので、誰もが見覚えのある景色の一つかもしれません

 

 

 この橋を見て、渡ってみたいと思わない人は居ないはずです。


 島に渡り、角島灯台や牧崎風の公園などを訪ねました。


 この日は何処に行っても風が強く、牧崎風の公園の遊歩道を歩くと、躰が風にもっていかれそうになりました。

 

 


   
 角島を出て、国道191号を淡々とはしり、たまたま信号停止した場所で、赤いマジックで「中止」と記された「鯖釣山椿祭り」のポスターに気付きました。


 「椿祭り」ということは、鯖釣山にツバキの群生地か椿園があるはずです。


 しかし、ナビを確認しても鯖釣山へ至る道が分かりません。


 周囲にコンビニも見当たらないので、道路に面した一軒の民家のドアをノックして、鯖釣山への道を尋ねました。


 鯖釣山の登山道は、国道と並走する山陰本線の反対側の旧道(県道270)を進み、山麓の鉄筋アパート横の細道を数百メートル程も進んだ先の、小さな砂防ダムの横にありました。


 登山口脇の「鯖釣山自生椿群生林整備事業」と題する掲示に


 「ふるさとのシンボル的な森林の再生を目的として、国土緑化推進機構「緑の募金」の活用と、地域の方々の参加協力により実施されたものです。

 

 「緑の募金」は「ファミリーマート夢の掛け橋募金」からの寄付金によるものです、と記されていました。

 


 砂防ダムの横に車を停めて、登山道を少し登ってみました。

 


 鞍部まで登ると、右手に小高いピークが見えてきて、そのピークと登山道が伸びてゆきます。


 登山道の周囲のツバキ林に赤い花を認めました。

 


 私はこの場所で、鯖釣山椿群生林の凡その状況が理解できたと判断し、この場所から車へ戻りました。


 しかし実は、本当の鯖釣山182mのピークは鞍部の左手にあって、山頂への道はシダが茂る藪道だそうです。

 

 ちなみに、上の写真に写っているのは湯玉城山193mで、多くの人がこのピークを鯖釣山と勘違いするそうです。

 

 「鯖釣山椿祭り」が中止となったように、新型コロナの影響が全国に及び始めていました。

 

 私はぎりぎりのタイミングで旅を続けていたようです。

 

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萩の梅と椿と山茶花

2020-07-05 20:32:31 | 西日本に梅を訪ねて

 

 山口の瑠璃光寺から錦鶏湖の脇を通り、峠を越えて、萩へ向かいました。


 はしり抜けたのは萩往還道と呼ばれるルートです。


 国道262号を進み、萩市街の手前で県道32号に入りトンネルを抜けると、
「道の駅萩往還」に出ました。


 「道の駅萩往還」に松陰記念館が併設され、数体の銅像が見えました。


 下の像は、右が初代内閣総理大臣の伊東博文、中央が五箇条の御誓文・廃藩置県などを提言した木戸孝允(桂小五郎)、左が二度の内閣総理大臣や枢密院議長などを務めた山縣有朋です。


 この三名は吉田松陰の松下村塾に学んだ俊英で、江戸から明治の変革期に、日本が先進国に追いつく基礎を作り上げた人達です。
 

 更に奥に、吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞の像があることを後から知りましたが、予定時間を過ぎていたので先を急ぎ、見落としてしまいました。

 


 道の駅萩往還から1km程進んだ場所で、萩往還梅林園の梅が、紅白にたなびく雲の如き景色を見せていました。


 これも後から知りましたが、萩から山口・防府へ通じる萩往還を旅すると、ここを過ぎると町が見えなくなり、萩を振り返ることができる最後の場所だそうです。

 

 人はここで松並木の間に見え隠れする萩に別れを惜しんで涙したことから、「涙松」と呼ばれ、

 

 吉田松陰が安政の大獄で江戸に送られる時ここで


 「かえらじと思いさだめし旅なれば、ひとしおぬるる涙松かな」

 

 の一首を残しています。

 


 時間は既に17時を過ぎていました。


 今日はもうここが限度と考え、たまたま目にしたスーパーで地酒と食料を買い求め、潮騒に包まれた海岸に寝場所を求めました。

 

 

 次の日の朝、観光客が繰り出す前に、市内を一回りしました。

 

 
 その後郊外へ車を走らせ、萩港の北に位置する笠山の虎ヶ崎に向かいました。


 笠山の麓の虎ヶ崎園地に椿群生林があり、約25000本のヤブツバキが自生しています。


 今回の旅は梅が主目的ですが、2月中旬~3月下旬に見ごろを迎える笠山椿群生林を見過ごす訳には行きません。


 椿林の中に歩を進めると、常緑樹のツバキ林特有の、下草の少ない林床が、一面の落椿に飾られていました。

 

 
 岬から日本海を望むと、これから訪ねる長門市辺りに幾つかの島影が見えます。

 


 北の方角にも、日本海に幾つかの島が浮かんでいました。


 もう20年程の昔ですが、転勤生活で、新潟の潮騒の丘に暮らしましたが、海の上にはいつも雲が浮かんでいました。


 陽射しの明るい広島から、三方を山に囲まれた萩に下った毛利輝元は、この景色の中で何を想っていたのでしょうか。
 

 

 虎ヶ崎で椿を眺め、もう一度萩市内へ戻りました。


 今から50年ほど前に、テントと寝袋を詰めたキスリングザックを背負って、学割の周遊券で山陰を旅したときに、萩の街を徒歩で巡りましたが、その時一番印象に残ったのが、塀に覗くナツミカンでした。


 もう一度その景色を見たいと願いましたが、高杉晋作の生家の近くで、記憶通りの光景に出会うことができました。

 

 

 そして初めて、高杉晋作の生家を訪ねました。

 


 さて、萩で是非とも見たいを思ったのが、自生北限と称する指月山のサザンカです。

 
 指月山は指月公園内にあるので、公園料金所でサザンカの存在を尋ねました。

 


 すると、園内を左手に少し進んだ茶室の裏手辺りにあるとのことでした。


 指月山の奥深い場所を予想していたので、ちょっと意外でした。


 そしてすぐに「指月山サザンカ自生北限地」の看板を見付けることができました。

 


 茶室裏手の山裾に、数十本の野生種らしきサザンカが葉を茂らせています。


 サザンカに花が咲く季節ではありませんが、葉などの特徴から野生種らしいことに間違いはなさそうです。

 

 しかし以前、九州でサザンカの自生地を訪ねた時の様子と、個々の木の樹高、太さが比較になりません。

 

 今日まで全国にサザンカの古木も見てきましたが、この場所のサザンカは若すぎます。


 私の目の判断では、この場所のサザンカはどう見積もっても、100年を超えることはない筈です。

 

 

 

 更に、この場所は実生サザンカが、100年持たずに枯れる環境には見えません。

 

 つまり、自生地という説に疑問符を付けざる得ないのです。


 但し、明治大正の頃に渡り鳥が種を運び来て自生地になっです経緯も考えられますが・・・

 

 詫び錆びを好む、茶人が出入りする茶室の裏に自生地があるのは偶然でしょうか。

 

 

 指月公園を去るときに、毛利輝元公の姿をお見受けしました。


 もしかすると、サザンカの自生地であるか否かは、輝元公であればご存知かもしれません。

 

 

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山口の梅と大内文化

2020-07-04 16:09:31 | 西日本に梅を訪ねて

 

 山口市街へと車を進め、龍福寺を訪ねました。


 私は、山口市を訪ねるのは今日が全く初めてです。


 今回はネット検索で、龍福寺に梅が咲くと知って訪ね来ました。

 


 しかし旅から帰り、記事を書きつつ龍福寺を調べますと、日本の鎌倉時代から室町時代かけて、この場所に関わる様々なできごとが、その後の歴史に、少なからぬ影響を与えていることを知りました。


 龍福寺は、平安末期から鎌倉室町時代にかけて周防(山口県の瀬戸内側)を中心に活躍した大内氏の館跡に建てられました。

 


 大内氏は大内義隆の時に、山陰山陽から北九州までをも支配下に置き、学問や芸術に熱心だったことから、後に大内文化(山口文化)と呼ばれる最盛期を迎えました。


 私は今回、そのような知識もないままに、龍福寺の門を潜ったのです。


 龍福寺の境内には50本の梅が咲きますが、山口市内は海沿いの場所より寒いのか、梅は2分咲き程でした。

 

 

 明治14年に龍福寺は禅堂と山門を残し焼失し、その後、大内氏の氏寺であった山口市内の興隆寺から釈迦堂を移築して、本堂とします。


 本堂(釈迦堂)は1479年(大永元年)に建立されたもので、室町時代を代表する寺院建築として、昭和29年に国の重要文化財に指定されています。
 

 

 境内に「豊後岩の由来」と題する、興味ある掲示を見ました。


 その内容は


 「大内氏は歴代政庁を山口に置いて、西日本に覇をはっていたが、防・長・芸・備・岩豊・築の七か国の守護を兼ね、その富と権力は天下に並ぶべきものがなかった。

 

 当時の世は兵乱にあけくれていたが、山口の町は平和で、いわゆる西の都の繁栄があった。

 

 大内氏は多くの来客をもてなすために、邸前に広大壮麗な築庭をし、当時珍しいソテツを植え、豊後から舟でもってきた岩を配置した。


 しかし、これらの岩は、豊後を恋しがり、雨の夜に「豊後に帰りたい」といって泣いた」

 

 と記されていました。

 

 

 しかしなぜ、豊後(九州の大分)からもってきた岩があるのでしょうか、少なからず唐突です。


 そして今回、大内氏の歴史を紐解き、その謎を知ることができました。


 この地に一時代を築き上げた大内義隆は、1541年に出雲の尼子晴久との戦いで、大内家を継ぐ養子を失い、1544年に豊後の戦国大名である大友義鑑の次男大友晴英を後継ぎに迎えました。

 

 当時は家督相続と所領がセットだったので、後継ぎは無くてはならないものだったのです。


 しかし大内義隆は1551年、重臣の陶隆房の謀反を受け、下関の大寧寺で自害し、大内氏の血筋は絶えます。

 

 一方、重臣だった陶隆房は晴英を君主に迎え、晴英の名を大内義長に変えて傀儡とし、大内氏は表面的に存続します。

 

 しかし陶隆房は1555年(天文24年)、安芸の宮島の厳島の戦いで毛利元就の奇襲を受けて命を落とします。

 

 大内義長と名を変えた、大友義鑑の次男晴英も1557年(弘治3年)毛利元就の侵攻を受け、下関の勝山城で自害し、大内氏は名実ともに滅亡しました。


 大内氏の館跡に建つ、龍福寺の庭に豊後由来の岩があり、その岩が豊後を恋しがって、「豊後に帰りたい」と言って泣く話は、きっと歴史の真実を知る後世の人々が語り継いできたのでしょう。


 唐突に感じた、龍福寺の豊後岩は私に、この地を舞台にした波乱万丈の歴史ドラマを教えてくれました。
 


 次に瑠璃光寺を訪ねました。


 この場所で最初に香積寺を建立したのは、大内氏に前期全盛期をもたらした大内義弘です。

 

 しかし、義弘は1399年(応永6年)に足利義満と争った応永の乱で、大阪堺で敗死。

 

 弟の盛見が兄の菩提を弔うために、香積寺に五重塔の造営を図り、1442年(嘉吉2年)頃に落慶しています。

 

 その後、関ヶ原の合戦に敗れた毛利輝元が萩に入り、香積寺を萩に引寺したため、跡地に山口県仁保から瑠璃光寺を移築し、今日に至ります。

 

 瑠璃光寺の五重塔は大内文化の最高傑作といわれ、日本三名塔の一つに数えられることもあるそうです。

 


 香山公園と呼ばれる境内は、桜や梅の名所としても知られます。


 五重塔を背にした広場で、3分咲き程の梅が微かな香を放っていました。

 


 この場所を訪ね、私は初めて、大内氏が1350年頃から勢力を拡大し、1551年に滅亡するまでの約200年間、大内氏が山口で果たした役割と、花開かせた文化を知ることができました。

 

 今も瑠璃光寺に漂う梅の香には、芳醇な大内文化のエッセンスが含まれているように感じました。

 

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