車窓に田園風景が広がります。
北海道の農業は酪農と畑作のイメージが強いのですが、実は米の生産量は新潟県に次ぐ国内第2位のシェアを誇り、新潟県との差はごくわずかです。
北海道は、長い間稲作に向かないと言われてきましたが、「ゆめぴりか」「ななつぼし」などの品種改良でコメの食味も改善され、現在の石狩平野には広大な田が広がっています。
やがて列車は蘭留(らんる)に停車しました。
語源はアイヌ語で下り道を意味するラン・ルだそうです。
同じ発音で、使い古しの布を意味する襤褸という言葉があります。
この言葉で思い出すのが「襤褸の旗」という、足尾銅山鉱毒事件解決に闘いを挑んだ田中正造の半生を描いた映画です。
昭和49年に公開され、田中正造役の三國連太郎の演技が評判になりました。
日本はこの映画の主題となった足尾銅山鉱毒事件の後、水俣病、新潟水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病などの経験や反省を経て、昭和46年(1971年)に環境庁を発足させるに至りました。
そんな時代背景の中で公開された映画でした。
線路脇にドイツトウヒの防雪林が続いていました。
北海道の防雪林の四分の一がドイツトウヒですので、鉄道で北海道を旅するときによく目にする光景です。
この先の剣淵・士別間防雪林は、北海道の鉄道防雪林にドイツトウヒを導入した深川冬至氏の功績を称えて「深川林地」と呼ばれ、平成17年に土木遺産に認定されています。
列車は蘭留に続き塩狩に停車しました。
塩狩駅のある塩狩峠は標高273メートルです。
SL全盛期にこの峠を超えるために、前の蘭留駅と次の和寒駅間で補助機関車を連結したことから、SLの勇ましい写真が撮れたので、全国の鉄道ファンにはよく名の知られた駅でした。
明治42年には、この峠を通過中の列車で、最後尾の客車の連結が外れ、客車が逆走する事故が起きました。
このとき長野政雄さんという車掌さんが命を賭して列車を止め、乗客は全員無事でしたが、敬虔なクリスチャンだった長野さんは命を落とされました。
この実話をもとに三浦綾子が書いた小説が「塩狩峠」です。
塩狩峠には長野政雄さんの顕彰碑と三浦綾子さんの旧宅を再現した記念館が残されています。
塩狩駅を出た列車は、6時53分に和寒に停車しました。
列車前方のドアに多くの高校生が列を作っています。
ワンマンカーなので乗車口は一ヶ所しか開かないのです。
和寒町の名の由来はアイヌ語で「ニレの木のそば」を意味するアッ・サムだそうです。
「ニレの木のそば」などと、なかなかにロマンチックな町名です。
和寒を出た列車は6時59分に、次の東六線駅に停車しました。
東六線駅は、長さ一両分のホームからなる無人駅で、私の乗った車両はホームから外れ、駅に接する道路に掛かる踏切上に停車しました。
一日に数本しか止まらない列車にたまたま居合わせた運の悪いトラックが、列車の出発をのんびりと眺めていました。
そして剣淵駅でも多くの高校生が乗り込んできました。
剣淵町の名の由来は、アイヌ語で「はんの木の多い川」を意味するケネ・ペツだそうです。
私の周囲の席は高校生で埋まり、気動車は青春通学列車と化して、青春18きっぷの旅を大いに盛り上げてくれました。
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