昨日とは打って代わって、北陸全域が土砂降りの雨となりました。
深夜、NHKで「爆笑問題・東大の教養」(というタイトルでしたか?)という番組が放映されていました。東大教養学部でタレントの爆笑問題のお二人と教養学部教授がモデレータとなって「教養とは何か?」をテーマに同学部の新入生と教員を集めてディスカションをするという内容でした。知り合いの教員が大勢参加されていて興味深く見ていました。
東大は教養学部という名称の学部を日本で最初に設置した大学だとか。日本の大学の教養課程は90年代の初頭以降、専門課程との明瞭な区別は無くなっていったようです。教養課程という言葉自体がいつの間にか死語になっていましたが最近復活の兆しがあるようです。玉川大学は「リベラルアーツ学部」という学部をわざわざ新設しています。
教養学部と教養課程は決して同義ではないのですが、何となく同じものとされていたような印象もあります。
一般教養をないがしろにしては、本当の専門性など身に付かないという反省が教育関係者の間に出てきたようなのです。
「教養」は英訳するとcultureとなりますが」、 (an) educationとも訳します。これは教育とも和訳できますね。番組では、明治期まで教養は教育と同義とされていたとか。元来は、(土地を)耕すという意味のラテン語のcaltivateだったそうです。頭脳を「耕して」いろいろな知識を生むという趣旨ですね。
一方教養を教える教養学部は英訳すると、上記の玉川大学のようにa college of liberal artsとなります。liberal artsは和訳されると「自由学問」とか「自由技芸」とも訳されます。liberalを和訳すると形容詞では、気前のよい、豊富な、自由な、寛大な、自由主義の、一般教養科目のといった訳が当てられますが、名詞では自由主義者、進歩的な人、(英国などの)自由党員といった訳が当てられます。
人間が、自由であること、寛大であること、豊かで心が広いことは、幅広い知識を身に付けることと大きな関係があるようです。
わが国で教養課程が重視されなくなった理由は、早く専門科目を教えた方が良いという配慮のゆえだったと思われますが、その専門性も幅広い知識の裏づけが無いと良くないという反省が上記の反省の中身なのでしょう。この反省は理に適ったものと思われますが問題は、現代では知識の量が膨大に増えたことと、それを情報処理する人間の脳のCPUがギリシャ時代と変わらないということですね。しかし膨大に増えた知識を適切に取捨選択する処理をするにも幅広い知識が必要であるというジレンマに私達は直面しています。
ではどうすればいいのでしょうか?
ひとつのヒントとしては、何が自分に必要な知識かを、決め付け「すぎない」ように注意するということかなと思います。この場合の自分には「今」の自分と「未来」の自分の両方が含まれていることを意識しておくこと大事だと思います。
深夜、NHKで「爆笑問題・東大の教養」(というタイトルでしたか?)という番組が放映されていました。東大教養学部でタレントの爆笑問題のお二人と教養学部教授がモデレータとなって「教養とは何か?」をテーマに同学部の新入生と教員を集めてディスカションをするという内容でした。知り合いの教員が大勢参加されていて興味深く見ていました。
東大は教養学部という名称の学部を日本で最初に設置した大学だとか。日本の大学の教養課程は90年代の初頭以降、専門課程との明瞭な区別は無くなっていったようです。教養課程という言葉自体がいつの間にか死語になっていましたが最近復活の兆しがあるようです。玉川大学は「リベラルアーツ学部」という学部をわざわざ新設しています。
教養学部と教養課程は決して同義ではないのですが、何となく同じものとされていたような印象もあります。
一般教養をないがしろにしては、本当の専門性など身に付かないという反省が教育関係者の間に出てきたようなのです。
「教養」は英訳するとcultureとなりますが」、 (an) educationとも訳します。これは教育とも和訳できますね。番組では、明治期まで教養は教育と同義とされていたとか。元来は、(土地を)耕すという意味のラテン語のcaltivateだったそうです。頭脳を「耕して」いろいろな知識を生むという趣旨ですね。
一方教養を教える教養学部は英訳すると、上記の玉川大学のようにa college of liberal artsとなります。liberal artsは和訳されると「自由学問」とか「自由技芸」とも訳されます。liberalを和訳すると形容詞では、気前のよい、豊富な、自由な、寛大な、自由主義の、一般教養科目のといった訳が当てられますが、名詞では自由主義者、進歩的な人、(英国などの)自由党員といった訳が当てられます。
人間が、自由であること、寛大であること、豊かで心が広いことは、幅広い知識を身に付けることと大きな関係があるようです。
わが国で教養課程が重視されなくなった理由は、早く専門科目を教えた方が良いという配慮のゆえだったと思われますが、その専門性も幅広い知識の裏づけが無いと良くないという反省が上記の反省の中身なのでしょう。この反省は理に適ったものと思われますが問題は、現代では知識の量が膨大に増えたことと、それを情報処理する人間の脳のCPUがギリシャ時代と変わらないということですね。しかし膨大に増えた知識を適切に取捨選択する処理をするにも幅広い知識が必要であるというジレンマに私達は直面しています。
ではどうすればいいのでしょうか?
ひとつのヒントとしては、何が自分に必要な知識かを、決め付け「すぎない」ように注意するということかなと思います。この場合の自分には「今」の自分と「未来」の自分の両方が含まれていることを意識しておくこと大事だと思います。