絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

キュービズムってなーに??

2009-07-20 | 美術
これが、キュービズムです。

日本一わかりやすいキュービズムの説明をします。

子供は、自動車を描くとき、このように描くそうです。

どうしてでしょう。

なぜなら、タイヤは4つあるからです。

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これは、見える通りではありません。
知ってる通りです。ピカソはこれをやったのです。

見える通りなら、タイヤは二つです。反対側に回らなければ、後の二つは見えません。

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ピカソは、見える通りの絵画から、知ってる通りの絵画に変えてしまったのです。


一つの形態を把握する場合、一つの方向から見たのでは、その本当の形は掴めない。

その例をお示しします。

簡単です。
ここに、このような円があります。しかし、この形は全体がどのようなものであるかは、わかりません。

すこし、動いてみたら、円柱でした。円錐でした。半分の球でした。ということがわかります。


だから、形態を把握する場合、一つの視点から見たのでは、全体が掴めないのです。

ピカソがやった、キュービズムとはこれです。

一つのものを、いろいろな角度から見て描いて、それらを一つの画面に再構成する
それが、キュービズム絵画でした。

これで、終わりです。簡単でしょ。

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画家は、色と形を使って、哲学をするのです。ピカソの場合は、このように見る点を増やすことで、形態を把握するという試みをやりました。
これは、目的は違いましたが、セザンヌもやっていることでした。


難しく言うと、多視点の絵画と言います。ピカソはこれをやりました。

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Q1、どうして、こんな絵を描き始めたのでしょうか。

答え、  やはり、ピカソは自分独自の絵画を求めて探していました。



Q2、きっかけは何ですか。


 答え、  

子供たちが道で地面に絵を描いて遊んでいるところに通りかかり、子供たちとお話をしていたら、ある子供がマッチ箱のようなものを描いていて、ピカソは「もっと違う風に描けない?」と話しかけたら、いろいろ無邪気に描いてくれた結果、最後にその子供が箱をバラバラに壊した絵を描いたのだそうです。

それを、見たピカソは、「あっ、これだ!」と思ったそうです。
そして、キュービズムを始めたのだと。

それは、箱の展開図でした。

そこから、形態をバラバラに壊して、再構成する絵画を始めたのです。

ピカソは、世界中のだれもやったことのない絵画を探していたのです      ね。

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しかし、最初のアビニヨンの娘たちという絵は、みんなから馬鹿にされましたよ。
ピカソは、狂ったといわれ、「その内、あの絵の裏で、首を吊るだろう」と言われました。「やはり天才とは、狂人と紙一重だね」と言われました。

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正面向きの顔に、横向きの鼻。 横向きの顔に、正面向きの目。を合成させた絵が誕生しました。


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絵は画家の勝手

2009-07-20 | 美術
絵は、どう描いても構わない。

そうですね。そのとおりです。その筈です。

自由でいいのです。


   何も求めなければ、自由です。


それは、人に迷惑をかけなければ、表現の自由は認められます。

絵に限らず、山へ行って大声で「バカ野郎!」と叫ぶのと同じくらい自由です。

でも、「どうして人間は、絵を描くのか」と考えてみると、その答えはどうなるでしょうか。

何も求めない絵とはあるでしょうか?

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それは、絵とは何かということに、考えが行きつきます。

ラスコーや、アルタミラの洞窟壁画は、なぜ描かれたか?
勝手にどうでもよく描かれたのでしょうか。
狩りが上手くいくようにという祈りで描かれたとしたら、こんな獲物が捕れますようにと考えたなら、その獲物に似た絵になっていなければ、ならないのではないでしょうか。それが、求めるものです。

ずっと、飛んで、モナリザはなぜ描かれたか?
勝手にどうでもよく描かれたのでしょうか。
肖像画として、頼まれて描いたのか、レオナルドが好きだった人を描いたのか、
ダビンチコードでいうような、マグダラのマリアを描いて暗号として残したのか?
わかりませんが、求めるものがあったようです。

印象派の画家は、勝手に描いたのでしょうか?
サロンという展覧会に入選したくても、入選できないという屈辱を感じながら、腹を立てて開き直って描いていた人もいます。しかし、真面目にサロンの考え方に反発して、自然の本当の姿を表現しようとして描いていました。
ここにも、求めるものがありました。
自然を見えるとおりに描いて、その感動を伝えようという目的と、そういうものが大切だという考えをサロンに認めさせるという目的です。

ピカソのゲルニカは、ナチスドイツへの怒りを絵でぶつけました。
世界に訴えるという試みです。それが、求めるものでした。

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普通は、表現というものは、何か目的があってするものではないでしょうか。

絵の場合は、視覚的に他者に伝達する手段なのでしょう。

ということは、見られることを前提にしている。

どうでしょうか。

表現は、狙いがあるからするもの。と言っていいでしょうか。


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実は、今、私は分かっていて書いていません。書きながら考えています。
結論が出るかどうかわかりません。

ただ、絵を考える材料は持っています。それを使って、果たして掲げたテーマの答えが出るか、試みています。

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無人島で、一人でいたら、絵を描くだろうか?

もし、描いたとして、それはどんな目的があるだろうか。
いや、目的じゃなくただの暇つぶしか。

ならば、絵を描いてすぐに破くか?

絵は、見る人を意識しないか?

描いている本人も、見る人でもあるのだが。

段々分らなくなってきました。

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実は、セザンヌやピカソの時代は、サロンという展覧会があり、そのサロンの言う通りに描かないと、入選させてもらえませんでした。
ですから、絵は自由に描いてはいけなかったのです。

だから、その考えにそぐわない印象派の画家たちは、サロンで落選しました。
今では、有名になっている絵でさえ、落選しました。


だから、絵は勝手に自由ではないという時代がありました。



いや、今でも目的を持つと、自由ではありません。
展覧会に入選したいという目的を持つと、少なくとも審査をする人たちの入選基準というものに、そぐわなければならないのです。



だから、何の目的も持たずに、ただ描くだけなら、自由で勝手で良いのです。

それは、下手でも、漫画でも、落書きでも、良くない絵でも、何でもいいのです。
しかし、それでよいと思って描くことに意味はあるでしょうか。

意味はなくてよいと言われたら、それ以上は進まない話ですが。

また、考えてみます。

みなさんも、考えてみてください。

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一言付け加えると、私は、絵のわかる人に認められたいと思って描いています。
しかし、媚びるつもりはありません。ましてや、ごまをすることはしません。

自分の考える絵を描いて、それがハイレベルの絵がわかる人から認めてもらえたらうれしいと思います。














コメント (4)
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