見える通りに描くということが、不可能なら、
我々は、いつもどうやって描いているのでしょうか。
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私は、異時同画ではないかと思います。
異なる時間に見えているものを、同じ画面の中に描いているのですから。
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美術史知識
この異時同画というのは、実は、はっきりとルネッサンス初期に出てきます。
尤も、理由は今回のこととは関係ありませんが。
マザッチョという画家が、キリストの貢の銭という絵で、行いました。
キリストが、税金を要求されて、それをペテロに払わせるまでの、三つの場面を一つの絵の中に描きました。
時間の違う三つの場面を同じ画面の中に描いたのです。
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考えてみると、私たちが見えるとおり素直に絵を描く場合、意識しない内にこの異時同画をやっていることにならないでしょうか。
一つ一つのものを描いていく場合でも、同時にはできません。空を塗って、山を塗って、林を塗って、畑を塗ってという具合に色を着けていく場合でも、それぞれがその時に見えている状況に合わせて、表現していきます。
だから、さっき空を描いていた時に見えていた畑の様子と、今、畑の色を塗るときの様子とは異なっていることが多いです。
それを、初めに見たときはこうだったよなと思い出しながら、あのときの感じで描こうという決断をして、描くのでしょう。
山の風景を描いている時などは、雲の動きによって、下の山肌の明暗が違ってきますから、様々な様子の変化が忙しく、どの状態が良いか迷ったりしますね。
そして、あそこに雲があった時が、下の影がよかったから、それにしようなどと、判断して描いたり、そういう変化があるなら、ここが暗い方がいいんじゃないかなどと勝手に想像したりして、自分で作り出したりすることもあります。
そうなると、異時同画よりもっと、自分の意思で変えてしまうことになりますね。
まあ、見えるとおりに描くという範囲から外れていくことになります。
現実には、そんな風に進めていくのでしょう。
ただし、あまり勝手にやると、現実にはありえない風景画になったりして、だいぶ嘘があるなあと言われて、見抜かれてしまうこともありますが。
まとめると
時間とともに変化する自然と付き合いながら、自然が見せてくれる様々な表情と会話しながら、その中のいいなあと感じるものを合わせて描いたりするのが、我々が極当たり前に、見える通りに描いていると思っている絵画です。
異なる時間の寄せ集めであり、一瞬の印象を一瞬に掴み取ったまるで写真のような早業で描くのではなく、都合によってこの方が良いと思って変えてしまうことさえしながら、しかし、本人は見えるとおり描いていると思っているのが我々がやっている絵画です。
見えるとおりに描くということが、いかに見える通りではないかを感じませんか。
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私は、これを悪いとは言ってませんよ。
ただ、我々が見えるとおりに描いているつもりの絵画とは実は、このように描いている絵画なのだと改めて、見つめ直しているのです。
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では、どうするのか?という問題になります。
(いや、どうもしなくてもいいんですけどね)
歴史的には、
そこに、画家の意思が問題になりました。
表現とは、画家の中にある何ものかを他者に伝えるものだという観点から考えると、印象派ならば、その内的ビジョンは自然から受けた印象でしょう。
夕方のたそがれ時の、あの空気と空の色から受けるなんとも言いようのない雰囲気
とでもいいましょうか、もちろん言葉で表せないから絵に描くのですが、そのような感動を他の人にも見せたくて、自分でも描きとめておきたくて絵に描くのです。
(自分も見る人ですからね。その意味では後の自分も見る人としての他者になります。)
画家の意思が重要とは、その感動(内的ビジョン)をどのように表現するかです。
それには、時間とともに変化することに、合わせてはいけない部分が出てきます。
初めの印象から外れないことです。そうです、初めの感動に基づいて、なるべく早く描くことも要求されます。その意思に基づいて必要か不要かを判断しながら、描くのです。
それは、写真のような見えるとおりではなくなっていきます。
私は、このことは、生徒たちに足し算引き算という話で説明します。
「自分が表わそうとするものに、じゃまなものは描かなくてもいい。その表したいものに必要なものは加えてもいい」ということです。これは、セザンヌもやったことです。
セザンヌが印象派から離れて、自分独自の絵画をやり始めた理由は、印象派はただ自然を写し取っているだけだ、絵の理想を求めてはいない。ということだったと思います。絵は、画家にとっては自分の意思を表す場であるという考えに基づいて、単なる写生ではないと言ったのです。
だから、モネを批判もしました。
「モネは、単なる目に過ぎない、しかし、なんという目だ!!」という言葉が有名です。
単なる目に過ぎないという部分が、批判です。しかし、その単なる目といえども、なんという素晴らしい目だと呆れているのです。(すごい目だという意味です)
見える通りに描くのではなく、画家の意思の表出の場、難しく言うと、内的ビジョンを他者に見える形にすること。それが、後期印象派の画家たちがやったことでした。
セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンたちです。
印象派は、光、光、光、と言いすぎて、絵がどんどんぼけていきます。光が溢れすぎたのです。見える通りを追究したはずの絵が、見える通りとは程遠い絵画になっていくことに、理論的には、周りの人たちの期待を裏切るかたちとなりました。
だから、印象派は失敗だったなどと、言われるのです。
(理論的には、失敗でも、そのためにすごい作品ができたことは見逃せません)
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写真の話ですが、下が真っ黒になったり、空が真っ白になったりするのは、ホワイト設定ですか?それとも露出の問題でしょうか?
本来は、一つの目では、カメラと同じになるはずなのに、人間の眼は意思でどちらも同時に見ることができる能力をもっているということでしょうか。
その辺の詳しい話がわかる人に教えてもらえたらありがたいなあと思います。
もちろん、カメラの操作で、眼で見えるように撮影できるなら、有難いことです。
我々は、いつもどうやって描いているのでしょうか。
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私は、異時同画ではないかと思います。
異なる時間に見えているものを、同じ画面の中に描いているのですから。
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美術史知識
この異時同画というのは、実は、はっきりとルネッサンス初期に出てきます。
尤も、理由は今回のこととは関係ありませんが。
マザッチョという画家が、キリストの貢の銭という絵で、行いました。
キリストが、税金を要求されて、それをペテロに払わせるまでの、三つの場面を一つの絵の中に描きました。
時間の違う三つの場面を同じ画面の中に描いたのです。
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考えてみると、私たちが見えるとおり素直に絵を描く場合、意識しない内にこの異時同画をやっていることにならないでしょうか。
一つ一つのものを描いていく場合でも、同時にはできません。空を塗って、山を塗って、林を塗って、畑を塗ってという具合に色を着けていく場合でも、それぞれがその時に見えている状況に合わせて、表現していきます。
だから、さっき空を描いていた時に見えていた畑の様子と、今、畑の色を塗るときの様子とは異なっていることが多いです。
それを、初めに見たときはこうだったよなと思い出しながら、あのときの感じで描こうという決断をして、描くのでしょう。
山の風景を描いている時などは、雲の動きによって、下の山肌の明暗が違ってきますから、様々な様子の変化が忙しく、どの状態が良いか迷ったりしますね。
そして、あそこに雲があった時が、下の影がよかったから、それにしようなどと、判断して描いたり、そういう変化があるなら、ここが暗い方がいいんじゃないかなどと勝手に想像したりして、自分で作り出したりすることもあります。
そうなると、異時同画よりもっと、自分の意思で変えてしまうことになりますね。
まあ、見えるとおりに描くという範囲から外れていくことになります。
現実には、そんな風に進めていくのでしょう。
ただし、あまり勝手にやると、現実にはありえない風景画になったりして、だいぶ嘘があるなあと言われて、見抜かれてしまうこともありますが。
まとめると
時間とともに変化する自然と付き合いながら、自然が見せてくれる様々な表情と会話しながら、その中のいいなあと感じるものを合わせて描いたりするのが、我々が極当たり前に、見える通りに描いていると思っている絵画です。
異なる時間の寄せ集めであり、一瞬の印象を一瞬に掴み取ったまるで写真のような早業で描くのではなく、都合によってこの方が良いと思って変えてしまうことさえしながら、しかし、本人は見えるとおり描いていると思っているのが我々がやっている絵画です。
見えるとおりに描くということが、いかに見える通りではないかを感じませんか。
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私は、これを悪いとは言ってませんよ。
ただ、我々が見えるとおりに描いているつもりの絵画とは実は、このように描いている絵画なのだと改めて、見つめ直しているのです。
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では、どうするのか?という問題になります。
(いや、どうもしなくてもいいんですけどね)
歴史的には、
そこに、画家の意思が問題になりました。
表現とは、画家の中にある何ものかを他者に伝えるものだという観点から考えると、印象派ならば、その内的ビジョンは自然から受けた印象でしょう。
夕方のたそがれ時の、あの空気と空の色から受けるなんとも言いようのない雰囲気
とでもいいましょうか、もちろん言葉で表せないから絵に描くのですが、そのような感動を他の人にも見せたくて、自分でも描きとめておきたくて絵に描くのです。
(自分も見る人ですからね。その意味では後の自分も見る人としての他者になります。)
画家の意思が重要とは、その感動(内的ビジョン)をどのように表現するかです。
それには、時間とともに変化することに、合わせてはいけない部分が出てきます。
初めの印象から外れないことです。そうです、初めの感動に基づいて、なるべく早く描くことも要求されます。その意思に基づいて必要か不要かを判断しながら、描くのです。
それは、写真のような見えるとおりではなくなっていきます。
私は、このことは、生徒たちに足し算引き算という話で説明します。
「自分が表わそうとするものに、じゃまなものは描かなくてもいい。その表したいものに必要なものは加えてもいい」ということです。これは、セザンヌもやったことです。
セザンヌが印象派から離れて、自分独自の絵画をやり始めた理由は、印象派はただ自然を写し取っているだけだ、絵の理想を求めてはいない。ということだったと思います。絵は、画家にとっては自分の意思を表す場であるという考えに基づいて、単なる写生ではないと言ったのです。
だから、モネを批判もしました。
「モネは、単なる目に過ぎない、しかし、なんという目だ!!」という言葉が有名です。
単なる目に過ぎないという部分が、批判です。しかし、その単なる目といえども、なんという素晴らしい目だと呆れているのです。(すごい目だという意味です)
見える通りに描くのではなく、画家の意思の表出の場、難しく言うと、内的ビジョンを他者に見える形にすること。それが、後期印象派の画家たちがやったことでした。
セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンたちです。
印象派は、光、光、光、と言いすぎて、絵がどんどんぼけていきます。光が溢れすぎたのです。見える通りを追究したはずの絵が、見える通りとは程遠い絵画になっていくことに、理論的には、周りの人たちの期待を裏切るかたちとなりました。
だから、印象派は失敗だったなどと、言われるのです。
(理論的には、失敗でも、そのためにすごい作品ができたことは見逃せません)
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写真の話ですが、下が真っ黒になったり、空が真っ白になったりするのは、ホワイト設定ですか?それとも露出の問題でしょうか?
本来は、一つの目では、カメラと同じになるはずなのに、人間の眼は意思でどちらも同時に見ることができる能力をもっているということでしょうか。
その辺の詳しい話がわかる人に教えてもらえたらありがたいなあと思います。
もちろん、カメラの操作で、眼で見えるように撮影できるなら、有難いことです。