絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

子供デッサン教室

2009-07-28 | 日記
今日は、子供デッサン教室がありました。

本庄中央公民館からの依頼で、子どもたちにデッサンを教えてほしいと頼まれました。参加者は、12名でした。次の予定は、8月11日ですが、その日は希望者が多くて、20名だそうです。抽選で溢れてしまったかた、申し訳ありません。

デッサンを習いたい方は、児玉町のセルディでやっていますので、連絡してください。
    090-3908-2019  菅野まで、

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私の健康状況

いま、とても体調が良いです。夜も熟睡できます。
体の調子が良いというのは、こういうことなのかと実感しています。
ということは、いままで、いかに具合が悪かったかということになります。
具合が悪いことに慣れてしまって、それが当たり前になっていたようです。

いま、冷房のきいたところにいると、常に風呂上りのような爽やかな気分です。
麻薬なら、朦朧とした気持ちよさかもしれませんが、これは、さわやかなのです。
私は、麻薬はもちろんやったことは、有りませんが、痛み止めの注射をやり続けていたときに朦朧とした気持ちよさを感じた経験があるので、麻薬はこんな気持ちよさじゃないかなと想像ができます。
しかし、こんかいはさわやかな気持良さです。頭も冴えています。これなら、受験勉強ができるのではないかなという感じです。勉強して、東大を受けようかななんて思いました。

足の具合は、段々と良くなるので、うれしくてたまりません。このステロイドの治療を続けられるなら、もっと続けて欲しいとさえ思います。

経済の回復じゃないけれど、経済も私の足もV字回復してほしいです。

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美術史クイズ

1、ルネッサンスの三大巨匠は、誰ですか。

2、ルネッサンスとは、何の復活ですか。

3、イタリアのどこが、中心でしたか。

4、印象派の名前のきっかけになったのは、誰のなんという絵ですか。

5、印象派は、サロンの何に反発しましたか。

6、画家が失業の危機になったのは、何の発明でしたか。

7、印象派を馬鹿にした新聞記者はだれですか。

8、昔の絵具は、乾かないように、何に入れられていましたか。

9、画家が外へ絵を描きにいけるようになったのは、何の発明によりますか。

10、モネが30分毎にキャンバスを取り換えて描いたのは、何を描いていた時ですか。


答えは、私のブログの中にあります。答えを探してみてください。





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ルネッサンスってなーに??

2009-07-27 | 美術
ルネッサンスってよく聞くよね

なんだろう??

ルネッサンスとは、レオナルドダビンチの時代に、イタリアのフィレンツェを中心に興った芸術運動といえばいいかな。

言葉の意味は「復活」だと思えばいいよ。正確には文芸復興と訳されるよ。

何の復活かというと、ギリシャ、ローマ時代の復活なんだ。

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簡単に言うと、

   ギリシャ、ローマの時代に理想的なすばらしい芸術があったんだ。
   それを、キリスト教が駄目にしてしまった。それで、それを復活させようというのが、ルネッサンスだよ。

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こんなに簡単に言ってはいけないと専門家の人には、叱られそうだけど、物事は簡単にとらえることから始めた方がいいんだ。難しいことをやさしく捉える。そして、段々と詳しく知って行く方がいいよ。
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  ギリシャ、ローマの理想美は、ミロのビーナスに代表される8頭身美人で覚えよう。

ギリシャ、ローマ時代の後、約1000年間中世という時代があって、その時代は、キリスト教がとても強くて、芸術はあまり発達しない時代があったんだよ。
今では、宗教画などでキリスト教美術というものがたくさん残されているけれど、その時代は、本来キリスト教は、偶像崇拝を許さない宗教なので、彫刻も絵画も作られない時代になって、もし作られてもそれは良くないと言って、壊されたりしたんだ。

西暦800年ごろ、偶像破壊運動があったよ。

でも、文字が読めない人が多かった時代だから、絵や彫刻は世界共通語で宗教を伝えるには、とてもわかりやすいものだったはずだけどね。

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でも、とにかくそういうわけで、中世の時代には、芸術はあまり発展しなかったのです。

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それから、中世の時代は、キリスト教が強すぎて、生きている人間よりも神が大切という時代で、ある意味で、人々は幸せではなかったんだ。
それが、ルネッサンスになると、いま生きている人が幸せでなくて、どうするの。死んでからより、今が大事と考えるようになったんだね。人間が本来の人間性を取り戻した時代なんだよ。それをヒューマニズムっていうんだ。キリスト教に締め付けられていたからね。苦しんでいたんだ。それを解放した時代です。

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そんな時代に、メヂチ家のような大富豪が現れて、芸術家を応援して、絵や彫刻をどんどん作らせるようになったんだ。それで、絵画や彫刻がものすごい勢いで、発達したんだよ。

ギリシャ、ローマにすばらしい芸術があったんだから、それを取り戻そうという空気が生まれたんだね。経済的な発展もあったので、そのようなことができたんだね。

代表的な人は、レオナルドダビンチ、ミケランジェロ、ラファエロがいるよ。
この三人は、ルネッサンスの三大巨匠と言われるんだ。


でも、私はもう一人どうしても覚えて欲しい画家がいます。
それは、ボッチチェリーです。
ビーナスの誕生と春を描いた人だよ。

左が「ビーナスの誕生」で、右が「春」です


フィレンツェのウフィッツィ美術館に行くと、この絵がある。ぜひ覚えて欲しい絵です。ルネッサンスという本を描く人は、結構表紙に使っているルネッサンスを代表する絵ですから。

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詳しく話すと、私は美術においては、ルネッサンスはジョットから始まると教えています。そして、マザッチョ、フラアンジェリコ、ピエロデラフランチェスコ、を覚えてもらって、ボッチチェリー、から三大巨匠へと話していきます。

ルネッサンスとは、14世紀から16世紀のイタリアの文化全体を指します。









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エコールドなかまち

2009-07-26 | 絵のこと
美味倶楽部なかまちです。

ここは、私の絵が20点展示されています。いつもクラッシック音楽が流れ、静かに音楽を聴きながら、絵を鑑賞していただけるようになっています。

私にとっては、有難い素敵なお店です。

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私は、大抵朝9時半にここへ行き、新聞を読み、アイスコーヒーを飲みながら、日記を書くことにしています。昨日までの日々を振り返り、これからを考えます。

退職をして、遊んでいるので、ゆったりと時間を過ごしています。

足が不自由なので、リハビリに行っていますが、後はほとんどすることがありません。尤も、画家ですから絵を描くことと、絵を教えることはあるのですが、それは、ほんの限られた時間で、一日のほとんどが自由時間です。

現在、54歳.まだまだ若いので、これから何をしてやろうかと、考え中です。



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このなかまちの絵は、時々架け替えます。

新しい絵ができて、自分の他の絵と比べてみたいなと思った時は、ここへ持ってきて、並べてみるのです。そして、その新しい絵の出来具合を調べます。
並べてみて、良く見えたときは、うれしいですし、良く見えないときは、がっかりします。そうやって、自分の絵と勝負することで、更に良くなりたいと考えています。

その意味からすると、自分の絵と並べて見ることができるという状況があることが、有難いのです。普通の画家では、そんなことはできないでしょう。


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私は、このなかまちが、文化人の集まるお店になったらいいなあと思います。

1910年代~20年代のパリに、エコールドパリと呼ばれた画家たちがいました。
それは、パリを絵を学ぶ学校と考え、集まってきた画家たちをさします。

本当に学校へ通うのではなく、パリという街を学びの場と考えた画家たちが、カフェというバーのようなところへ、集まっては芸術論を戦わせたりしながら、青春の一時期を過ごしたのです。


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私は、できたら「エコールド本庄」、もしくは「エコールドなかまち」を作りたいなあと思います。

このお店に、文化人が集まる。絵描きが集まる。そして、それぞれの思いを語り合ったりしながら、文化的交流を図るというイメージです。

文化人、教養人、勉強したい方、みんななかまちに集まりませんか。私は、大抵毎朝なかまちでアイスコーヒーを飲んでいます。

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絵の話をしたい方は、私がいたら声をかけてください。いなかったら、お店の方に聞いて電話をかけてください。近くにいるときは、すぐにお店に駆けつけます。
楽しい絵の話をしましょう。

美味倶楽部なかまちは、埼玉県本庄市児玉町のほぼ中央にあります。

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見える通りに描く、パート2

2009-07-25 | 美術
見える通りに描くということが、不可能なら、
我々は、いつもどうやって描いているのでしょうか。

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私は、異時同画ではないかと思います。
異なる時間に見えているものを、同じ画面の中に描いているのですから。

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美術史知識

この異時同画というのは、実は、はっきりとルネッサンス初期に出てきます。
尤も、理由は今回のこととは関係ありませんが。

マザッチョという画家が、キリストの貢の銭という絵で、行いました。
キリストが、税金を要求されて、それをペテロに払わせるまでの、三つの場面を一つの絵の中に描きました。
時間の違う三つの場面を同じ画面の中に描いたのです。

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考えてみると、私たちが見えるとおり素直に絵を描く場合、意識しない内にこの異時同画をやっていることにならないでしょうか。

一つ一つのものを描いていく場合でも、同時にはできません。空を塗って、山を塗って、林を塗って、畑を塗ってという具合に色を着けていく場合でも、それぞれがその時に見えている状況に合わせて、表現していきます。
だから、さっき空を描いていた時に見えていた畑の様子と、今、畑の色を塗るときの様子とは異なっていることが多いです。
それを、初めに見たときはこうだったよなと思い出しながら、あのときの感じで描こうという決断をして、描くのでしょう。

山の風景を描いている時などは、雲の動きによって、下の山肌の明暗が違ってきますから、様々な様子の変化が忙しく、どの状態が良いか迷ったりしますね。
そして、あそこに雲があった時が、下の影がよかったから、それにしようなどと、判断して描いたり、そういう変化があるなら、ここが暗い方がいいんじゃないかなどと勝手に想像したりして、自分で作り出したりすることもあります。
そうなると、異時同画よりもっと、自分の意思で変えてしまうことになりますね。

まあ、見えるとおりに描くという範囲から外れていくことになります。

現実には、そんな風に進めていくのでしょう。

ただし、あまり勝手にやると、現実にはありえない風景画になったりして、だいぶ嘘があるなあと言われて、見抜かれてしまうこともありますが。

まとめると

時間とともに変化する自然と付き合いながら、自然が見せてくれる様々な表情と会話しながら、その中のいいなあと感じるものを合わせて描いたりするのが、我々が極当たり前に、見える通りに描いていると思っている絵画です。

異なる時間の寄せ集めであり、一瞬の印象を一瞬に掴み取ったまるで写真のような早業で描くのではなく、都合によってこの方が良いと思って変えてしまうことさえしながら、しかし、本人は見えるとおり描いていると思っているのが我々がやっている絵画です。

見えるとおりに描くということが、いかに見える通りではないかを感じませんか。

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私は、これを悪いとは言ってませんよ。

ただ、我々が見えるとおりに描いているつもりの絵画とは実は、このように描いている絵画なのだと改めて、見つめ直しているのです。

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では、どうするのか?という問題になります。

(いや、どうもしなくてもいいんですけどね)

歴史的には、

  そこに、画家の意思が問題になりました。

表現とは、画家の中にある何ものかを他者に伝えるものだという観点から考えると、印象派ならば、その内的ビジョンは自然から受けた印象でしょう。

夕方のたそがれ時の、あの空気と空の色から受けるなんとも言いようのない雰囲気
とでもいいましょうか、もちろん言葉で表せないから絵に描くのですが、そのような感動を他の人にも見せたくて、自分でも描きとめておきたくて絵に描くのです。
(自分も見る人ですからね。その意味では後の自分も見る人としての他者になります。)

画家の意思が重要とは、その感動(内的ビジョン)をどのように表現するかです。
それには、時間とともに変化することに、合わせてはいけない部分が出てきます。
初めの印象から外れないことです。そうです、初めの感動に基づいて、なるべく早く描くことも要求されます。その意思に基づいて必要か不要かを判断しながら、描くのです。

それは、写真のような見えるとおりではなくなっていきます。

私は、このことは、生徒たちに足し算引き算という話で説明します。

「自分が表わそうとするものに、じゃまなものは描かなくてもいい。その表したいものに必要なものは加えてもいい」ということです。これは、セザンヌもやったことです。

セザンヌが印象派から離れて、自分独自の絵画をやり始めた理由は、印象派はただ自然を写し取っているだけだ、絵の理想を求めてはいない。ということだったと思います。絵は、画家にとっては自分の意思を表す場であるという考えに基づいて、単なる写生ではないと言ったのです。

だから、モネを批判もしました。

「モネは、単なる目に過ぎない、しかし、なんという目だ!!」という言葉が有名です。

単なる目に過ぎないという部分が、批判です。しかし、その単なる目といえども、なんという素晴らしい目だと呆れているのです。(すごい目だという意味です)

見える通りに描くのではなく、画家の意思の表出の場、難しく言うと、内的ビジョンを他者に見える形にすること。それが、後期印象派の画家たちがやったことでした。

セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンたちです。

印象派は、光、光、光、と言いすぎて、絵がどんどんぼけていきます。光が溢れすぎたのです。見える通りを追究したはずの絵が、見える通りとは程遠い絵画になっていくことに、理論的には、周りの人たちの期待を裏切るかたちとなりました。

だから、印象派は失敗だったなどと、言われるのです。
(理論的には、失敗でも、そのためにすごい作品ができたことは見逃せません)

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写真の話ですが、下が真っ黒になったり、空が真っ白になったりするのは、ホワイト設定ですか?それとも露出の問題でしょうか?
本来は、一つの目では、カメラと同じになるはずなのに、人間の眼は意思でどちらも同時に見ることができる能力をもっているということでしょうか。
その辺の詳しい話がわかる人に教えてもらえたらありがたいなあと思います。
もちろん、カメラの操作で、眼で見えるように撮影できるなら、有難いことです。














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見える通りに描く??

2009-07-25 | 絵のこと
 印象派の画家たちは、自然を見えるとおりに描きたいと思いました。

だから、サロンの絵を見て黒くて嫌だと思い、自然はもっと光が満ちていて美しいのだから、その本当の光を描きたいと試みたのです。

しかし、見えるとおりに描くということは、どういうことでしょう?

これは、厳密に考えてみると、難しいのですよ。

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実は、印象派の試みはとても大切なことでしたが、それは失敗に終わったと言われています。考えて試みた狙いは目的からすれば、失敗でしたが、しかし、その試みがあのような素晴らしい絵を生み出しました。

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  では、見えるとおりに描くということを少し考えてみます。

私たちは、絵を描くときに、誰もが、見えるとおりに描くことから始めます。
見えるものを見えるとおりに描くという姿勢に何の疑問も持ちません。
絵とは、そういうものだと思っているのです。

しかし、誰に教わったのでしょうね。その考え方です。

ピカソの絵について、書いた時にお話ししましたが、見える通りとは、厳密に言うと、「ある時点での、ある一点から見えるとおり」ということなのです。
これは、当たり前だと思っていますが、それでは、そんなことが絵で描けるでしょうか。

それは、不可能です。

なぜなら、絵を描くには時間がかかるのです。

時間が過ぎてしまうのに、ある時点(その瞬間)の見える通りを描く??
だとするなら、それ以降の制作しているときに見ているものは、もう姿が変わっているということになります。

分かりやすい例を上げれば、雲です。

あの雲の形がいいなあと思って、描き始めますが、描き終わらないうちに雲はどこかへ行ってしまいます。そうすると、後はどうするか、あのときの雲の形が良かったなあと思いだして描くのです。

「思い出して、描くこと」が正確に見えるとおりに描いたと言えるでしょうか。こんな曖昧なことはありません。だから、不可能なのです。

それを考えたモネは、30分毎にキャンバスを取り換えて描いたと言われています。それも、雲のような動いてしまうものではだめなので、教会の建物を描くことにしました。そして、あるキャンバスは何時から何時と決めて、しかも同じような天気の日を選んで、光の状態がほとんど同じになるような時を選んで描いたようです。そうしない限り、ある時点での見える通りを実現できないと考えたのです。

それが、ルーアンの大聖堂の連作でした。


朝の光、昼の光、午後の光、夕方の光、それぞれ全く印象が違います。
太陽が動くのですから、当たり前です。午前は正面から光が当たっても、夕方は逆光になりますよね。それを厳密に言えば、1分1秒でも変化しているのですから、正確な表現とは、一瞬を捕まえて、一瞬のうちに描かなければだめなのです。
モネは、自分で感じる限界を30分としたのでしょうか。30分毎にキャンバスを取り換えたと聞いています。

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余談ですが、

最近は、写真という便利な物がありますから、印象派の画家たちより、やりやすいですが、そうはいっても、その時の新鮮な印象は、写真では感じられないことが多いです。写真は嘘つきだなあと思います。

明るい空の写真を撮ると、地面が真っ黒に写ります。地面に合わせると、空が真っ白に写ります。これはなぜなのでしょうか。人間の目には、どちらもよく見えているのですよ。だれか、教えてください。私のカメラの性能のせいですか。


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とにかく、見えるとおりそっくりに描くということが、理屈の上からも不可能であるということが、おわかりいただけたと思います。

そうなると、じゃあ、絵はどうかけばいいの??

という問題になってきます。

そこから、絵とはなにかを考えていくと、さまざまな考え方が出てくると、思います。

その話は、すこし、みなさんに考えてもらってからにしたいです。








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