絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

今日のデッサン会

2013-04-25 | 私の絵
今日のデッサン会で描きました。

それぞれ、50分です。

 

描き込みデッサンは、月に二回行います。
私は、指導に徹する日と、自分が描いて見せる日があります。
今日は、描く日でした。

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高校時代の思い出 11

2013-04-25 | 思い出
バスケット部の状況は、割と練習があまくて、このままではあまり勝ち上がっていくことは望めないなあという感じのチームでした。毎日練習はしていましたが、先にお話ししたように、先生が出てきた記憶がありません。

だから私も、ややなめていました。一度だけサボったことがあります。
その理由は、数学の問題集をやるためでした。数学の授業では、先生がサブテキストとして、入試問題を含めたような問題集を配っていました。それが、なかなか進まなかったので、気になりました。自分だけが遅れている気がしたのです。
その問題集は、授業の内容と一致していて併行して進めるものと思っていました。
後で、みんなに聞いたら、そんなのやってないよと言ったので、安心しましたが授業では、先生がよくその問題集を使いました。

私は次の日、先輩に昨日休んだ理由を言いました。すると、先輩は勉強していたんならいいよというような反応を示し、てっきり叱られるかと思った私は、意外でした。
ほおーー、この学校は勉強していたという理由なら、部活を休んでも叱られないのかと思いました。
まあ、その程度の意識の部活だったということなのですが、私はこの学校の勉強に対する意識の高さと思いました。

ただ、自分では、この学校はいいなと思った理由の一つに、勉強に対する感覚が、自分に合っていると思いました。
これは、私の思い過ごしかもしれませんが、中学までの自分は、休み時間に勉強していたりすると、がり勉というイメージで見られ、そう見られることを嫌がっていました。
だから、家では勉強しても、人前では勉強している所を見せないという人間でした。

しかし、本庄高校に行ったら、休み時間に勉強している人がいます。放課後もいます。
そして、そうしている人間をがり勉の嫌な奴という見方をしないように思いました。
そういう光景が自然と見られるのです。それがいいなと思ったのです。

ただ、心の中は複雑で、がり勉というイメージの強い奴には、反発したい気持ちもありました。高校生なら、部活もやれよという気持ちです。だから、俺はバスケットをやっていても、勉強だけをしているがり勉には負けたくないという気持ちがありました。
それで、クラス順位に拘ったのです。

ーーーーーー
バスケット部は、夏休みを過ぎた頃、先輩が練習に出て来なくなりました。
それで、その後は、一年生だけで練習をやり、私はキャプテンになりました。

つづく








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秋平の雪

2013-04-24 | 私の絵
昨夜は、ここまで進めました。
どこを描いたのかわからないくらいですが、かなり完成に近づいたかなと思います。

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Fさんの県展制作

2013-04-24 | 県展指導
Fさんの県展制作です。



私と同じタイプの絵なので、時間がかかりますから、頑張ってくださいと言ってあります。
今月中に仕上げるつもりでやらないと、また、直前になって慌てますよと言いました。

良い感じで進めています。
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高校時代の思い出 10

2013-04-24 | 思い出
クラスの4人組

私は、美術部でもないのに、休みの日に一人で風景画を描くことがありました。

あるとき、東小平の観音様の下の畑で、絵を描いていたら、I君とN君とO君がバイクでやってきました。
たぶん、私の家に来て、絵を描きに行ったと聞いて探したのだと思います。
この光景は、面白いと思いませんか?
バレー部のI君、バスケット部の宿命のライバルの二人が、高校1年なのでバイクの免許を取って、休みの日にツーリング。
私は、バイクの免許は取らず、自転車で山の方へ、風景画を描きに来ている。そこへ三人が現れる。

その時に描いた絵が、N君の両親に頼まれた水彩画で、その絵は、ずっとN君の家に飾られることなりました。

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また、別の日ですが、三人が私の家に来て、私の部屋でしばらく話していったこともありました。
そのとき、何を話したのか、全く覚えていませんが、ラジオを聴いていて、何度も「花嫁」という歌がかかっていたのを覚えています。
あれは、はしだのりひこだったかな。「はなーよめはーーーーよぎしゃーーにのってーーー」という歌です。
それから、由紀さおりの「手紙」も流行っていました。ルンルルルルーーとかランラララーとかしか歌えないのかと思ったら、急に「死んでもあなたとーー暮らしていたいとーーー」と歌いだしたので、驚きがありました。

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当時は、まだフォークソングが流行る前、グループサウンズが下火になって、フォークに移行する移行期というのかもしれません。
「受験生のブルース」と「帰ってきた酔っ払い」などの時期かな、そのあと辺りです。
私は、スポーツと勉強と絵と将棋とギターといろいろ意欲的で、体は思うように動くので、絶好調でしたね。

母親に、森田健作が風邪ひいたような顔をしていると言われました。
明るく爽やかであったと思います。「友達よなくんじゃない」「さらば涙と言おう」をよく歌いました。
外国の歌では、「悲しき天使」が流行っていたかな?

あるとき、私が、4人でフォーリーブスをやろうかといったことがありました。
本当に、歌をやるとかではありませんが、俺たち4人組みたいになったから、人気者グループを結成しようかといったのです。
しかし、I君に菅野とN君はだめだと言われました。見かけがそこまでのレベルじゃないというのです。確かに。

ただ、I君はハンサムで爽やかですし、O君は後に生徒会長になります。N君は、なんとも魅力のある人間で、女の子にはとてもモテます。
一番該当しないのが、私だと思いますが、私は信じられないことに、全校を対象に人気投票を女子がひそかに行ったとき、1位になったことがあるのです。そう数え上げたら、最高の4人なんですけどね。4人とも運動神経抜群ですし。キャプテン経験者ばかりです。

まあ、高校1年のクラスのムードメーカーにはなっていましたし、とにかく目立つ4人だったことは確かです。

つづく







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