睡蓮の千夜一夜

馬はモンゴルの誇り、
馬は草原の風の生まれ変わり。
坂口安吾の言葉「生きよ・堕ちよ」を拝す。

私の本棚:「堕落論」と「日本人とユダヤ人」

2010-11-07 06:18:16 | 本棚・思想・禅と仏教

夜明け前
2010/11/07 am5:40
CASIO EXILIM EX-Z850



この二冊の本は昭和20年と46年に書かれたもの、
10年に一度くらいは読み返して思いを新たにする。

堕落論」 著者:坂口安吾
ISBN4-04-110003-8

坂口安吾を知ったのは中学1年のとき。
叔母の本棚にある文学全集はあらかた読み尽くし古典に飽きたころ
学校の図書室で見つけ堕落にひそかな憧れを感じて借りた本だった。

文字に顕れない退廃的エロスとデカダンスは私の青いアタマに
浸透し、そのまま居座り、私の人生観の一部となっている。

各出版社から文庫本が発刊されているが、上記の文庫本が最も
坂口安吾らしい作品13編が収められている。
安吾と同じ時代を共に生きた作家諸氏への忌憚のない批評や
人物評が秀逸でこれを読んでから安吾の小説を読んで欲しい。


  私はただ、私自身として、生きたいだけだ。
  私は風景の中で安息したいとは思わない。
  また、安息しえない人間である。
  私はただ人間を愛す。私を愛す。私の愛するものを愛す。
  徹頭徹尾、愛す。
  そして、私は私自身を発見しなければならないように、
  私の愛するものを発見しなければならないので、
  私は堕ちつづけ、そして、私は書きつづけるであろう。
  神よ、わが青春を愛する心の死に至るまで衰えざらんことを。
  (デカダン文学論より抜粋引用)



「不良少年とキリスト」は安吾の太宰治への切々なる思いと
自己への問いかけが、あますことなく本音で綴られている。

いろんな作家が坂口安吾論や評伝を書いている。
どれもが、その通りであり、まったく違うようにも思える。
ただ「精神の贈与を惜しげもなく与える」というくだりには
自分を振り返った時に確かにそうだったと激しく同意できる。


  私の生涯のできごとで、この人との邂逅ほど重大なことはほかにない。
  おびただしい精神の贈与を、乱雑に、また惜しげもなくドカドカとバラまき
  与える人であった。
  その果ての、あの激烈な孤独な表情を忘れられるものではない。
  おおらかな詩人の規模を持し、世俗におもねない苦行者の精神に
    燃えていた人の滅びない新しい声であった。
  また、我々の日常として滅びない新しい声は曲解されやすいものである。
  おそらく彼のエッセイが繰り返し語る言葉は、「人生五十何ものにもまぎれるな。 
  己の人体の本分を能率的に識別して直截にその本分をつけ」
  とこれだけの主題が絶えず語られていたように私は思う。
  (不良少年とキリストより壇一雄氏後書き引用)

 
毎年何人もの新人作家や魅力的なライターが出現するが、
打ち上げ花火の如く一時的吸引力に優れている者ばかり、
グイグイ引っ張るような緊張感を保てる作家は少ない。

これは文章力云々より、個々が持つ人間的魅力に拠るのか、
相性と好みに拠るものなのか解らないが、いずれにしても
次回へ期待する余韻を残す本(文章)を読みたいと思う。


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日本人とユダヤ人」 著者:イザヤ・ベンダサン
ISBN4-04-320701-8

奥付を見ると初版は昭和46年
この本は作家の素性が知れぬままベストセラーになったもんだから
世間は覆面ライターの名前を暴こうとかまびすしい詮索をしていた。
再版された奥付を見ても何一つ明かされていない。
これはこれで、いいのだろう。

「蒼ざめた馬・ロープシン」&「蒼ざめた馬を見よ・五木寛之」の
題名に使われている「蒼ざめた馬」は素晴らしき誤訳であるとの
経緯がなかなかで納得させられた。

イザヤ・ベンダサンという名前はとうてい日本人とは思えないが、
この本を読めば読むほど外国人とは思えない。
やはりジャパニーズ覆面ライターの存在ありか。

それにしても世界の古今東西の古典文学からあらゆる宗教を
何故にこれほど網羅できるのか。
たとえ日本人にしても、謎は深まるばかりなり。

10年ぶりに「日本人とユダヤ人」を読みかえして苦笑するのは
以前気になったページを今回も凝りもせず繰り返し読む自分を
見つけたこと・・・ミカの弁証法とかね。
まったく成長がないんだか、よっぽど気になるのか。

(ユダヤ人著者ということを信じて)
さすがにユダヤ人、宗教戦争に祖国を賭け、世界をまたにかける
流浪の民だけのことはあって、そのリアリティと存在感は白眉もの。
日本人との対比があまりに本質を突いているので、思わず片目を
つむりたくなった。とにかくおもしろい。
自分は若いときに読んでいてよかったと思う。

驚くのは二者ともまったく古臭さを感じさせないこと。
坂口安吾に至っては昭和20年初頭にこれを書いている、
むしろ先見の明にあふれ、今に通用するから惧れ入る。

昭和初期の作品が新しい装丁になり、文庫本として再版
されるのはとても良いことだ、温故知新は永遠の良策、
来し方の歴史は未来を占う唯一の方法論だと思うから。





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