去年で33回忌(忌日から満32年)の忌明けを迎えたJAL123
墜落事故、もう33年も経つのかと深い感慨を覚えながら、
鎮魂から回顧へ。
JAL123日航機墜落に関しての追悼の想いは下記の記事で。
鎮魂:1985年8月12日18時56分 JAL123 日航ジャンボ機墜落から25年
ぜひ読んで欲しい文庫本。
ジャーナリストの見地で書いたJAL123日航機墜落、
印象に残るあとがきのみ転記しました。
「JAL123 日航ジャンボ機墜落」 ISBN4-02-260606-1
この事故で亡くなった方は政財界を含め多くの著名人がいる。
隆盛の人生の途上で不可抗力の事故で死ななければならない
彼らの無念を思うと、今でも胸が詰まる。
父の「遺言」胸に25年 日航機墜落直前「幸せだった」
下記画像は遺言が書かれた手帳のコビーを遺族の諒解を得て
日航の安全啓発センターに展示されているものです。
以下はJA123に関するツイートの転載
2013年09月30日(月) 睡蓮@suiren2009
山崎豊子さんが他界された。
JAL123便モデルの 「沈まぬ太陽」を週刊新潮に連載していたころ、
JALは機内誌から週刊新潮を外したと聞いて、
腐敗が蔓延る会社はケツの穴も小さいと思ったものだ。
ちなみに山崎豊子さんはぼくの母と同い年・・・冥福を祈る。
飛行機事故では忘れられない年がある。
これより19年前の1966年のことだった。
2月~3月にかけて全日空・カナダ太平洋航空・BOACと
わずか2ヶ月のあいだに信じられない3件続けての墜落事故、
同年11月にはとどめを刺すようなに日空の墜落事故があった。
反抗期の多感な時期のぼくだったが、テレビを見ながら
激しく心を揺さぶられ、レーダーから消えたの一報から
発見まで、初めて神仏の加護を願った。
夜の暗い東京湾に潜る潜水士、火の玉となって燃え盛る
機体に立ち向かう消防士、さまざまな職業の方が一丸と
なって乗客の命を救うべく果敢な努力をした。
あの頃の報道は遠慮なく真実を見せてくれた。
どんなに悲惨で凄惨な出来事でも、
目を背けてはいけないことがある。
■全日空羽田沖墜落事故 1966年2月4日午後7時01分
全日空/B‐727/東京湾/133名死亡/原因不明
北海道千歳空港から羽田に向かった全日空ボーイング727型機が
羽田空港着陸直前に東京湾に墜落。
■カナダ太平洋航空機墜落事故 1966年3月4日午後8時14分
カナダ太平洋航空/DC‐8/羽田空港/64名死亡
カナダ太平洋航空のDC‐8型機が羽田空港に着陸失敗大破炎上。
■BOAC機空中分解事故 1966年3月5日午後2時頃
英国海外航空/B‐707/富士山付近/124名死亡
羽田から香港に向かった英国海外航空のB‐707型機が
富士山付近で乱気流に巻き込まれ空中分解。
■全日空松山沖墜落事故 1966年11月13日午後8時30分
全日空/YS‐11/松山沖/50名死亡
ANA533便YS-11が松山空港沖合で着陸に失敗墜落。
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