日本人はエコノミックアニマル。隣国C国、K国はポリティカルアニマル、それじゃあ、東南アジアのタイ王国はどんなアニマル?私はほんのジョークで「サイコロジカルアニマルだね。」と思いついた。サイコロジカル、つまり「心理的」大国がタイ王国だと思ったのである。
タイ王国には数え切れないほどの友人がいる。そしてその友人すべてが「もう一度会ってみたい。」と私に思わせる人々だ。彼らは何回会ってみても私の旅を本当に心地よいものにするテクニックを持っている。
何日の何時にドムアン空港に着く、と知らせたとする。その友人ばかりでなく友人の友人たちが大勢で迎えに来てくれて誰かの車にお世話になりバンコクの路地裏の屋台で夜を通して歓迎パーティーとなる。その場には約二十人は居合わせる。友人ばかりでなく家族、親せきの人もいる。通りかかった人もいたことがある。
最初の方は私も外国人(日本人?)ということで結構相手にされるのだが途中から興が長ずるに及んで私なんかほっぽり出された格好になる。程よい無関心もまたいいものだ。
タイ王国の農村でも行こうものならこうした歓迎パーティーが村全体のものとなり村長さんとの会見も設定されることになる。私はタイ語はそれほどできないが彼らはそんなこと一向に気にかけない。日本の民謡を二、三曲歌っておけば彼らは大拍手。手拍子もうまい。そしてお返しに彼らからカラオケなしの肉声のタイ歌が夜通しプレゼントされることになる。こうした友人の一人一人に会いたくなったらまたタイ王国に来ることにしている。今夏で十回目を越したか。
タイ王国の仏教教科書はタイの子ども達の行動規範に大きな影響を与えている。その中には「人間が何かの行為をするときの基準」がたくさんかかれている。ある章に「友人成立の法」というのがある。「楽しく暮らしていくためには人と仲良く付き合っていくことが大切である。これがなければ糸を抜き取った着物、ニカワを剥がしたノートのようなものでバラバラになってしまう。」とある。人と人との間の情によって人間社会は緊密に構成されている、と教える。そのために人間は「有形無形の施し」を、「相手をおもいやること」を、¥目上の人に礼節」を、「いたわりの言葉」を、といった実践面での行動規範が教えられている。つまりは「心を鍛えている」のだ。
今夏もタイ王国で数人の友人と語らっているときに彼らは「鍛えられた感受性」があると実感したのである。
タイの人々は「サイコロジカル」に日本人である私をタイ中毒にしてしまった。でも、私はあまりタイ王国の農村へ行くのはよそう、と思う。なぜなら私が逗留している間は人々が農作業をストップするからである。(1988年11月の稿)
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