球簾(たますだれ、東京都品川区)
こんにちは。
今日もありがとうございます。
「この□☆‡◎、なにを言ってやがんだ?」
ホンネを言うと、至らないと思った相手、
あるいは、自分を激しく傷つけたり害した相手に対して、
こんな気持ちを持ってしまったこと、一度くらいあると思うんです。
心の中に綺麗事は存在しませんし、
なにより嘘はよくないので、
「みっともない」
「情けない」
などと思っても、そこは「人間のすること、多少はしかたない」と自分を許すことです。
ただし、だからと言って、人に対して
「□☆‡◎じゃん」
「ダメダメだ」
こう言い続けると、傷つく人が出ます。
「傷つく人」、それは他ならぬ自分自身なのです。
自分のほうが世話を焼く側で、
いい加減参っている。
自分ほど意欲的ではなく、一人だけ損しているような気がしてならない。
誰にでも出来ることを投げ出している。
もちろん、怒りを覚える理由としては、
時に真っ当なものでしょう。
あるいは、自分の側に余裕がない場合、
それはそれで、やむを得ず抱いてしまう感情かもしれません。
ただし。
そうやって人を攻撃していると、
自分が「同じ穴の貉(むじな)」に成り下がった時、
同じ批判を自分めがけて突き刺す準備をしてしまっているのです。
しかも人間、自分には甘いもの。
自分へ向ける批判に耐え切れないあまりに、
「まあまあ、でも〇〇サンよりかはマシだし」
「あのレベルまではいってないし、まあ大丈夫」
などと、同じ批判に値する行為をしていながら、
自分自身をごまかしていることがあるのです。
そうやっているうちに向上心がなくなり、
ついには自分のつまらないプライドに、自分自身が飲み込まれてしまう、
こんな最悪の結末を迎えてしまうことだってあるのです。
では、どうすればよいのでしょうか!?
もうおわかりですね。
人を必要以上に攻撃しなければよいのです。
どんな人であれ、生身の血の通った人間なのです。
もちろん、権利や尊厳、大切なものに土足で踏み入るような真似をされたら、
時に「言わなければいけないこと」を口に出す必要があります。
しかし、相手のアイデンティティに関わること、
例えば人格や職業、立ち居振る舞いを
「気持ち悪い」
「嫌いだ」
これだけの理由で相手を切り捨て、全否定するのは禁物なのです。
繰り返しますが、誰もが温かい血の通った人間です。
憎しみではなく、慈しみ。
「慈しみ」とは、同じ立場に立った時に自分自身が言われて立ち直れるかどうか、
そしてまた、鼓舞され元気付けられるかどうか、
こういう想像力を具体的な行動に落とし込むことを言います。
これさえわかっていれば、
暴言をいくらでも吐いていい。
しかし、その「慈しみ」のブレーキをついつい踏み外してしまうのがまた、
私達人間というものなのです。