なでしこの花(東京都台東区)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
人間、誰しも、弱みを抱えているものです。
そして、それはしかたがないにしても、自分がなかなか克服できない弱点があったり、その弱点が非難の的になっていたりすると、
自分に自信を失いがちにもなれば、自分の存在価値を見失ってしまうことにもなるでしょう。
そもそも、簡単に直っていればそれは「ニガテ」とか「弱点」とは呼べないわけで、
だからこそ、実に多くの、しかもいろんな人が、
おのおの、自分の弱さに手こずっているわけです。
そしてまた、実に多くの、しかもいろんな人が、
それぞれ、その至らなさを、お決まりのように責められているわけでもあります。
さて。
「元の田沼の濁り恋しき」という慣用句があります。
意味は、「自分が耕していた田や沼の濁りは、その時は嫌だったけど、その田や沼を離れてみると、意外にそこが恋しく感じられるものだ」ということになります。
身近にあると「ただの汚い田や沼」にしか見えなくても、その場を離れて思い返すと、同じ汚い田や沼なのに「恋しい田や沼」になってしまう。
移った先の田や沼は、もしかしたら作物すら育たないかもしれないし、近所付き合いが大変な環境かもしれません。
あるいは、自分の土地すら持てなくなってしまい、それが、余計に「恋しく」感じられる要因になっていることすら、ありえますよね。
さて、翻って、この「濁った田沼」を、「私達人間の弱点や欠点」に置き換えて考えてみると、どうでしょう。
たしかに、欠点の中には、批判されてしかるべきものもあるかもしれません。
しかし、仮に自分がその場を去って、別の人が自分の穴を埋めた時、
意外と悪く言われた部分はスポットが当たらず、自分で気づきもしなかった長所に注目が集まる…ということが、えてして起こるのです。
これは、悪く言われれば言われるほど、いなくなった後で良く言われる可能性も上がります。
「あの人はこんな欠点があったけど、こういうところはよかったのかもしれない。惜しい人がいなくなったものだ」と、
残された誰もが、口を揃えて言うのです。
たとえば、「あいつはどんくさい」と言われていた人が、「あのひたむきさが良かった」とか、
「くそ真面目で面白みがない」と後ろ指を指されていた人が、「少なくとも、あの誠実さが良かった」と、
手の平を返したように、言うわけです。
これ、ズルいと言えば、ズルい話かもしれません。
でも、当たり前のように目の前にいる者に対しては、人間、ありがたみを感じにくいものなのです。
たとえば、仏教では「足りるを知る」と、「あるものに感謝しましょう」などと、
遥か大昔から教えられていますが、
つまりこれ、裏返すと、「「当たり前のことに感謝するのは、なかなか難しい」という人間の性質がいかに変わらないか」を、如実に物語ったりもしていると思うのです。
自分を大切にしてくれない人がいたとして、そういう人ほど、いなくなった後のことを考える想像力がないのです。
欠点があるのはしかたないし、それを克服する努力も必要ですが、
人の弱みを執拗に突くことは、つまりは、相手の持てる力や協力関係を封じることに他なりません。
敵は少ないほうがいいのに、本当にご苦労様ですよね(笑)
至らない点を歎くのは、味方になる人間のすることではありません。
ほどほどでいいのです。
長所は目立ちにくいし、欠点も長所もあって、はじめて人間らしさが出るのですから。
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
人間、誰しも、弱みを抱えているものです。
そして、それはしかたがないにしても、自分がなかなか克服できない弱点があったり、その弱点が非難の的になっていたりすると、
自分に自信を失いがちにもなれば、自分の存在価値を見失ってしまうことにもなるでしょう。
そもそも、簡単に直っていればそれは「ニガテ」とか「弱点」とは呼べないわけで、
だからこそ、実に多くの、しかもいろんな人が、
おのおの、自分の弱さに手こずっているわけです。
そしてまた、実に多くの、しかもいろんな人が、
それぞれ、その至らなさを、お決まりのように責められているわけでもあります。
さて。
「元の田沼の濁り恋しき」という慣用句があります。
意味は、「自分が耕していた田や沼の濁りは、その時は嫌だったけど、その田や沼を離れてみると、意外にそこが恋しく感じられるものだ」ということになります。
身近にあると「ただの汚い田や沼」にしか見えなくても、その場を離れて思い返すと、同じ汚い田や沼なのに「恋しい田や沼」になってしまう。
移った先の田や沼は、もしかしたら作物すら育たないかもしれないし、近所付き合いが大変な環境かもしれません。
あるいは、自分の土地すら持てなくなってしまい、それが、余計に「恋しく」感じられる要因になっていることすら、ありえますよね。
さて、翻って、この「濁った田沼」を、「私達人間の弱点や欠点」に置き換えて考えてみると、どうでしょう。
たしかに、欠点の中には、批判されてしかるべきものもあるかもしれません。
しかし、仮に自分がその場を去って、別の人が自分の穴を埋めた時、
意外と悪く言われた部分はスポットが当たらず、自分で気づきもしなかった長所に注目が集まる…ということが、えてして起こるのです。
これは、悪く言われれば言われるほど、いなくなった後で良く言われる可能性も上がります。
「あの人はこんな欠点があったけど、こういうところはよかったのかもしれない。惜しい人がいなくなったものだ」と、
残された誰もが、口を揃えて言うのです。
たとえば、「あいつはどんくさい」と言われていた人が、「あのひたむきさが良かった」とか、
「くそ真面目で面白みがない」と後ろ指を指されていた人が、「少なくとも、あの誠実さが良かった」と、
手の平を返したように、言うわけです。
これ、ズルいと言えば、ズルい話かもしれません。
でも、当たり前のように目の前にいる者に対しては、人間、ありがたみを感じにくいものなのです。
たとえば、仏教では「足りるを知る」と、「あるものに感謝しましょう」などと、
遥か大昔から教えられていますが、
つまりこれ、裏返すと、「「当たり前のことに感謝するのは、なかなか難しい」という人間の性質がいかに変わらないか」を、如実に物語ったりもしていると思うのです。
自分を大切にしてくれない人がいたとして、そういう人ほど、いなくなった後のことを考える想像力がないのです。
欠点があるのはしかたないし、それを克服する努力も必要ですが、
人の弱みを執拗に突くことは、つまりは、相手の持てる力や協力関係を封じることに他なりません。
敵は少ないほうがいいのに、本当にご苦労様ですよね(笑)
至らない点を歎くのは、味方になる人間のすることではありません。
ほどほどでいいのです。
長所は目立ちにくいし、欠点も長所もあって、はじめて人間らしさが出るのですから。