梅の花(東京都武蔵野市)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
オカルトの話って、皆さんは信じたりするほうですか!?
私は、信じたい人が、好きなだけ信じればいいだけの話だと思っています。
たとえば(、こんな目茶苦茶な言い伝えはありませんが)、
「ご飯を食べる前に「ALOHA」と唱えると、ご飯の成分が嬉しがって、舌に馴染むようにおいしくなる」という話があったとしましょう。
はたから見れば、実に馬鹿馬鹿しい、いい加減な話でしかありません。
しかし、それで本人が幸せになるとか、食べ物のありがたみがわかるなら、文句はありませんよね。
オカルトもなにも、結局は趣味の問題です。
お酒を飲んでスッキリしたり、ゲームをやって楽しんだりするのと、
非科学的なオカルトの話を信じていい気分になるのも、本質的には同じなのです。
人間の気分が良くなるかどうかを考えるとき、科学的な裏付けがあるかどうかはあまり意味がない気がします。
ただし。
「オカルト」が趣味の問題である以上、やっぱり、趣味で生じてくる問題と似た問題点が出てくると考えるのが自然です。
世の中には、音楽が好きな人もいれば、鉄道が好きな人も、写真が好きな人もいます。
しかし、いずれにも言えるのは、収入や実益に繋がらないのにそればかりに没頭してしまうと、趣味に自分の身を食べられてしまうことになります。
そしてまた、音楽が好きな人が、鉄道にしか興味のない人にいくら音楽の素晴らしさを説いたところで、
それは有難迷惑でしかありませんよね。
つまり、オカルトの話でいくら気分がよくなったからと、人にその話を押し売りしてしまうようでは、
煙たがられる以上のことは起こらないと思います(笑)
ただし、趣味を通して気分が良くなるから、元気にもなれるのも、また事実ですよね。
また、趣味を教え合うことで、お互いの世界を広められる部分はあると思います。
さて。
いずれにも共通して言えること、お分かりになったでしょうか!?
オカルトの話も趣味も、現実が主体になっているうちは、楽しんでいても全く問題ないのです。
科学的な裏付けがあるかないかに気を取られているばかりでは、心の重荷も降ろせない時があるものです。
だから、気が晴れない時、よくわからない話でも、半分は信じたほうがいいこともあるのです。
ただし、そこに本人の意見や現実とのすり合わせがあるかないか、
そこに、考え方の趣味が幸せになるかどうかが分かれる気がします。
心の内と現実、どちらかが止まってしまったら、生きていくことが難しくなってしまう。
お互いのために、お互いがあるのです。
最後に。
オカルトの話でも、あえて裏付けを説明せずに、「不思議な話」として処理をして話をされることがあります。
自分自身が、不思議さを検証するようにしても、それはそれで、おもしろいものですよ(笑)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
オカルトの話って、皆さんは信じたりするほうですか!?
私は、信じたい人が、好きなだけ信じればいいだけの話だと思っています。
たとえば(、こんな目茶苦茶な言い伝えはありませんが)、
「ご飯を食べる前に「ALOHA」と唱えると、ご飯の成分が嬉しがって、舌に馴染むようにおいしくなる」という話があったとしましょう。
はたから見れば、実に馬鹿馬鹿しい、いい加減な話でしかありません。
しかし、それで本人が幸せになるとか、食べ物のありがたみがわかるなら、文句はありませんよね。
オカルトもなにも、結局は趣味の問題です。
お酒を飲んでスッキリしたり、ゲームをやって楽しんだりするのと、
非科学的なオカルトの話を信じていい気分になるのも、本質的には同じなのです。
人間の気分が良くなるかどうかを考えるとき、科学的な裏付けがあるかどうかはあまり意味がない気がします。
ただし。
「オカルト」が趣味の問題である以上、やっぱり、趣味で生じてくる問題と似た問題点が出てくると考えるのが自然です。
世の中には、音楽が好きな人もいれば、鉄道が好きな人も、写真が好きな人もいます。
しかし、いずれにも言えるのは、収入や実益に繋がらないのにそればかりに没頭してしまうと、趣味に自分の身を食べられてしまうことになります。
そしてまた、音楽が好きな人が、鉄道にしか興味のない人にいくら音楽の素晴らしさを説いたところで、
それは有難迷惑でしかありませんよね。
つまり、オカルトの話でいくら気分がよくなったからと、人にその話を押し売りしてしまうようでは、
煙たがられる以上のことは起こらないと思います(笑)
ただし、趣味を通して気分が良くなるから、元気にもなれるのも、また事実ですよね。
また、趣味を教え合うことで、お互いの世界を広められる部分はあると思います。
さて。
いずれにも共通して言えること、お分かりになったでしょうか!?
オカルトの話も趣味も、現実が主体になっているうちは、楽しんでいても全く問題ないのです。
科学的な裏付けがあるかないかに気を取られているばかりでは、心の重荷も降ろせない時があるものです。
だから、気が晴れない時、よくわからない話でも、半分は信じたほうがいいこともあるのです。
ただし、そこに本人の意見や現実とのすり合わせがあるかないか、
そこに、考え方の趣味が幸せになるかどうかが分かれる気がします。
心の内と現実、どちらかが止まってしまったら、生きていくことが難しくなってしまう。
お互いのために、お互いがあるのです。
最後に。
オカルトの話でも、あえて裏付けを説明せずに、「不思議な話」として処理をして話をされることがあります。
自分自身が、不思議さを検証するようにしても、それはそれで、おもしろいものですよ(笑)
梅の花(東京都墨田区)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
いつもニコニコしている。
自分の機嫌を取るのは、大切なことです。
嫌なことやすれ違い、ストレスがない世の中はないからです。
みんながみんな、色々な歩調で歩いていますから、どうしたって、合わせることが必要になるわけで、
だからこそ、物腰を柔らかくしていないと、すぐに人と衝突することになってしまいます。
早く料理が食べたいから…、と、なんでもかんでも強火で調理する人は、まずいませんよね(笑)
多少我慢してでも、強火は強火とて8割くらいにしておけば、少し待つとは言え、料理をおいしく食べられるわけです。
さて。
「この理屈、よくわかります!」という皆さん、どれくらいいらっしゃるでしょうか!?
実は、「よくわかります!」という方は、「普段の感情を人に言えない」という思いをお持ちのこと、結構多いと思うんです。
イライラすることもあれば、我慢することもある。
それをかい潜ってでも、ニコニコしている。
立派なことです。
でも、ニコニコすることで、自分のホンネに蓋をしているということもあるはず。
そうです。
自分の本当の気持ちを大切にしないと、どれが本物か、わからなくなってしまうのです。
「なあんだ、それだけか」と思われたでしょうか。
「それだけ」ではないんです。
自分がわからなくなると、自分をコントロールできなくなるのです。
服に汚れがあったら、どこが汚れているかを知らないと、隠すことも、洗うこともできませんよね。
それと同じく、自分の気持ちがどのへんにあるかかがわからないと、いくら「ニコニコ」して蓋をするのが大切とはいえ、
どれくらいだとその蓋の大きさや形がフィットするかがわからなくなりますから、
しまいには、思わぬ形で、爆発してしまうのです。
ストレスを持つことは、恥ずかしいことではありません。
ニコニコしようと努めているほど、負荷がかかる。
だから、ストレスを感じられない人こそ、情けないとも言える側面はないでしょうか。
ニコニコしてストレスを避けられることがあるのは事実ですが、
全てにニコニコと気乗りするということも、ないと思うのですね。
自分にも、他人にも、怒ることを許しましょう。
人にブチ当てるのが難しいなら、どこかに吐き出してもいい。
自分の機嫌を取るだけでは限界がある以上、上手くいかないことがあるのは、仕方がない。
自分を解放することで、生まれる機嫌もあるのです。
「怒りは感情の蓋」とも言われます。
その怒りに上塗りして、さらにニコニコしているのは、とてもしんどいこと。
心からニコニコしている時間を増やすには、一度裏道を通る必要もあるのです。
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
いつもニコニコしている。
自分の機嫌を取るのは、大切なことです。
嫌なことやすれ違い、ストレスがない世の中はないからです。
みんながみんな、色々な歩調で歩いていますから、どうしたって、合わせることが必要になるわけで、
だからこそ、物腰を柔らかくしていないと、すぐに人と衝突することになってしまいます。
早く料理が食べたいから…、と、なんでもかんでも強火で調理する人は、まずいませんよね(笑)
多少我慢してでも、強火は強火とて8割くらいにしておけば、少し待つとは言え、料理をおいしく食べられるわけです。
さて。
「この理屈、よくわかります!」という皆さん、どれくらいいらっしゃるでしょうか!?
実は、「よくわかります!」という方は、「普段の感情を人に言えない」という思いをお持ちのこと、結構多いと思うんです。
イライラすることもあれば、我慢することもある。
それをかい潜ってでも、ニコニコしている。
立派なことです。
でも、ニコニコすることで、自分のホンネに蓋をしているということもあるはず。
そうです。
自分の本当の気持ちを大切にしないと、どれが本物か、わからなくなってしまうのです。
「なあんだ、それだけか」と思われたでしょうか。
「それだけ」ではないんです。
自分がわからなくなると、自分をコントロールできなくなるのです。
服に汚れがあったら、どこが汚れているかを知らないと、隠すことも、洗うこともできませんよね。
それと同じく、自分の気持ちがどのへんにあるかかがわからないと、いくら「ニコニコ」して蓋をするのが大切とはいえ、
どれくらいだとその蓋の大きさや形がフィットするかがわからなくなりますから、
しまいには、思わぬ形で、爆発してしまうのです。
ストレスを持つことは、恥ずかしいことではありません。
ニコニコしようと努めているほど、負荷がかかる。
だから、ストレスを感じられない人こそ、情けないとも言える側面はないでしょうか。
ニコニコしてストレスを避けられることがあるのは事実ですが、
全てにニコニコと気乗りするということも、ないと思うのですね。
自分にも、他人にも、怒ることを許しましょう。
人にブチ当てるのが難しいなら、どこかに吐き出してもいい。
自分の機嫌を取るだけでは限界がある以上、上手くいかないことがあるのは、仕方がない。
自分を解放することで、生まれる機嫌もあるのです。
「怒りは感情の蓋」とも言われます。
その怒りに上塗りして、さらにニコニコしているのは、とてもしんどいこと。
心からニコニコしている時間を増やすには、一度裏道を通る必要もあるのです。
梅の花(東京都武蔵野市)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
受験生によくありがちな話として、「試験の会場に行ったら、周りの受験生がみんな優等生に見えた」というものがあります。
あるいは、受験でなくとも、試合に行ったらどこも強豪校に見えたとか、
街を歩いたらみんな自分よりオシャレさんに見えたとか、
つまり、「隣の芝生は青い」のかなんなのか、「周りを見ると勝手に恐くなってもしまう」というのが、私達人間の性質です。
しかし、「自分の勝手に抱いた恐れ」と「現実」は、全く違うというのが、本当のところです。
受験の例で言えば、例えば倍率が3倍だったら、「試験会場の人がみんな優等生で、自分だけが…」といくら言ったところで、
その「優等生に見える人」の何割かは、受かるらないということになります。
つまり、いくら勉強ができそうに見えても、実際には受かるかどうかとはまた別のことになりますよね。
余裕のない時、落ち込んでいる時、あるいは傷ついている時、
周りの人がみんな自分より何倍も優れた人に見えてしまうのは、無理もないことかもしれません。
しかし、それはただの色眼鏡であり、認知の歪みでしかありません。
本当はみんな、いかにも素晴らしいように見えながらも、実は、どっこいどっこいだったり、
あるいはこちらが思っている以上に怯えていたりもするものです。
それでは、なんでこういう「からくり」が生まれるのか、ちょっと考えてみましょう。
自分のことは、自分が一番、よく知っていますよね。
だから、自分の目からだと、自分の至らなさや欠点、弱点がよく見えたりもするもの。
特に、意志が強ければ強いほど、叶えたい気持ちも大きくなるわけですが、
叶えるためには、まさにその欠点なり短所なりに目を向け、潰していくという作業が必要になってきます。
でも、よく考えてみて下さい。
自分が怯えるほど、実は意志があることの裏返しということにはなりませんか。
どうでもいいことに対しては、どうでもいい位の気持ちしか持てないはず。
だとしたら、そんな強い気持ちを持って突き進んだことに、もうちょっと自信を持っても、悪くはないと思うのです。
そうです。
周りが優秀に見える人ほど、実はその本人こそが優秀な頑張り屋さんなのです。
怯えは意志の証、きっとうまくいきますよ!
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
受験生によくありがちな話として、「試験の会場に行ったら、周りの受験生がみんな優等生に見えた」というものがあります。
あるいは、受験でなくとも、試合に行ったらどこも強豪校に見えたとか、
街を歩いたらみんな自分よりオシャレさんに見えたとか、
つまり、「隣の芝生は青い」のかなんなのか、「周りを見ると勝手に恐くなってもしまう」というのが、私達人間の性質です。
しかし、「自分の勝手に抱いた恐れ」と「現実」は、全く違うというのが、本当のところです。
受験の例で言えば、例えば倍率が3倍だったら、「試験会場の人がみんな優等生で、自分だけが…」といくら言ったところで、
その「優等生に見える人」の何割かは、受かるらないということになります。
つまり、いくら勉強ができそうに見えても、実際には受かるかどうかとはまた別のことになりますよね。
余裕のない時、落ち込んでいる時、あるいは傷ついている時、
周りの人がみんな自分より何倍も優れた人に見えてしまうのは、無理もないことかもしれません。
しかし、それはただの色眼鏡であり、認知の歪みでしかありません。
本当はみんな、いかにも素晴らしいように見えながらも、実は、どっこいどっこいだったり、
あるいはこちらが思っている以上に怯えていたりもするものです。
それでは、なんでこういう「からくり」が生まれるのか、ちょっと考えてみましょう。
自分のことは、自分が一番、よく知っていますよね。
だから、自分の目からだと、自分の至らなさや欠点、弱点がよく見えたりもするもの。
特に、意志が強ければ強いほど、叶えたい気持ちも大きくなるわけですが、
叶えるためには、まさにその欠点なり短所なりに目を向け、潰していくという作業が必要になってきます。
でも、よく考えてみて下さい。
自分が怯えるほど、実は意志があることの裏返しということにはなりませんか。
どうでもいいことに対しては、どうでもいい位の気持ちしか持てないはず。
だとしたら、そんな強い気持ちを持って突き進んだことに、もうちょっと自信を持っても、悪くはないと思うのです。
そうです。
周りが優秀に見える人ほど、実はその本人こそが優秀な頑張り屋さんなのです。
怯えは意志の証、きっとうまくいきますよ!
梅の花(東京都武蔵野市)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
良くないこと、間違えたこと、人を傷つけてしまうことをすると、
自分が許せなくもなってしまうものです。
いくら「人間、完璧ではない」とは言え、罪悪感や無力感を感じればこそ、
「もっとうまくやれたんじゃないか」とか「もう少し力になれた気がして悔しい」などと、
至らなかった自分を責めてしまうこと、誰しもあると思うんです。
もちろん、自分を責めることの全てが悪いわけではありません。
「いけなかったかなぁ」と思えればこそ、反省し、次からは良い行動をできたりもします。
あるいは、善悪の基準がわかり、どこまでならやっていいかもわかるから、
より上手い積極性の引き出し方がわかる面もあるでしょう。
しかし。
「自分を責めること」や「反省」も、ひとりでに厳しくなりがちなのも、事実だったりします。
「自分が許せないから」と、自分が実際にやったことにかかわらず、あたかも自分は最悪の落伍者か犯罪者かであるかのごとく、自分をがんじがらめにしてしまうのです。
「なんだ、自分をどう扱おうが、自分の勝手じゃないか」と思うかもしれません。
特に、罪悪感など、負の感情に包まれている皆さんはそうでしょう。
しかし、自分を許すことは、実は、他の人を幸せにする方法のひとつだったりするのです。
そしてまた、いくら自分が至らないからといって自分を責めていると、
それが、見ず知らずの人をも悲しませてしまう、
これが、「罪悪感」なり「無力感」なりの色眼鏡を外したときの現実だったりするのです。
冒頭で、「人間は完璧ではない」とお話ししました。
ということは、自分と同じような間違えをしている人がいてもおかしくないし、過去を見れば、もっと多くいると考えるのが自然です。
つまり、自分を責めてしまうと、自分と同じ間違えをした人はみんな同じような責めを負わなければいけないことになりますが、
それって、余計に人を傷つけたり、かえって成長を引き止める要因にはならないでしょうか。
難しい話をするまでもなく、自分の親しい人が同じことをした時、
自分と同じように、きつく責めたりするでしょうか!?
「自分を必要以上に責めない」というのは、そういうこと。
厳しい法律や実刑が抑止力になることは事実ですが、
外から見れば、萎縮を引き寄せ、進歩がなくなるのもまた、現実だったりするのです。
自分を許すから、人も許せるのです。
心の裁判官には、出来るだけくつろいでもらいましょう。
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
良くないこと、間違えたこと、人を傷つけてしまうことをすると、
自分が許せなくもなってしまうものです。
いくら「人間、完璧ではない」とは言え、罪悪感や無力感を感じればこそ、
「もっとうまくやれたんじゃないか」とか「もう少し力になれた気がして悔しい」などと、
至らなかった自分を責めてしまうこと、誰しもあると思うんです。
もちろん、自分を責めることの全てが悪いわけではありません。
「いけなかったかなぁ」と思えればこそ、反省し、次からは良い行動をできたりもします。
あるいは、善悪の基準がわかり、どこまでならやっていいかもわかるから、
より上手い積極性の引き出し方がわかる面もあるでしょう。
しかし。
「自分を責めること」や「反省」も、ひとりでに厳しくなりがちなのも、事実だったりします。
「自分が許せないから」と、自分が実際にやったことにかかわらず、あたかも自分は最悪の落伍者か犯罪者かであるかのごとく、自分をがんじがらめにしてしまうのです。
「なんだ、自分をどう扱おうが、自分の勝手じゃないか」と思うかもしれません。
特に、罪悪感など、負の感情に包まれている皆さんはそうでしょう。
しかし、自分を許すことは、実は、他の人を幸せにする方法のひとつだったりするのです。
そしてまた、いくら自分が至らないからといって自分を責めていると、
それが、見ず知らずの人をも悲しませてしまう、
これが、「罪悪感」なり「無力感」なりの色眼鏡を外したときの現実だったりするのです。
冒頭で、「人間は完璧ではない」とお話ししました。
ということは、自分と同じような間違えをしている人がいてもおかしくないし、過去を見れば、もっと多くいると考えるのが自然です。
つまり、自分を責めてしまうと、自分と同じ間違えをした人はみんな同じような責めを負わなければいけないことになりますが、
それって、余計に人を傷つけたり、かえって成長を引き止める要因にはならないでしょうか。
難しい話をするまでもなく、自分の親しい人が同じことをした時、
自分と同じように、きつく責めたりするでしょうか!?
「自分を必要以上に責めない」というのは、そういうこと。
厳しい法律や実刑が抑止力になることは事実ですが、
外から見れば、萎縮を引き寄せ、進歩がなくなるのもまた、現実だったりするのです。
自分を許すから、人も許せるのです。
心の裁判官には、出来るだけくつろいでもらいましょう。
木場公園から(東京都江東区)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
自分の幸せは、果たして自分だけのものなのでしょうか!?
幸せになれるように自分で頑張っていくのは、ある意味で当たり前のことかもしれません。
そしてまた、誰もが自分のことで精一杯の世の中です。
それぞれが、自分一人分の幸せを、なんとか自分で確保しにいく…というのが、現実のところではないかと思うのです。
悲しいかもしれませんが、そうそう余裕のある人ばかりではない以上、認めざるを得ない部分はあると思うのですね。
しかし。
それでもなお、少なくとも、自分だけでなく、人の幸せを願うことを諦めてはいけないと、私は思うのです。
まず、自分のことだけ考えるというのは、必ず疲れを伴うからです。
なぜなら、自分のやったことに対する見返りを考えると、必ず損をした気になるからです。
人には等しく個性がありますから、自分の思った通りに感謝してくれるとも、また、その感謝の仕方もみんな違うわけですよね。
そうすると、どうしてもズレた部分に不満を覚えることになりますから、
結果として、自分の幸せしか考えないほど、実は自分が傷ついてしまうのです。
だから、見返りを考えない精神、人のためにと思う気持ちは、
あったほうがいいのです。
ここまで読むと、「そんな理由、利己的すぎて嫌だ」という人もいるでしょう。
でも、人の幸せを願う本当の理由は、他にきちんとあるのです。
もしもの話、自分を応援してくれている人がいるとしたら、
自分が不幸になってしまった場合、どんな顔をするか、考えていただきたいのです。
私達は人間ですから、疲れた時や、ヤケになりたい時があるものです。
そんな時、歯止めになるとしたら、それは普段から自分を幸せを願ってくれている人の眼差しになるのではないでしょうか。
先程、「自分のことで精一杯だ」とお話しはしましたが、
世の中、そこまで心の狭い人ばかりではありませんし、
気がついていないだけで、自分の幸せを願ってくれている人は多いもの。
もし、そんな人がいるとしたら、自分を諦めてはいけないとは思いませんか。
純粋に、心から人を思う気持ちは、美しいものです。
そういう思いは、人を突き動かす原動力になります。
だからこそ、いくらせちがらい世の中と言えど、それでも美しい心を持った人の気持ちを思うことが、
逆境から抜け出す第一歩になるのかもしれません。
繰り返しますが、幸せになってほしいと思っている人は、意外にも多いのですよ!
まずは、そんなつもりで生きてみるのも、悪くはないと思うのです。
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
自分の幸せは、果たして自分だけのものなのでしょうか!?
幸せになれるように自分で頑張っていくのは、ある意味で当たり前のことかもしれません。
そしてまた、誰もが自分のことで精一杯の世の中です。
それぞれが、自分一人分の幸せを、なんとか自分で確保しにいく…というのが、現実のところではないかと思うのです。
悲しいかもしれませんが、そうそう余裕のある人ばかりではない以上、認めざるを得ない部分はあると思うのですね。
しかし。
それでもなお、少なくとも、自分だけでなく、人の幸せを願うことを諦めてはいけないと、私は思うのです。
まず、自分のことだけ考えるというのは、必ず疲れを伴うからです。
なぜなら、自分のやったことに対する見返りを考えると、必ず損をした気になるからです。
人には等しく個性がありますから、自分の思った通りに感謝してくれるとも、また、その感謝の仕方もみんな違うわけですよね。
そうすると、どうしてもズレた部分に不満を覚えることになりますから、
結果として、自分の幸せしか考えないほど、実は自分が傷ついてしまうのです。
だから、見返りを考えない精神、人のためにと思う気持ちは、
あったほうがいいのです。
ここまで読むと、「そんな理由、利己的すぎて嫌だ」という人もいるでしょう。
でも、人の幸せを願う本当の理由は、他にきちんとあるのです。
もしもの話、自分を応援してくれている人がいるとしたら、
自分が不幸になってしまった場合、どんな顔をするか、考えていただきたいのです。
私達は人間ですから、疲れた時や、ヤケになりたい時があるものです。
そんな時、歯止めになるとしたら、それは普段から自分を幸せを願ってくれている人の眼差しになるのではないでしょうか。
先程、「自分のことで精一杯だ」とお話しはしましたが、
世の中、そこまで心の狭い人ばかりではありませんし、
気がついていないだけで、自分の幸せを願ってくれている人は多いもの。
もし、そんな人がいるとしたら、自分を諦めてはいけないとは思いませんか。
純粋に、心から人を思う気持ちは、美しいものです。
そういう思いは、人を突き動かす原動力になります。
だからこそ、いくらせちがらい世の中と言えど、それでも美しい心を持った人の気持ちを思うことが、
逆境から抜け出す第一歩になるのかもしれません。
繰り返しますが、幸せになってほしいと思っている人は、意外にも多いのですよ!
まずは、そんなつもりで生きてみるのも、悪くはないと思うのです。
新宿サザンテラスから(東京都渋谷区)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
人のやることに、口出しは要りません。
こんなことを言うと、「なんて自分勝手な…」と思うでしょう。
でも、皆さんは実際に口出しされたとして、いつも素直に受け入れられますか。
あるあは、反感を覚えず、「良薬、口に苦し」で、飲み込んで改善できますか。
少し前、「バスの運転手さんに、運転について文句を言ったら、運転手が職場放棄をしてしまった」という事件がありました。
これ、もちろん、運転手さんが一番良くないのはわかりますが、
では、文句を言った側に落ち度がないかと言えば、そうでもないでしょう。
運転手さんには、責務もあれば、技量も求められるほか、さらには色々とコンディションを計算することで、
バスを運転していけるわけですよね。
いくらお金を払っているからといって、文句を言えるのは、これら全てを背負う覚悟ができて、実際にこなせる人です。
そして、実際にこなせる人は、その難しさがわかっていますから、
辛辣な言い方ではなく、建設的な言い方、そして、ねぎらう言葉が出てくるはずなんです。
これは、ありとあらゆることに言えるのではないでしょうか。
少し哲学的かもしれませんが、誰もが自分の運転手なのです。
頭や心で思ったことを、表情や行動を通して、生きているわけですよね。
車だって、運転席に座った人にしかわからないことがあるように、
本人の目線、視点、価値観、そして置かれた環境にならなければ、見えないもの、感じ取れないことがあるはずなんです。
もちろん、常識や良心に照らし合わせれば、やらないほうがいいことはたくさんあるのかもしれません。
ただ、それではなんで理解に苦しむことをする人が絶えないのか、
わざわざ嫌がられるとわかっていること、そうでなくともズレたことをする人が出てくるのか、
説明はつきませんよね。
悪いことをやっていいとは断じて言いませんが、
じゃあ、同じ立場だったら立派にやれるのかと言われても、胸を張れることばかりではないのが、現実ではないでしょうか。
人を責めるだけなら、誰にだってできます。
正論を吹っ掛けていい人を気取るだけなら、簡単です。
でも、自分が出来ないことなのに人を責めるのは、ただの無責任というばかりでなく、自分を追い込むことにはならないでしょうか。
人はそれぞれに、重荷を背負っています。
そしてまた、重荷の中身も、背負う体勢もバラバラです。
だからこそ、あたたかい心が、なによりも必要なのです。
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
人のやることに、口出しは要りません。
こんなことを言うと、「なんて自分勝手な…」と思うでしょう。
でも、皆さんは実際に口出しされたとして、いつも素直に受け入れられますか。
あるあは、反感を覚えず、「良薬、口に苦し」で、飲み込んで改善できますか。
少し前、「バスの運転手さんに、運転について文句を言ったら、運転手が職場放棄をしてしまった」という事件がありました。
これ、もちろん、運転手さんが一番良くないのはわかりますが、
では、文句を言った側に落ち度がないかと言えば、そうでもないでしょう。
運転手さんには、責務もあれば、技量も求められるほか、さらには色々とコンディションを計算することで、
バスを運転していけるわけですよね。
いくらお金を払っているからといって、文句を言えるのは、これら全てを背負う覚悟ができて、実際にこなせる人です。
そして、実際にこなせる人は、その難しさがわかっていますから、
辛辣な言い方ではなく、建設的な言い方、そして、ねぎらう言葉が出てくるはずなんです。
これは、ありとあらゆることに言えるのではないでしょうか。
少し哲学的かもしれませんが、誰もが自分の運転手なのです。
頭や心で思ったことを、表情や行動を通して、生きているわけですよね。
車だって、運転席に座った人にしかわからないことがあるように、
本人の目線、視点、価値観、そして置かれた環境にならなければ、見えないもの、感じ取れないことがあるはずなんです。
もちろん、常識や良心に照らし合わせれば、やらないほうがいいことはたくさんあるのかもしれません。
ただ、それではなんで理解に苦しむことをする人が絶えないのか、
わざわざ嫌がられるとわかっていること、そうでなくともズレたことをする人が出てくるのか、
説明はつきませんよね。
悪いことをやっていいとは断じて言いませんが、
じゃあ、同じ立場だったら立派にやれるのかと言われても、胸を張れることばかりではないのが、現実ではないでしょうか。
人を責めるだけなら、誰にだってできます。
正論を吹っ掛けていい人を気取るだけなら、簡単です。
でも、自分が出来ないことなのに人を責めるのは、ただの無責任というばかりでなく、自分を追い込むことにはならないでしょうか。
人はそれぞれに、重荷を背負っています。
そしてまた、重荷の中身も、背負う体勢もバラバラです。
だからこそ、あたたかい心が、なによりも必要なのです。