北欧スウェーデンの生き方、ラップランド、寒さ対策・・・面白くつたえられたらいいな
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1628年8月10日午後4時過ぎ、ストックホルムの港から、排水量1210トン、全長69メートルの大型旗艦「軍艦ヴァーサ号」が出港した。
国王グスタフ・アドルスの命令で作られたこの軍艦は、製作中から、当時の対戦国であったポーランドにも脅威を与えていた。
その日、出港を祝いに多くのストックホルム人が、港に押し寄せていた。
その衆目の見守る中、その悲劇は起こった。
わずか1000メートルばかりを進んだところで、ちょっとした横風に煽られて、この軍艦は横転してしまったのである。
処女航海、まだ、外海にもでていないうちに。
「きゃ〜」
「OH〜」
見守る人々の叫びの中、逃げ遅れた50人余りの乗員とともに、ヴァーサ号は、バルト海に完全に沈んでしまった。
国王はすぐに責任者を捕らえて処罰するように命じた。
しかし、関係者への審問の結果、結局、誰もが処刑されることなく、この事件は終わってしまう。
巨額の費用と月日をかけた軍艦が、数分で沈没してしまったというのに。
この軍艦は、グスタフ・アドルフ国王からヘンリックとアーレンドのヒーベルトソン兄弟に発注された。
この兄弟はオランダ人で、当時、イギリスとオランダは、造船技術の世界一を競っていた。
アーレンドは営業、ヘンリックは技術と役割は分けられていた。
ここに悲劇の第一歩がある。
国王と交渉するのは、アーレンドの役。当初の計画から、しばしば、国王の注文内容が変わるのを承る。技術的に知識がないので、国王の意向を受けるしかない。
作るのはヘンリックの役。受けた注文にできるだけ応えようとする。
予定されていた船のサイズが、途中で大型になる。
船底はすでに作り始めていた。
したがって、小さい船底の上に大きな船を乗せることになった。
モデルにしていたオランダ船「セントルイス号」には、46基しか乗せていない大砲を、国王の希望で70基にする。
そのために、二つのフロアーを大砲用にするという初の試みがなされる。
二つのフロアーに大砲を積んでしまうと、大砲が水につからないように、喫水線をあまり高くすることができない。
しかも、船底は狭いので、バラスト(船を安定させるための重し)の石をたくさん積むことができない。
初搭載の煉瓦造りのオーブンも重い。
不運は、他にもある。
技術責任者のヘンリックが、完成を待てずに、病気で死んでしまうのだ。
引き継いだのは、弟子のヤコブソン。
しかし、この間、事実上責任者不在の時期ができてしまった。
さらに、その年、二隻の旗艦を失い、直前には10隻の船を難破させていた国王は、製作を急がせた。
そして、今の造船技術では、考えられないくらいに上体の重い重力バランスの悪い船の完成となってしまう。
沈没後、即、逮捕されたハンソン艦長は、
「大砲をしばりわすれていただろうとは、とんでもない。乗組員が酒をのみすぎていたということもない。ちょっとした突風で沈没したのは、作り方が悪い」
釈放。
技術の責任者ヤコブソン。
「私は、ヘンリックの後を継いだだけだ」
釈放。
契約したアーレンド・ヒーベルトソン。
「国王の希望通りに作っただけです」
釈放。
「じゃ、誰の責任なのか」と裁判で聞かれて
「神のみぞ知る」
と答えたという話は、有名だ。
結局、誰一人、責任を取らされるものがなかった。
想像するに、実際に製造に携わっていた熟練の作業員の中には、この船は危ないと思っていた人もいたんじゃないだろうか。
でも、ルートに乗ってしまっている仕事に、どう口出しすることもできずに、大勢に飲まれてしまったのではないだろうか。
実際に、出港前に、甲板長が、船員を端から端まで走らせて、重心のテストをしている。
「何往復か走らせたら、すでに、バランスが悪くなって、倒れそうになったので止めた」
と証言しているのだ。
巨大な歯車の中で、正論を、納得させるように伝えるのはむずかしい。
ヴァーサ号の沈没は、私にいろいろなことを考えさせる。
沈んでしまった船は、大きすぎて、引き上げは諦められた。
錨を使ったりして、引き上げようとしたが、船を傷つけるだけで、結局、無駄だったのだ。
潜水夫が雇われて、大砲はいくつか引き上げられた。
その方法が、すばらしい。
コップを逆さにして、つい中に沈めると、コップの上の方に、押しやられた空気が残る。
その原理を利用するのである。
足場のついた大型コップに人間が入って、そのまま、水中に沈める。
すると首から上は、コップの中に残された空気の中に出すことができる。
その状態で、棒を使って、水中で引き上げ作業をする。
それでも、寒いバルト海では、1回15分が限界だろう。
そして、50余門の大砲を引き上げた後、全ての引き上げ作業は終了した。
さて、ドラマは、実は、ここから始まる。
沈没した船の話を聞きながら大きくなった一人の少年は、それを研究することを趣味とする。
しかも、彼の研究は、ただ文献上だけではなく、実際の行動を伴っていた。
先の尖った錘(おもり)を水中に投げ、その先についてくるサンプルを調べたのだ。
沈んでから300年以上経っている。
今では、沈没した正確な場所さえわからない。
あちこち場所を変え、数年間同じ作業を繰り返した後、彼は、錘に樫の木片がついてきたのを見逃さなかった。
1956年9月13日。
すでに38歳になっていたアンダーシュ・フランセンの快挙である。
早速、潜水夫を雇い調査をしてもらうと、確かにその場所の深さ30メートルのところに軍艦ヴァーサ号が眠っていたのだった。
バルト海は塩分が少なく、そのために船食虫が少ない。300年前の沈んだ木造船が、ほとんどそのままの形で残っていた。
そのニュースは世界を駆け巡った。
寄付金などで資金を作り、多大な作業の末、ヴァーサ号が引き上げられたのは、それから5年後1961年4月24日のことだった。
軍艦ヴァーサ号は333年の海底での眠りの後、水上に姿を現したのだ。
そこに現れたのは、17世紀からのタイムカプセル。
17世紀の造船技術、文化、装飾品…そうしたものの実物である。
海底では、生きながらえたヴァーサ号だが、陸上ではむしろデリケート。
現代技術を駆使して、保存液を吹き付け、空調、照明を考慮した保管場所を用意しなければならない。
そうして完成したヴァーサ博物館。
ストックホルムのユールゴーデン島にある。
そこで、私たちは17世紀の軍艦に実際に手を触れることができる。
もし、私が17世紀の人間だったとしたら、まず、触れることはできなかっただろう旗艦に。
ヴァーサ号がもし、設計ミスの船ではなく、ストックホルムの内海にあっという間に沈んだ役に立たない船ではなかったとしたら、こういう運命にはならなかっただろう。
ヴァーサ号は、今、軍艦として生きたであろうよりも、長く、そして、より多くの人を喜ばせるために存在している。
まさに「神のみぞ知る」運命だったのだ。
ところで、ヴァーサ号引き上げの時、その大きさゆえにいくつもの案が検討された。
結局船の下にいくつかトンネルを掘ってそこにワイヤーを通し船をすくい上げるという妥当な方法がとられた。
こんな案もあった。
「ヴァーサ号の周辺を凍らせて氷漬けにし、氷の浮力で浮かせる」
でも、どうやって、凍らせるの?
私の最も好きな案は、これ。
「ヴァーサ号の中に、大量のピンポン玉を詰め込んで、浮力で浮かせる」
なんて、おちゃめなの!!
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