3月10日は毎年のようにこのブログでも東京で生まれ育ったものにとって東京大空襲という事実があったことを伝え聞いたこと...忘れてはいけないと思って書いてきました。
子供のころは言問橋というと言問団子というイメージがわいてくるものでしたけれど、空襲後60年を経たころから、あの空襲で生き残ることが出来た人たちが語り継がなければいけない、風化させてはいけないと語り始めたことでその事実のひとつひとつが明らかになっていきました。
いつか言問橋を渡るたびに、この橋の上で60数年前に物凄く多くの人たちが行き場を失って火炎地獄の中で焼かれて命を失ったということが目に浮かぶようになりました。
言問橋は欄干の部分は1992年の補修工事で空襲の時のものはなくなってしまったものの橋のたもとは空襲で真っ黒く焼け焦げているのが今でもそのままになっています。
私の両親は父方も母方も東京在住でしたので、東京で起こった空襲の話はよく聞かされました。ただ言問橋の上や集中的に焼夷弾を投下された下町地区の死体の山を踏み越えなければならなかったという話までは聞かなかったように思います。
毎年同じことを書きますけれど、我々にできることということは二度とこのようにことを起こさないこと、そして伝え聞いたことを忘れないこと、次の世代に語り継いでいくことに尽きると思います。
子供のころは言問橋というと言問団子というイメージがわいてくるものでしたけれど、空襲後60年を経たころから、あの空襲で生き残ることが出来た人たちが語り継がなければいけない、風化させてはいけないと語り始めたことでその事実のひとつひとつが明らかになっていきました。
いつか言問橋を渡るたびに、この橋の上で60数年前に物凄く多くの人たちが行き場を失って火炎地獄の中で焼かれて命を失ったということが目に浮かぶようになりました。
言問橋は欄干の部分は1992年の補修工事で空襲の時のものはなくなってしまったものの橋のたもとは空襲で真っ黒く焼け焦げているのが今でもそのままになっています。
私の両親は父方も母方も東京在住でしたので、東京で起こった空襲の話はよく聞かされました。ただ言問橋の上や集中的に焼夷弾を投下された下町地区の死体の山を踏み越えなければならなかったという話までは聞かなかったように思います。
毎年同じことを書きますけれど、我々にできることということは二度とこのようにことを起こさないこと、そして伝え聞いたことを忘れないこと、次の世代に語り継いでいくことに尽きると思います。