ポルトガルのえんとつブログ

画家の夫と1990年からポルトガルに住み続け、見たり聞いたり感じたことや旅などのエッセイです。

103. ジュンクエイロ通り47番地

2013-06-29 | エッセイ

 ポルトガルに1990年に本格的に住み始めたのだが、そのとき最初に部屋を借りたのが、ジュンクエイロ通り47番地の3階の部屋だった。

 その家は借りた当時、すでに300年以上経っていた古い古い建物で、住んでいた間に、風呂場と台所の天井が全面的にどさっと落ちてきて驚いた。 驚いたけど、そんな古い家のアンティックな作りが面白くて、2年ほど住み続けた。 周りの家々も同じ様に年季が入っていて、お互いに寄りかかり支えあってようやく建っていられるふうだった。

 ジュンクエイロ通りは大昔からの商店街で、古いレストランやバル、食料品店、電気修理屋、食器屋、カフェなど、なんでもひと通りそろっていた。 どの店も昔風でたいして流行ってはいなかったが、近所の人々がやってきて、おしゃべりついでに買い物をしていく店ばかりだった。

 3階の部屋は北向きで日当たりは良くなかったが、ジョアキム広場とジュンクエイロ通りに面していて、下を眺めていると、様々な人々が行き交い、犬はよろめき、猫は手すりであくびをしていた。

 洗濯おばさんは窓から身を乗り出して、大量の洗濯物を毎日の様に干していた。 ある日、メルカドで彼女を見かけて初めて知ったのだが、彼女の片足は短くて、かかとの異常に高い靴を右足に履いていた。 その後、街を歩く年配の人々の中に、そんな靴を履いている人々がけっこういるのに気が付いた。杖をついて歩くよりずいぶん便利かもしれない。

 ジョアキム広場の反対側に面した建物の0階(日本式には1階)にはがっしりと大柄なおばさんが一人で住んでいて、家の壁沿いに張ったロープに洗濯物を干しながら、斜め向いのおばさんといつも喋っていた。 その話し声は広場の四方の壁にぶつかり、跳ね返って、大声がますます大きくなった。彼女のことを大声おばさんとひそかに名づけていたものだ。 彼女の家の前を通りかかって挨拶をすると、びっくりするほど大きな声が返ってきた。壁に跳ね返って大きくなるだけではなく、やはり地声が大きいのだ。

 3階の部屋から擦り切れた木製の階段を降りて通りに出ると、まん前にパステラリア(お菓子と飲物の店)がある。 店のうしろがお菓子の製造工場になっていて、毎日、焼きあがったお菓子を車に乗せてどこかに配達に行っていた。この店はコーヒーやビールなども売っているので、昼過ぎになると若者たちが店先でビール瓶片手にたむろしていた。

 ジュンクエイロ通りをひとつ下ると、左角に古めかしいバルがあり、毎日夕方5時になると、その日の仕事を終えた男達や爺さん達がわんさと集まり、店の中からはみ出して、ビーニョやビールを飲みながら、わいわいがやがやと騒いでいた。一日で一番活気が漂う時間だ。 ほろ酔いかげんのじいさんが杖を構えて「イーヤー」と掛け声をかけながら勢い良く振り下ろすと、みんながワーッと歓声をあげて合いの手を入れる。するとますます気合が入って「イーヤー、イーヤー」。 その騒ぎも、2時間もすると、まるで潮が引くようにすーっと収まる。みんな家に帰ってしまうのだ。

 ジュンクエイロ通りの最初というか、そこには太陽の門がある。町の城壁にある出入り口で、大きい立派な門だ。

 門の外には漁師たちの家が建ち並ぶ古い家並があり、軒先にタコを干してあったりする。 イカではなく、タコのスルメを作っていたのだ。夕方になると、その家並からビーニョの空き瓶を抱えた10歳ぐらいの女の子が、太陽の門をくぐってバルにお酒を買いに来る姿を見かけた。父親のためにお使いに来るのだ。

  私たちもそのバルに友達と一緒に行ったことがある。コップ酒が一杯17円。 その安さに感激した友達がずいぶん後まで話題にしていた。22年前の話である。

 私たちはジュンクエイロ通り47番地に2年ほど住んだあと、町の反対側の丘に建つマンションに移り住んだ。

 その間に、町にたったひとつしかなかったスーパーの他に、町外れに大型スーパーができ、次々とその周りにいろいろな大型店が建ち並び、クルマを持つ人々も急速に増えて、買い物はクルマで大型店へと流れが変わった。

 22年前は町を走るクルマも少なく、しかもさび付いて穴も空いているポンコツ自動車がほとんどで、まるで共産圏の東欧やソ連のようだった。 でもあっという間にポンコツ車は姿を消し、今ではベンツやBMWやアウディなど超高級車が我が家のポンコツシトロエンの前後を走っている。  

 町外れの大型スーパーもまわりに同じ様な大型スーパーができて競争が激しくなり、あの手この手で安売りをして、顧客の囲い込みをする。

  一軒のスーパーの会員になると、2ヶ月に一度クーポンの束が送られて来て、期間限定で割引をする。 たとえば20ユーロ以上買い物をすると5ユーロのクーポンを使えるから、15ユーロだけ支払えばよい。でも5ユーロは当日ではなく翌日以降に引かれるシステムで、次回もその店に行かないと割引が無効になる。他にも品目ごとに25%~50%引きのクーポンが付いている。 会員になるとその店から離れられない。  そのせいで以前よく行っていた大型スーパーにはほとんど行かなくなった。

 でも今年、日本から帰ってきて、デジカメ写真の現像をしに以前の大型スーパーに久しぶりに出かけたところ、店の半分と駐車場の半分が削り取られ、道路を挟んだ広大な空き地もひっくり返されて、大工事になっている。 それどころか、出入り口の国道もロータリーを建設中で、ここにまたさらに大型ショッピングセンターができるようだ。 そうなるとセトゥーバルの商店街はますます寂れていく。  

 久しぶりにセトゥーバルの、昔住んでいた界隈を歩いてみた。 メルカドにはよく行くが、町の商店街はたまにしか歩かない。

 昔は古いけれどしっかりした造りの店がほとんどで、そんな店には年寄りの店主や店員がいて、丁寧に応対していたものだ。しかしそんなレトロな店はどんどん消えていき、そのあとにはチェーン店のブティックなどが入り、それもいつのまにか姿を消して、中国人経営のごたごたした雑貨屋が雨後の筍のようにあっちにもこっちにも出現した。 それもこのごろはいつのまにか数が少なくなってきた。 中国人の雑貨屋でさえ、商店街から立ち消えて、町の出入り口に大型店舗を構えている。

 

 ミセルコルディア広場は地元の買い物客は少なく、観光客の姿が目立つ

 数年ぶりにジュンクエイロ通り界わいを訪れた。

 空き店舗が目立つ商店街のミセルコルディア広場から太陽の門に向って坂道を上ると、下の商店街よりももっと激しく荒れている。  

 昔、通りがかりに陳列棚を見るのを楽しみにしていた食器屋も小間物屋も、靴修理を頼んだ靴屋も、同じフラットに住んでいたバーバラさんが壊れたTVを抱えて修理を頼んだ電気屋も、そして高級家具を陳列していた家具屋も、空っぽのショーウィンドウだけがほこりをかぶっている。

ここは電気修理屋だった  

 あのころ夕方になると漁師たちが集まって一杯呑んで騒いでいた、あのバルも入り口や窓はガラスが割れ、それを塞ぐ板が中から張ってある。

 毎日5時になると賑わっていたバル  

 なにより驚いたのは私たちが住んでいたジュンクエイロ47番。  入り口の木のドアが太い鎖で繋がれ、出入りできないようになっている。 3階の階段を挟んだ向いに住んでいたドッタンさんや、2階のジョアオさん夫妻たちはどこへ行ってしまったのだろう?

 ジュンクエイロ47  

向いのパステラリアも家具製造工房も入り口が煉瓦で塗り込められて、廃墟となっている。

私たちが住んでいた左の家と廃墟になってしまったパステラリア(正面)

 

家具製造工房跡  

 ジュンクエイロ通りはまるでシロアリに喰われたように、崩壊寸前だ。  がっかりしてというか、あっけにとられて呆然と太陽の門をくぐると、昔、イワシの缶詰め工場だった廃墟あとに作られたジャコメッティ博物館があり、ガラス窓にセトゥーバル出身のサッカー監督、ジョゼ・モリーニョのポスターが張ってあった。

 漁師たちがサド湾の様子を見るための見晴台  

 博物館の前にある見晴台には昔と同じ様に、今年もブーゲンビレアが見事な花を咲かせている。  ジュンクエイロ通りも、いつか近い将来、再開発されて、息を吹き返すかもしれない~。

 

 

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