ポルトガルのえんとつブログ

画家の夫と1990年からポルトガルに住み続け、見たり聞いたり感じたことや旅などのエッセイです。

203. リスボン首都圏のパスカード

2024-06-01 | 風物

 リスボンにはバスで出かけた。オリエント特急バスはセトゥーバルからリスボンのガレ・デ・オリエントまでノンストップ。昔はよく乗ったものだが、クルマを買ってからは乗ることがほとんどなかった。

 今回はリスボン首都圏の「老人割引パス」を買ったので、無料で行ける。パスカードは便利だ。毎月一ヶ月のパスを買うと、65歳までは一ヶ月40ユーロ、65歳以上は一ヶ月20ユーロ払うと、どこでもどの路線でも何回でも乗り放題。どこからでもどの路線にも乗れる。

 宮崎の老人割引パスも便利だと思っていたが、一回あたり100円かかり、乗り換えるごとにさらに100円支払う。たとえ100円でも気軽に乗り換えるとチャージしてある金額がどんどん減ってしまう。その点セトゥーバルのパスカードシステムは20ユーロ支払うとそれ以上はかからないので、安心だ。このごろバス停で待っている人がぐんと増えたようだ。しかもみんなパスを使っている。

 このパスで電車にも乗れる。メトロにも乗れる。渡船にも乗れる。先日はモイタの露店市に電車で行った。駅のチケット売り場で電車の時刻表をもらおうとしたら、あそこにあるよと指さしたのはデジタル時刻表。「あれは字が小さくて見えない、印刷した時刻表を下さい」というと、紙の時刻表はないという。係員は時計を見ながら、「あと3分でバレイロ行きの電車が来ますよ。1番ホームです」と教えてくれた。あわててホームに駆け上がったら、たくさんの人々が待っていた。

 やってきた電車は真新しく、3人掛けの対面シート、つまり6人掛けで、通路を挟んで4人掛けがある。空いている席に座ると、周りは若い旅行者でいっぱいだ。フランス語が飛び交っている。今からリスボンにでも出かけるようだ。セトゥーバルの街中でもツーリストだらけだ。リスボンはホテルが高いから、セトゥーバルの安い宿とレストランを求めて旅行者がやってくる。

 老人たちが住んでいて空き家になった古い長屋か、アパートをリメイクして、「IE」という民宿がポルトガル全域に爆発的に増えている。私のアパートにもリディアさん一家が住んでいた部屋をIEにして貸している。リディアさん一家は近くのパルメラに住んでいるらしい。リディアさんのIEは、時々、旅行者風のカップルが出入りしているのを見かけることがあるから、そこそこ流行っているのだろう。

 

モイタ駅のホームを結ぶ歩道橋と見上げるような階段。エレベーターは壊れている。

 電車がモイタに着いた。降りたのはわたしたちと数人だけ。ほとんどの人が降りない。電車が着いたのは2番ホーム、出口は1番ホームにしかないようだ。しかも見上げるような階段を昇り降りしなければならない。エレベーターを探したが、壊れている。誰かが蹴って壊した様だ。分厚いステンレス製の扉が歪んでいる。しかたなく一段一段昇って、そして降りた。駅員は一人も見当たらない。真新しいモダンな駅だが無人駅の様だ。しかもトイレもなさそうだ。駅前のカフェも閉まっている。やはりクルマできたらよかった。

 セトゥーバル市内やリスボン市内は無料の駐車場がほとんどないので、市バスや電車を利用するのがベストだが、モイタなど郊外に行くときは駐車場に困ることはほとんどない。しかも土曜日の午後から日曜日は無料になる。

 モイタに着いたら帰りの時刻を調べておこうと思っていたのだが、無人駅で聞く人も居ないし、張られた時刻表は日焼けして読むことが出来ない。

 帰りの電車の時間が判らないので、適当に駅に着いた。まずパスにパンチを入れなければならないのだが、そのパンチを入れる機械が壊れている。まわりに数台設置してあるのだが、ほとんど使えない。その時2番ホームで電車を待っていた家族ずれが「あっちがいいよ」と教えてくれる。その中でも未だ声変わりもしていない、小学校高学年程の甲高い声の男の子が親切に教えてくれて、何とかパンチを押すことができた。その子は学校で習ったばかりの英語が使いたくてしょうがなかったのだろう。「バレイロ行きは直ぐに来るけれど、セトゥーバル行きは10分前に行ったばかりだからあと50分待ちだよ」とも教えてくれた。

 乗り放題なのだからバレイロまで行き、渡船にでも乗って観光気分を味わってバレイロから引き返してくるのも悪くはないが、エレベーターが壊れているので長い階段を昇り降りして2番ホームまで行くのも大変だ。50分は少々長いと思ったが、そのままベンチで待つことにした。

 でもその子のお陰で助かった。パンチを押していなかったら、大変なことになっただろう。

 50分ほど待ってようやく姿を現した電車に乗った。ほぼ満席だったが丁度2人分の席が別々に空いていたので座った。

 そしてまもなく、検札がやってきたのだ。私たちが乗っている車両だけで3組の不正乗車が発覚した。最初の一人は若い男で、すぐに罰金を払っていた。もう一人は若い女性。何とか言い訳をしながら隣の車両に移っていった。もう一組はふたりの男たち。これは強制的に降ろされてしまった。車外に出ても、「知らなかっただけだろう。金を払うから乗せてくれョ」と検札官に毒づいていたが、無視されて、電車は動き出した。

 なにしろ次の電車はたぶん一時間後にしかない。しかも駅舎は郊外の原っぱに建っていて、周りは何もない。何もないベンチで1時間過ごすのも悪くはない。涼しい風が吹いている。

 

ポルトガルのえんと MUZの部屋 エッセイの本棚へ

 


201. アゼイタオンの露店市

2023-11-01 | 風物

 セトゥーバル半島内では毎月第1日曜日にはアゼイタオンの露店市が開かれる。第2日曜日はピニャル・ノヴォの露店市。第3はコイナ。第4はモイタ。第1と第2日曜日には必ず行く。どちらも規模が大きくて敷地も広いのでかなり歩く。へとへとになるが、良い運動になってすっきりする。

 どちらもジョアオの店でお昼を食べる。人気のある店なので早く行かないと席がなくなるから、11時半ごろには行く。フランゴ・アサード(鶏の炭火焼き)か、エントレメアーダ(豚の三枚肉)の炭火焼き、たまにはショコフリット(巨大モンゴイカの唐揚げ)を食べたいのだが、聞いたところによると猫のばあいイカやタコを食べると腰を抜かすというので、人間も老人になると同じように腰が抜けることになるだろうと、注文禁止。セトゥーバルはショコフリット発祥の地らしく、専門店では旅行者が列をつくっている。

 ということで、隣のテーブルのショコフリットを横目で見ながら、エントレメアーダのサンドイッチをかぶりつく。これもなかなか美味い。焦げ目の付いた三枚肉がこれでもかというほどたっぷり挟んである。

 

エントレメアーダ、ビッファナとペレ・デ・ポルコ(豚皮)などを炭火で焼いている。この豚皮はみんなよく食べているが、ゴムのようで、一度食べたら私はもう結構。

 

開いた鶏ををカッカと起こした炭火で自動回転台で焼く

 

チキンの炭火焼きは丸ごと一匹をハサミで食べやすい大きさに小分けして出てくる。それにサラダミスタ(ミックスサラダ)と山盛りのバタータフリット(フレンチフライ)、おまけに味付けしたアロース(ライス)、これも山盛り。二人で食べてもだいぶ残るので、フランゴアサードは持ち帰る。

 

民芸陶器。ほとんどがアレンテージョ地方で作られた陶器。

 

アレンテージョ地方の絵皿

レゲンゴスのサン・ペドロ・デ・コルバル村には道の両側に20軒ほどの陶器屋が並んで、自作の陶器を売っている。それぞれ個性があって面白い。

 

花屋には色とりどりの鉢植えがならんでいる。このごろは洋ランやサボテンも売っていて、人だかりがしている。

 

露店市の服屋。いままでは山積みになった中から客があれこれひっくり返して選ぶのだが、このごろは店によってはブティック並の展示になってきた。

 

ワイン作りの過程で出るブドウの搾りかすと水で自家用のアグアデンテ(蒸留酒・焼酎)を作る道具。40~50度の強い酒ができる。ポルトガルでは自宅で酒を造ることは自由だ。

 

チョリソとチーズを売る店

 

珍しい鳥。初めて見たが名前がわからない。

 

手前の地味なのがメスだろうか。

 

こちらも初めて見た鳥

 

優しい顔をしたインコ。露店市を歩いている人の肩に止まっているのを時々見かける。

 

ウサギは食用とペット用が売られているが、驚いたことにリスも売っていた。ストックホルムやフランスなどでは野生のリスをよく見かけるが、ポルトガルで野生のリスは見たことがない。

 

 アゼイタオンの露店市では珍しい鳥や動物を売っているので、出掛けるのが楽しみだ。時にはワシントン条約違反ではないの?という珍しい鳥も見かける。

 

ポルトガルのえんと MUZの部屋 エッセイの本棚へ

 


200. セトゥーバルの帆船祭り

2023-10-01 | 風物

 港に帆船が入って来た。3本マストの大型帆船、あれはサグレス号に違いない。

セトゥーバル港に入港するサグレス号。後ろはトロイア半島とビーチ。そして大西洋の水平線。(我が家のベランダから撮影)

 

 今年はセトゥーバルの開港100年にあたるので、そのお祝いで帆船が続々と集まって来た。

 1930年に港の工事が始まり、100年間の港の変遷の様子が写真で展示。昔は漁船などは帆船だった。

パンフレットの表紙は1933年ごろのセトゥーバル漁港。

 

波止場入り口には立派なゲートが作られて、港の歴史を示すパネル解説と無料のパンフレットがおいてあった。

 

接岸したサグレス号

 

ドッカドペスカドーレス(漁師の港)の競り市前に着岸したサグレス号

 

大勢の見学者が詰めかけた。サグレス号に乗船する人々。後ろにサン・フィリッペ城が見える

 

北の港ヴィラ・ド・コンデからやって来たカラベラ船

 

入港して帆をたたみ始めるカラベラ船

 

カラベラ船の甲板は丸く傾斜があって歩きにくかった。

 

波止場では海軍が巨大な柱を作ってボルダリング競技、子供たちが恐る恐る挑戦していた。

 

9月25日に入って来た3本マストの大型帆船、遠くにトロイア半島

 

9月30日に入ってきた2本マストの帆船。手前にアヌンシアーダ教会

 

コロナ禍でしばらく開催されていなかった帆船祭りも2023年9月に再開された。

ポルトガルを代表する帆船サグレス号も相変わらず優雅な姿を見せてくれたし、合計6隻の帆船、感激だった。

 

 

ポルトガルのえんと MUZの部屋 エッセイの本棚へ

 


199. 日本食材

2023-09-01 | 風物

 ずっと前から願っていたことだが、私の住むセトゥーバルに日本食材が買える店ができたらいいなと思っていた。中華食材店でも日本食材は数多く売られている。キッコーマン醤油、味噌、寿司海苔、ワサビなどだ。日本食材店というものがなかなかないから中華食材店に売られている日本食材には重宝する。もし日本食材専門店があったとしても日本食材店では値段が高い。

セトゥーバル中心部とセトゥーバル港。左上の緑はボンフィム公園(我が家のベランダから撮影)

 

 リスボンには数件の中華食材店があるのだが、クルマで買い出しに行くと駐車場がどの店にもない。以前は店の前に路上駐車をしていたのだが、警察の取り締まりがきつくなり、マルティン・モニッツの地下有料駐車場に停めて階段を昇り中華食材店までたどり着きようやく買い物をしていた。買い物袋はけっこう重たくなり、店から駐車場まで持って戻るのに疲れ果てた。

 セトゥーバルからリスボンまで買い物に行くには高速料金やヴァスコダガマ橋の料金を払う。

 セトゥーバル半島とリスボンの間にはテージョ川が流れていて、その間には二つの橋がかかり、そのどちらかを渡らなければならない。橋の料金は行くたびにわずかずつ値上がりしていて、しかも料金はリスボンに入る時に往復料金を強制的に取られる仕組み。その代わり、リスボンから出ていくときは支払い無料。変な仕組みだ。

 二つの橋は長さがぜんぜん違う。ヴァスコダガマ橋は全長17キロもある。もうひとつの4月25日橋と比べて数倍以上の長さだ。料金の安い4月25日橋からリスボンに入って、帰りはヴァスコダガマ橋から出たら、安上がりだ。でも4月25日橋にたどりつくまでがややこしいから、いつのまにか往復ともヴァスコダガマ経由になっている。

 だからセトゥーバルでなくとも、橋の手前セトゥーバル半島内に中華食材店が出来たらいいのにな。と以前から思っていた。

 さて中華食材店で何を買うかと言ったら、まずキッコーマン醤油、トーフ、大根、油揚げ、インスタントラーメン「出前一丁」など。

 でもこのごろは大型スーパーでキッコーマン醤油やインスタントラーメンなどは売られているから、少し割高だけど買ったりする。トーフはバイオの硬いトーフだがドイツ系のスーパーでいつでも売られている。でもトーフとはほど遠いものだ。硬いというよりガチガチ。ドイツ人にとってのトーフは植物性のチーズのイメージなのだろう。あまり美味しいとは言えないけれど、しかたなく買っている。

 我が家ではニラとパセリを北側のベランダでプランター栽培している。どちらも野草のように元気に育っている。しかし今年は4か月も帰国していたので、ポルトガルに戻って来た時はさすがにカラカラに枯れていた。これは回復できないだろうなと諦めかけていたが、枯葉を取り除いて水やりを続けているうちに緑色の葉っぱが次々と出て来て、いまではしっかり収穫できて役に立っている。野菜炒めやサラダなどに入れて、無農薬だから安心して使える。

 海外に住んでいるとたまには日本食が恋しくなる。殆どの食材をポルトガルのスーパーで買っているが、時には日本食材を使って味噌汁や鍋料理などをしたくなる。そういう時にお助けになるのが中華食材店で売られている日本食材だ。

 それがとうとうセトゥーバルにも一軒できたので、嬉しい。リスボンに住んでいる弘子さんが教えてくれた。彼女は乗り放題バス券を購入しているので一ヶ月40ユーロでリスボン市内や近郊、セトゥーバルまでも乗り放題だ。

 弘子さんはクルマもお持ちだが、リスボン周辺公共交通機関乗り放題券ライフを楽しんでおられる。「武本さんたちは半額の20ユーロなのだから絶対にお得ですよ。是非、買いなさいよ」と勧めてくれる。リスボンを中心にしてシントラやセトゥーバルまで広範囲のバスや列車を利用することが出来る。それでセトゥーバルにバスや電車でやってきて、ウォーキングツアーに参加したり、タイ式マッサージに行ったりされている様だ。

 絶対にお得なのは判る。もし私たちがそれを使う様になれば、元を取ろうと毎日の様に出歩くことになるのだろう。健康にも良い。でも家に居て絵を描くことが仕事なので、あまり出歩いてばかりいると仕事にならない、とも思う。

 私たちはこのごろ家に引き籠りがちで、セトゥーバル市内はめったに歩き回らないのでそんな中華食材店ができたなんて知らなかった。すばらしいニュースだ。

 弘子さんとセトゥーバルのメルカドでお会いする約束をした。リスボンからセトゥーバル駅まで列車で来られる。それからメルカドまで歩かれるわけだけれど、途中、ボンフィム公園の脇を通って来られるそうだが、そのボンフィム公園の側に中華食材店が出来ていた。と興奮気味に教えてくれた。そこは以前から中華雑貨店だったらしいが、食材店に代っているらしい。

 弘子さんはリスボンなので、近くに中華食材店があるのでいつでも日本食材は買うことが出来るのだが、私たちの為にそのボンフィムの中華食材店内をひと回りし、確かめてくれたらしい。「小さいお店だったけれど豆腐や醤油などひと通りの品物は揃っている様ですよ」。

 さっそく行ってみると、中華食材店だが日本食品や韓国食品まで置いてある。それとポルトガル人用に日用品やポルトガル食料もある。ミニスーパーメルカド、日本のコンビニというところだろうか。

 とりあえず豆腐とモヤシ、大根、胡麻油、餃子の皮を買った。店の周りは公園なので駐車場はたくさんある。平日は有料だが、土曜の午後からと日曜日は無料。店は年中無休。

 これからはリスボンに行かなくてもいつでも買うことが出来る。弘子さんに感謝。MUZ

 

ポルトガルのえんと MUZの部屋 エッセイの本棚へ

 


198. ポンボおばさん

2023-08-01 | 風物

 我が家の下の部屋に引っ越して来たのが、ポンボ(鳩)おばさん。入居してくる前の2年間、下の部屋をリメイクするために工事に次ぐ工事で、騒音がひっきりなしに続いた。

 最初、横柄な態度で気が向いた時しか仕事をしようとしない工事人もだんだん気弱になって、しまいには次々と注文を出すポンボおばさんの言いなりになった。

地面に撒かれた餌を探す鳩たち

 

 一方、周りのものはたまったものじゃない。やっと騒音が終わったとホッとしていたら、ある日またぐわーと始まった。2階に住んでいるマダレナおばさんは階段で出会うと、顔を引きつらせて「気がくるいそうだわ」とうめいていた。

 これは大変な人が引っ越して来たものだ。

 ポンボおばさんは一人暮らしらしい。家族の様な人は誰も見かけない。彼女は70歳ほどに見えるが、みたところ頑丈そうだ。乗っているクルマはポンコツ。我が家のシトロエンとどっこいの古いクルマ。後ろの座席には杖が置いてある。クルマのバンパーはガタっと落ちそうで、それを無造作に紐で縛り上げている。見た目や他人の目をいっさい気にしないようだ。

 ある日、私たちが買い物から帰って来ると、ロビーで一階のマリアさんとポンボおばさんが立ち話をしていた。階段に水のボトルと買い物袋が置いてあるので、ヒトシが手伝おうとすると、「いいのよ、自分でできるから」と笑いながら断って来た。マリアさんもうんうんと頷いているので、そのままにした。4階建てのこの建物はエレベーターがないので、買い物をまとめてすると、わが家のある4階まで運びあげるのが大変なのだが、3階に住んでいるポンボおばさんは一人でどうするのだろうか。

 このごろなぜかたくさんの鳩が集まってくる。そして我が家のベランダの手すりにべっとりと糞をしているので、あと始末が大変だ。クルマの屋根にも無数の鳩の糞。出かける前に糞掃除をするのが一仕事。

 ベランダから屋根を見ると、たくさんの鳩がずらりと並んでいる。なにかを待っている様子だ。するとポンボおばさんの風呂場の窓からばらばらと勢いよくパン屑がばらまかれ、下の道に落ちて行った。屋根に止まっていた無数の鳩が勢いよくパンくずに群がり競争で食べている。小さな雀も何羽かいて、自分より数倍も大きい鳩の隙間をぬって要領よくパン屑をかすめ取ってどこかへ飛んでいく。運んだ先でゆっくりと食べるのだろう。

 ある日、ロビーに張り紙が出された。張り紙は他にも3箇所に貼ってあった。それによると、鳩が増えたら伝染病に感染する恐れがあるという。一羽の鳩が一人の人間を殺すという。恐ろしいことだ。張り紙にはその症状の写真入りで載っていた。

 ある日、マンションの管理会合があった。住民全員参加だ。お向かいのローマンさんはポンボおばさんに面と向かって「鳩に餌をやっているのは我が家の窓からも時々見えているよ。どの家も糞掃除が大変じゃないか。僕は日用大工店で鳩除けの剣山を買って来て屋上に取り付けたけれど、鳩が増えすぎて追いつかない。ヒトシはおとなしくてなにも言わないけれど、彼が一番困っているのだよ」と口角飛ばして言ってくれた。

 ここまでされたらポンボおばさんも観念するだろう。ところが~。

 ある日、クルマから出て上を見上げると、ポンボおばさんの北側のベランダに鳩が群がっている。ポンボおばさんが窓から身を乗り出してにこにこと笑いながら鳩に餌をやっている。その手には一羽の鳩が乗り、直接餌を食べている。そうなると可愛くてやはり止められないのだろう。

 あの強烈な写真入りの張り紙を一向に気にすることなく、ローマンさんからの苦情もどこ吹く風、幸せそうなポンボおばさん。手摺の縁には鳩の飲み水を入れた小皿が三つ置いてあるのが見えた。

 そこまでするか、ポンボおばさん!

 我が家では毎朝ビトシが汗水流してベランダ手摺の糞掃除。私はどこ吹く風。

 

ポルトガルのえんと MUZの部屋 エッセイの本棚へ

 


197. 暑い、暑い、そして熱い

2023-07-01 | 風物

 この頃毎日蒸し暑い。じっとしていても汗がべっとり出てくる。まるで日本の梅雨のようだ。

 それでも扇風機も点けないし、ましてやクーラーなど我が家にはない。扇風機はあるのだが、長時間点けていると部屋に熱気がこもるようで、使えない。扇風機のモーターが熱を発散して熱くなるのだ。日本製の扇風機ではこんなことは考えられない。そこでタオルをしっかり絞ってモーターの上に乗せて熱を冷まそうとしたのだがすぐに乾くのでばかばかしくなった。このごろはもっぱらうちわを片手に暑さを凌いでいる。そんなことで過ごせるのも日本に比べて湿気が少ないせいだ。気温は30~40℃となって日なたはカンカン照りでも木陰に入るとスーと涼しい。

 先日も暑いなか、出掛けた。コルーシェという町。以前に一度行ったことがあるのだが、その時は白い霧が街をすっぽりおおって町の様子が分からなかった。階段で上から降りてきた老婦人が「ここは美しい町ですけど、この霧では何にも見えませんね。残念ですけど」と言いながら通り過ぎた。今回はくっきりと晴れ渡っているから、その心配はない。

 町に入る時に大きな川があり、二度も橋をわたった。コルーシェは川に沿って開けた町なのだ。二つ目の橋を渡ってすぐに右に曲がると大きな駐車場があり、そこにクルマを置いた。

コルーシェの闘牛場

 駐車場の周りは闘牛場の建物と市場があり、そこに来る人たちのための無料の駐車場らしかった。その点、セトウーバルは急に駐車料金を取るようになり、何処に行くにも小銭を用意しておかなければならない。町にでかけるのが鬱陶しい。 

 駐車場を出て道を渡ると右側に長い屋根の付いたところがあり、その中にタクシーが一台とまっていた。タクシーの待機場所のようだ。よそでは見たことのない建物で、猛暑対策だろうか。とにかく陰があったら暑さは凌げる。

 道の陰から陰を選んで、歩いていった。まだ昼前なのに歩いている人は少ない。開いている店も少ない。カフェだけが営業中で、中は人であふれていた。

 以前来た時にお昼を摂ったカフェも営業中だが、まだ昼食には早すぎるし、それに他のレストランもあるはずだからと思って歩く。

 少し行くと見覚えのある広場にでた。市役所の駐車場で、料金はここも無料。次々に車がやってきては帰って行く。まわりにはカフェが2軒。広場の端に大きな木が一本立っていて、ベンチもある。ここで休憩。カンカン照りの広場なのにこの木影はまるでオアシスのように涼しい風が吹いている。

 そこからまた歩き始めた。元繁華街らしかった道にはほとんど店がない。まわりは立派な建物が建っていて、軒下には燕がたくさんの巣をかけている。親鳥が忙しく餌を運ぶ様子が見えるが、ヒナの姿が見えない。

 そこを過ぎると一軒のレストランが目に付いた。メニューを見ると、高級レストランのようなので止めた。やはり以前入ったカフェしかなさそうだ。

 今来た道のひとつ下の道を歩いてそのカフェを目指した。もう混んでいるだろうと心配していたのだが意外と空いていて、一番奥のテーブルに座った。昼のメニューを頼むと、ソッパとチキンのカツ。それにサラダとライスが付け合わせ。女性客がほとんど。近所の事務所勤めの人達だろうか。私たちが会計をするころにはほぼ満席になっていた。

丘の上に経つ教会

 

 いったん車に戻って、丘の上の教会を目指した。教会から町全体が見晴らせる。美しい町だ。川べりで泳いでいる少年たちも見えた。

 二つの橋を渡って街の外に出た。

 アルコシェッテを目指して少しスピードを上げた。途中でラジエーターの過熱を知らせる赤いランプがついてしまった。おかしい!

 つい先日同じ故障で修理工場に持って行って新品のラジエーターに取り換えたばかりなのに。

 危険を知らせる赤ランプの数値がじりじりと上がる。モンティージョに着いた時、目についたガソリンスタンドにとびこんだ。急いで冷却水のふたを開けると、沸騰した水が噴水のようにふきあげてまわりに飛び散った。スタンドに備え付けの水を入れても入れてもどんどん入る。やっと水位があがらなくなったので、どこか修理工場がないかとさがしたが見当たらず、とりあえず家に帰ることにした。

 今日は蒸し暑い一日だったが、最後は熱い熱い日になってしまった。

 

 

ポルトガルのえんと MUZの部屋 エッセイの本棚へ

 


196. 久しぶりのモイタ

2023-06-05 | 風物

この写真はモイタではなく、アゼイタオンの露店市 

 5月半ばにポルトガルに戻ってきたが、意外なことに涼しい。今年1月にポルトガルを出発した時のまま、ベッドには毛布を3枚重ねたままだったが、きっと暑くてたまらないだろうと覚悟していたのに、そのままずっと使っている。1週間前は大雨が降り、夜には激しい雷が轟き、小さなアラレまで窓ガラスにぶつかってきた。ポルトガルテレビのニュースでは、リスボンの近くで道に激しい水の流れができている映像を映していた。

 今日は5月28日。第4日曜日でモイタの露店市がある。天気予報では雨と言っていたが、空を見渡すと真っ黒な雨雲が北の空を覆っている。しかし予報に反して降りそうもないので出かけることにした。迷いはなかった。何しろ久しぶりだし、運動不足解消には露店市歩きが一番だ。行くか行かないかを迷っている場合ではない。でもモイタの天気は急変するので油断はできない。今までも痛い目に遭っている。一応、クルマには傘が積んである。

 モイタの露店市に着いてすぐに昼食をとることにした。でもモイタの露店市は食堂がたった2軒しかない。以前は数軒出ていたのだが、いつの間にか撤退して2軒だけになってしまった。私たちがひいきにしているジョアンの店もなくなって、アゼイタォンとピニャル・ノヴォとコイナの3箇所で営業しているだけ。ファティマの店は完全に止めてしまって何処にも出していない。

 たった2軒の食堂は食事をしようとする人々が詰めかけて、席を確保しようと緊張感が漂っている。食事を終えた人達が立ち上がると早々に次の人が席に着く。競争だ。私たちも空いた席にかけよったが、別の女性に座られてしまった。まるで椅子取りゲームだ。

 ジョアンの店ならジョアンが客の順番を把握していて、要領よく席を確保してくれるがモイタではそういう人が居ない。

 仕方がないので、もう一軒の食堂をのぞくと、なんとテーブル席が2つ空いている。でもどちらも雨除け、陽除けのテントの外にあるので、陽当たりが良すぎる。どうしようかと思ったが、そこに座ってみると、太陽が当たっているが風がひんやりとして、たいして暑くはない。雨は絶対に来ない感じだ。

 ところがテントの端っこの席なのでウェイトレスの目に入らないのかなかなか注文を取りに来てくれない。雨も来ないがウェイトレスも来ない。すぐ前の席には50代のカップルが座っていて、そこに注文を取りにきてようやく私たちに気が付いた。ウェイトレスは「すぐ戻って来るからちょっと待ってね」と言いながら反対側の席に行ってしまった。

 それからそうとう経って、ウェイトレスは両手に料理をかかえて隣の席にやってきて、50代のカップルの前に置いた。皿に大盛りのショコフリートともう一つはこれも山盛りのコジード・ア・ポルトゲーサ。どちらも美味しそうだ。それを見てコジード・ア・ポルトゲーサを久しぶりに食べたくなったので私はそれを注文。ビトシの意思は固く最初からモイタではエントレメアーダのサンドとソッパと決めている様だ。それにノンアルコールビールを2本。

 注文はなかなか取りに来てくれなかったが、料理は間違いなく素早く来た。ウェイトレスは「待たせてごめんね」「ボナプチ」と言って忙しく立ち去った。

 私たちの奥の席にもグループが座った。椅子が一つしかなく、あちこちからかき集めてようやく全員が座れた様だ。私たちと同様、陽射しを気にしてはいない。案外と心地よいのだ。

 そして雨の心配も全くなくなっている。誰も心配はしていないのに。心配性のビトシは「雨が降りだしたらこのテーブル一杯に広げられた料理をどうしよう」などと考えている様だ。そして猛烈な早さで平らげている。4枚ものエントレメアーダが挟まれたパンと山盛りのソッパ。マカロニとうずら豆と屑野菜にくず肉のソッパがみるみるなくなってゆく。一方私のコジード・ア・ポルトゲーサは一向に減らない。食べても食べても減らないのだ。雨は来そうにはないからゆっくり食べればよいようなものなのだが、なかなか減らない。血のチョリソが3つも、それに粉のチョリソ、豚の耳皮、豚の脂肉、訳の分からない肉、肉。ジャガイモとニンジンとポルトガルキャベツ。その野菜にはなかなか自分では出せない味が滲み込んでいる。野菜だけ食べてほぼ満足。残している肉類をビトシが横目で睨んでいる。豚の耳皮はコリコリとして美味しいそうだが、私はどうも手が出ない。コジード・ア・ポルトゲーサもお店によって随分と違う。味はいいけど見栄えが…今回は失敗したかなと思う。ショコフリートにしておけばよかったかな。いや、最初からビトシと同じようにエントレメアーダにしておけばよかった。人生、いつも迷いと後悔の繰り返しだ。

 でもきょうは迷わず出掛けて良かった。掘り出しものは何もなかったが、予報に反して雨にもあわなかった。帰宅して夕方から少しの雨だ。 MUZ

 

 

 

ポルトガルのえんと MUZの部屋 エッセイの本棚へ

 


195. 水不足から一転

2023-01-01 | 風物

 つい最近まで水不足、ダムの底が現れて水没した教会が姿を現した。などと騒いでいたが、それが11月から降り始めた雨が止まず、一転。あれほどからからだったダムがもうあふれるほど満杯。

 もうすぐクリスマスという時期にリスボンのアルカンタラ地区などにテージョ川の水があふれだした。その周辺のオエイラスなども次々に浸水し、1~2メートルもの水が室内に流れこんだ。道路に面した家電製品の店では、商品が水びたし。カフェもレストランも何もかもが泥まみれ。クリスマスのかき入れ時に大変なことになったものだ。

 一方、リスボンから遠く離れたカンポマヨールでも町が土石流に被われ、被害が甚大だ。民家や店内に流れ込んだ大量の泥水をラバーでかきだすのに大忙し。でも水に浸かった家電製品は使えなくなった。大型家電製品やソファーやタンスなども捨てるしかない。道端にはそんなゴミが山のように積み上げられている。

 カンポマヨールは日本からやってきてすぐの頃に行った。そのころはまだローカルバスで旅していた時だ。途中小さな田舎町の広場に運転手はバスを止めた。そしてそこにあった水汲み場に走り寄り湧き水を自分用のペットボトルに詰め、旨そうに飲んだ。乗客を乗せたままである。

 終点カンポマヨールの町に着いたのはもう夕方になっていた。中心にある大きな公園の横にバスは止まった。ちょうど沈みかけた夕陽があたりを真っ赤に染めて感動的だった。カンポマヨールにはその後も何度か出かけたが、いつまでもその最初に到着した時の夕陽のイメージが残っている。

 公園の前にあるレシデンシャル(宿)が目についたので、このレシデンシャルに泊まることにした。入口のドアを開けるとひんやりとした空気で驚いた。クーラーが良く効いているなと一瞬喜んだのだが、その当時は、クーラーなどは都会の町中でもめったに見かけないのにこんな田舎ではあるはずがない。それはクーラーではなく、石造りの建物は内部がひんやりと涼しいのだと気が付いた。日本のように湿気がないので木陰や室内は過ごしやすい。おかげでぐっすりと眠ることができた。

 今回、このレシデンシャルは洪水で被害は無かったのだろうか。

 カンポマヨールはアレンテージョのルドンドで催される紙祭同様、自分たちの手作り紙祭を開催しているが、花をアレンジしたもので素朴な紙祭だ。

 それに対し、ルドンドの紙祭は毎回趣向凝らした企画で見ていて感心する。発想がさすがだ。でも経費がかかりすぎるのか、二年に一度の開催となったのは残念。二年に一度というのは判りにくいので、それまでは毎年その時期になると気をつけていたのだが、いつのまにか行かなくなった。

 ルドンドの紙祭に最後に行った時は、真夏の8月初旬だというのになんと雨が降り始めて、しかも本降りになった。普通ならポルトガルのアレンテージョには8月に雨が降ることは絶対にない。乾季の真っ最中の筈だ。そんなことは初めてで、せっかくの紙祭が雨に濡れて融け始めていた。係員が大慌てで、作品にビニールをかぶせても間に合わない。青い花も赤い衣装もぐったり融けて残念なことになった。

ルドンドの教会前の広場

 

町の通りに飾られた紙細工も濡れて絵の具が溶けだしている

 

 その後、コビット19騒ぎが発生して、私たちはどこにも出掛けない生活が始まった。日本にも帰国できないで引き籠り。

 でも今年はやっと帰国できそうだと期待していたのだが、中国人や韓国人が日本にどっと押し寄せてくるらしいから、日本はまたオミクロンが蔓延しそうだ。

MUZ  2023/01

 

新年あけましておめでとうございます。2023年は良い年になりますように。今年もよろしくお願い申し上げます。

 

ポルトガルのえんと MUZの部屋 エッセイの本棚へ


194. ピニャル・ノヴォの露店市は大賑わい

2022-12-01 | 風物

 露店市で店を出しているのはジプシーがほとんどで、他には少しのインド人たちだ。彼らは一家総出で商売をしている。生まれたての赤ん坊やヨチヨチ歩きの幼児や遊び盛りの子供たち。売り場の通路や空き地で走り回って遊んでいる。

 ピニャル・ノヴォの露店市はとても広い。年々駐車場が広がり、買い物をしている人々も増えている。

 

ワインを仕込んだ後のブドウの搾りかすからアグアデンテ(焼酎)を蒸留する道具

 

 先月、ニュースで買い物客にインタビューしていたが、「このごろ物価が急激に値上がりしたので、スーパーやメルカドは高い。露店市の値段がどこよりも安い」と答えていた。

 次の日曜日はピニャル・ノヴォの露店市なので出かけた。気のせいか走っているクルマがすごく多い。ひょっとしてみんな露店市に行くのだろうか。ずっと手前のロータリーからひどい渋滞が始まった。まさか~、先日のニュースを見た人々がいっせいに露店市に詰めかけているのだろうか。信じられない!

 いつもクルマを停める道路脇の駐車場は空きがない!すごい数のクルマだ。奥まった広い駐車場まで行ってもクルマでびっしり。しかたなく、そのずっと奥まった場所まで行ってようやく空きがあった。そこから先は畑で、道は行き止まり。

 小川を挟んで野菜の苗を売っている露店が見える。昔、細ネギの束が並べてあった。ポルトガルのネギは太いので、使いにくい。目の前にあるのは日本のネギそっくりで、これなら使い易そうだ。さっそく買うことにした。ところがおやじさんはネギの束をむんずと掴んで葉っぱを切り落とそうとした。慌てて停めたら、「何で?」と怪訝な顔。「そこを食べるのよ」というと、おじさんは「これを植えるんだよ」と言う。「なんで?」「タマネギは根っこを畑に植えるんだよ」「タマネギ?」

 ネギだと思ったのはタマネギの苗だったのだ。おじさんの足元には切り取った葉っぱが足の踏み場もないほど散らかっていた。

 

露店市で売られている中国キャベツ(白菜)の苗、12本で1ユーロ

 

 このごろなぜか白菜の苗が売っている。名前は「中国のキャベツ」スーパーでもたまに野菜の棚に並んでいるが、手を伸ばして買っているのはわたしぐらいで、他には見たことがない。ところが、露店市で苗が売っている。ということは苗を買って畑に植える人がいるということ。私的にはどんどん普及してほしい。ついでに大根とゴボウ。

 大根は以前、知り合いが借家の前にある道の花壇に大根の種を蒔いて育てていた。とても狭い花壇なのに、立派な大根ができた。たぶん肥料や消毒を適切にしたのだと思う。

 彼は同じ花壇に糸ウリをまいた。花が咲き、実がついてすくすく育ってもうすぐ収穫ができると楽しみにしていた矢先、実は突然姿を消した。大根には興味はないが、糸ウリは食べられると知っている人が持ち去ったに違いない。糸ウリは糸状の中味をあまく煮て、パイに詰めたお菓子がある。初めて食べた時は、つるつるした中身がなんなのか判らなかったが、それがカボチャのような糸ウリの中味と知って興味深かった。日本では一度も見たことがなかったのだ。

 花売り場は人だかりが凄い。11月に入って雨が毎日の様に降るので、畑や庭の植木を植える人たちが多いのだろう。じぶんより背の高い鉢植えを抱えている男、重そうにしている。車まで運ぶのがひと苦労だ。

 いつものジョアオンの食堂で炭火焼きのエントレメアーダサンドとノンアルコールビールの昼食を済まして、あちこち歩き回った。

 

生きた鶏売り場では珍しいニワトリを眺める親子

 

 歩き疲れたので木の下に作ってあるベンチに腰掛けた。木の周りをぐるりと囲むように作ってある手製のベンチで、高さが一定ではないから座りにくいのだが、仕方がない。しばらくゆっくりしていると、3人のジプシーの子供がやってきた。となりに座って騒いでいたが、その中の一人が突然私の前に立ち、歌い始めた。フラメンコのダンスにあわせて歌うカンタだ。10歳になるかならないかという男の子がどうどうと歌っている。なかなか巧い。あっけにとられて見ていたが、あとで考えたら手拍子をしたらよかったかな~。

©2022/12/01 MUZ

 

ポルトガルのえんと MUZの部屋 エッセイの本棚へ


193. 塩ダラ・バカリヤウ

2022-11-01 | 風物

ノルウェーの国旗をつけた大型帆船。手前の黒い船体は2本マスト大航海時代のカラベラ船(10月20日、我が家のベランダから望遠で撮影)

 

 10月半ば、サド湾に突然3本マストの大型帆船がやってきた 。あれはポルトガルの帆船サグレス号ではないだろうか?しばらくして別の3本マストの大型帆船も姿を現した。これはノルウェーの国旗をなびかせている。遠い北欧の国から海を越えてやってきたのだ。考えたら、はるか昔はバイキングの船がこの辺りまでやってきたし、ポルトガルからも帆船でタラを獲りに北欧の海まででかけていたのだから、驚くこともないか。

 

 今でもポルトガル料理はバカリヤウを使ったものが多い。塩漬けの乾燥したもので、それを水で戻して塩を抜いて調理する。

30年前に買ったセトゥーバルの絵ハガキ

 

 ポルトガルでは昔はわざわざ帆船で荒波を乗り越えてノルウェーまで出かけてタラを獲っていた。その頃の映像が残っているが、帆船から小舟に乗り換えてタラを獲って、ポルトガルの塩田で取れた塩でたっぷり塩漬けをして持ち帰っていた。

 

 私は日本では塩ダラはほとんどなじみがなかったが、そういえば祖母がたまに塩ダラの澄まし汁を作っていた。これは東北生れの祖父のためにつくっていたのだ。当時は子供の口には美味しいとは思わなかった。

 ところがポルトガルに住み始めて、塩ダラ料理が多いので魚好きのわたしは何度か食べるうちに病みつきになってしまった。そして疑問が生まれた。海に囲まれたポルトガルでは獲れる魚の種類が多いはずなのに、どうしてわざわざノルウェーの海までタラを獲りにいくのだろうか?不思議だった。

 数十年前になるが、内陸を旅している時、食堂でメニューを見ると、魚のコーナーには焼き魚などはなく、バカリヤウ料理しか載っていなかったと思う。しかたなくその中から一品を注文することになった。そのうちなかなか美味しいと思うようになり、やがて自分でも見様見まねでつくるようになった。

 そのころは流通システムが整っていなくて、内陸では新鮮な魚は手に入りにくかったのだ。その代わりに塩漬けのタラは前日に塩抜きをしたらいつでも使えるから、食堂にとっては便利だったのだろう。

スーパー『コンチネンテ』のちらし。ノルウエーブランドのバカリヤウと黒太刀魚などの広告。全てキロ単位の価格。二枚貝=1,99€。黒太刀魚=5,99€。クルマエビ=8,99€。バカリヤウが10,79€。高級食材なのが判る。

 このごろスーパーなどでも塩漬けの他に、冷凍したバカリヤウが売っている。それは塩漬けではないからいつものように料理すると、なんだか美味しくない。やはり塩漬けのタラの意味がここにあったのだ。

 たとえば生の椎茸より干した椎茸の方が味が良くなる。それと同じでバカリヤウは塩漬けして干すことによりグルタミンが増えて旨味が増すのだろう。

 昔、ノルウェーを最北端ノード・カップに向かって旅していた時に、家の軒先に大きな魚が干してあるのを何か所でも見かけたものだ。あれがバカリヤウだったのだ。でもノルウェーでは当時バカリヤウ料理は目につかなかった。

©2022/11/01 MUZ

ポルトガルのえんと MUZの部屋 エッセイの本棚へ

 


192. 大根はどこに?

2022-10-01 | 風物

 私は大根が大好き。でもポルトガルではなかなか手に入らない。普通の店では売っていないので、リスボンの中華食品店まで買いに行かなければならない。この頃ガソリンもリスボンに渡る橋の料金も何もかも値上がりしているからリスボンに行くのが億劫になる。私の住んでいるセトゥーバル県には中華雑貨店は雨後の竹の子のように乱立しているが、どこの店も食料品は売っていない。

 秋になるとメルカドに皮が赤い大根がときどき並ぶ。皮が赤いだけで、中身は白大根とほとんど変わらないから、赤大根があったら飛びついて買う。これは皮ごと剣突き(ケンツキ)でおろすとピンク色の刺身のツマができて、きれいだ。でもオデンにしようと、皮をむいて火にかけたらズワーとふやけてぜんぜん美味しくないのでがっかりした。

 もうすぐ秋だ。そろそろオデンが食べたくなる。オデンにはやはり大根が欠かせない。いつも行くスーパーマーケットで、ふと野菜売り場の籠を見ると、ころころと白い野菜が目に付いた。蕪だろうと思ったけれど、蕪のように丸くはなく、少し細長い。値段表にはNABO(蕪)と表示してあるが、あれは蕪ではなさそうだ。15センチほどの短い大根に見える。こんな大根は今まで見たことがなかったが、6本ほど買ってみた。

 皮をむくと、それは蕪ではなく、やはり大根だ。さっそくニンジンと大根の酢の物を作った。そして大根の煮物も作った。15センチの大根の味は全く大根だった。近くのスーパーで大根を売っていると助かる。リスボンの中華食品店までわざわざ行かなくても良い。次の週も大根がまだ売っていたので、また4本買った。ほんとうは籠に入っている大根を全部買い占めたかったけれどそうもいかないので諦めた。ずっと売っていたらいいのにな。

 でも、次の週にはなかった。私の他に買う人はいなかったのだろうか。残念。

 このごろ白菜や椎茸、シメジなどは店の棚に並んでいることが多い。店によっては乾燥ワカメなどもたまに売っているから便利だ。ポルトガルはこのごろ、今までゴミ扱いされていた海藻を食料として見直すブームがひそかにおきているようだ。

セトゥーバルの魚売り場

 

セトゥーバルのメルカドは種類も多い。

 

 先日、久しぶりにメルカドに出かけた。土曜日のメルカドは人が多く、混雑していた。でもよく見ると観光客の団体が詰めかけているようだ。いぜんは地元の買い物客で混雑していたのだが、このごろはほとんどの人が一日中開いているスーパーで買い物をしている。午前中しか営業していないメルカドは買い物に行くのが面倒くさいのだ。そういう私たちもスーパーにばかり行っている。店によっては鮮魚コーナーもあって、種類は少ないがメルカドと同じほど新鮮な魚を売っているし、下処理などもあっというまにしてくれる。メルカドだとキロ単位でしか注文しにくいが、スーパーだとたとえばアジを1キロではなく4尾とか注文しても嫌な顔をされなくてすむ。我が家は二人だけでしかもVITはアジやサバは食べられないし、私は青魚が大好きなので、魚を買う時に困る。青魚の苦手なVITのために小型の鯛を買う。デンテス(歯)という名前の鯛で、その名のとおり、歯がかみつきそうに出っ歯。手の指などは食いちぎれそうな怖い出っ歯。でも塩焼きでも刺身でも美味しい。でもメルカドでは見たことがない。

この店はマグロとカジキマグロが専門。

 

 メルカドではマグロ専門店で巨大なカジキマグロが飾られていた。珍しいから周りに観光客が群がっている。でも彼らはホテルに泊まっているから、魚を買っても料理ができないから眺めるだけ。メルカドは賑わっているが、売り上げは増えないだろう。

 野菜売り場には唐辛子専門店ができていた。観光客らしい数人の女性たちが群がっていた。色とりどりの唐辛子は綺麗に並べられ、その飾り方はフランスの市場にそっくりだ。その隣の八百屋を覗いてみた。ここは時々柿が売っているのでそれとはなく見るのだが、ふと棚の端っこを見ると、長細い大根がどさっと置いてある。しかも葉っぱ付き。正真正銘の大根だ。これは買うしかない。メルカドでは今まで赤大根は売っていたが、こんな日本の大根を売っているのは初めて見た。20本ほどある中から2本を選んだ。

 さっそく葉っぱをベーコンといっしょに炒めて、ニンニク醤油で味付け。そしてニンジンと大根のなます。

 オデンは?

 まずコンニャクを作らないといけない。これが面倒くさいのです

©2022/10/01 MUZ

 

ポルトガルのえんとつ MUZの部屋 エッセイの本棚へ

 


191. モイタの露店市

2022-09-01 | 風物

 モイタの露店市は毎月第4日曜日に開かれる。6月、7月、8月とたて続けに出かけた。

 6月に出かけた時は3年ぶりであった。今までコビット19の影響で人混みのなかに出かけるのは用心していた。でも最近はコビットのニュースは消えてしまった。

 6月下旬にしてはずいぶんと涼しく、上着をきっちりと着ていった。 

金網で覆われた元どぶ川。鴨が5羽泳いでいた。

 

 モイタはガラッと変わっていた。露店市の真ん中を流れるどぶ川といってよいほど淀んでいた川が大工事の真っ最中。川を覆いつくすように茂っていた葦やそのほかの草は全て取り払われ、川の護岸も川底さえもすべて石が敷き詰められて、それを金網で覆いつくしている。

 今まであった仮設テントの食堂も全然見当たらない。食堂があった場所が工事の資材置き場になっている。露天の出店も数が少ない。

護岸工事が終わった場所では鴨の一家がのんびりと泳いでいた。

 

 川にかかった橋を渡ったもう半分の場所には2軒の食堂が営業していた。その内の一軒でちょうど席が空いたのでその店で食事をすることにした。珍しいことにイワシが並べてある。露店市でイワシの炭火焼きをしているのは初めて見た。以前から露店市で なぜイワシの炭火焼きをやらないのかと思っていたが、これはひょっとして、今だけかもしれない。

 

 6月はあちこちで祭りをやっている。なかでも有名なのがリスボンの「サン・アントニオ祭」アルファマ地区で仮設テントを設置して、炭火コンロでもうもうと煙をだしてイワシを焼く。それをパンに乗せて手で摘まみながら地元住民や観光客が食べる。

 同じ様な祭りが北部の町、ポルトでもある。ポルトは「サン・ジョアン祭り」といって、祭りの名前が異なる。町の守護神が異なるのだ。でもポルトもイワシの炭火焼きで盛り上がる。ポルトでは人々がニンニクの花を持って歩き回る。ニンニクから育った1メートルほどの茎に紫色の丸い花が付いていて、それをすれ違う人々のだれかれ構わず相手の頭にそっと触れる。無礼講だ。でもそうされた人は嬉しそうに笑いながら自分も相手の頭めがけてニンニクの花をかざす。魔よけの儀式かもしれない。今ではニンニクに代ってプラスティック製のハンマーが定着している。それですれ違う人のあたまを軽くたたくと、ピコピコと面白い音がでる。ハンマーの名前はそのものずばり「ピコピコ」

 「ピコピコ」がニンニクの花に代わって主流になってしまった。でも魔よけの力はたぶんないだろう。

橋を渡った反対側にあるモイタの露店市食堂

 

 8月の第4日曜日、モイタの露店市の食堂ではイワシの炭火焼きはもうやっていなかった。残念だがしかたがない。代わりにエントレメアーダの炭火焼きを注文した。スカスカパンに豚肉の三枚肉がたっぷりはさんである。それとソッパ。野菜がどっさりと入ったスープである。肉と野菜をたっぷり食べて、ノンアルコールビールで乾いた喉を癒し、デザートはぷわーとふくれたモロトフを注文。いつもはデザートは食べないのだが、カウンターの側にすわっているおばさんたちが注文したのを見て、ついつい頼んでしまった。

 目の前に出されたモロトフは皿からはみ出しそうにでかい。しかも最後の注文だったらしくおまけつき。苦みのきいたエスプレッソと甘いモロトフは美味しいのだ。

 隣の席には老人が一人で座っている。老人の席に運ばれてきた料理は煮込み料理。豚肉の塊とチョリソとビコ豆などとたっぷりの野菜。皿いっぱいにあふれそうに盛られている。年寄り一人で食べるには多すぎる量だが、それは日本人の感覚で、ポルトガル人にとっては何のこともないだろう。足つきのワイングラスに入った赤ワインをウェイターがボトボトこぼしながら運んできた。老人は大声で文句を言いながら、「パンを一切れ持って来てくれ」と言う。運ばれてきた一切れのパンを細かくちぎりながら、老人はビコ豆の煮込みをスプーンでひと口ずつ口に入れる。そうしてゆっくりゆっくり食べながら、しまいには山盛りの料理はすっかりきれいにかたづけられた。

 他の席でも老人が一人で食事をしている。みんな申し合わせたようにビコ豆の煮込み料理だ。どこも奥さんの姿が見当たらないから、一人暮らしの夫たちかもしれない。

 

©2022/09/01 MUZ

 

 

ポルトガルのえんとつ MUZの部屋 エッセイの本棚へ


190. パルメラの山火事

2022-08-01 | 風物

 7月13日、「火事や~」と叫ぶビトシの声が聞こえた。

 「火事はどこや~」

 「こっちやこっち」我が家の北の部屋、アトリエで叫ぶビトシ。

 

我が家のアトリエから撮影。普段は見えるパルメラ城は煙に隠れている。

 

 パルメラの城の下、山の稜線に沿って赤い火の手が見え、次第に勢いを増している。

 城の崖を這い上がっていく。もうすぐ風車小屋のある場所に届きそうだ。あの辺りは風車小屋が4棟あって、その内の3棟に人が住んでいるようだ。たぶん別荘として使っているのだろう。もう一つは元農家で、結構広い家と、ヤギや羊がいるようなちょっとした牧場といってもいい庭がある。そこにも風車小屋があるのだが、誰も住んでいないようだ。

 

2機の水上飛行機がサド湾の水を汲み上げ、山火事の炎を目掛けて大量の水を撒く。

 

水上飛行機がサド湾に胴体着水で水を汲み上げ、我が家の側を通ってパルメラの火災現場に向かい放水。見事だ。それを繰り返し何度も何度も。

 

 火の手は城の方には上がらずに、谷伝いを進んだ。山の稜線にはテレビ塔がふたつ立っている。右手の塔の裏側に火の手は進み、こちら側からはみえなくなった。

 

2基のアンテナ塔の間を炎が立ち昇ってくる

 

 しばらくして、左手のテレビ塔あたりから火の手が見え始め、こちら側の斜面が燃え始めた。山火事は怖い。風に乗って火の粉が撒き散らされ、思わぬところから火が燃え上がる。

 

 TVのニュースでは山火事の中継をやっている。この日は同時多発的に山火事が発生して、北部のボンバルや南部のアルガルベの別荘地など、全国7カ所で火事が起きている。その中でもパルメラの火事が中継でやっている。画面を見てもそれがどこかわからないが、巨大に太った老人が両脇を二人の消防士に抱えられて必死の形相で逃げて来た。その後ろの家は赤茶色に塗られていて、その色に見覚えがある。よく見ると、そこはいつも通る交差点だ。セトゥーバルからパルメラの城の下を通る狭い道で、カーブが多く、対向車が来ると危ない。ある日、前を走っていた乗用車が対向車とぶつかりそうになり、あっという間にサイドミラーをもぎ取られてしまった。前のクルマはすぐに停車したのだが、対向車は知ってか知らずか逃げて行った。それを見てから、私たちはその道を通らないことにした。

 その道がパルメラに行く国道に出た場所がニュースに映っていたのだ。その交差点の手前には赤茶色の家の他に十数軒の家があり、その向かいは春には野の花の咲き乱れる広い空き地になっている。

 

午後からは風向きが変わりあっという間に燃え広がった。

 

 空き地の周りは数件の豪邸が立ち並んでいるが、ニュースの映像では、空き地の草むらに火が入り、枯れ草がさざ波のように燃え広がった。そのあまりの速さに驚愕した。

 

 火事は朝方まで燃え続け、ようやく消えた。ヘリコプターや水上飛行機がサド湾の水を汲み上げ、何度も往復した努力の結果、ようやく山火事は鎮火した。

 

まわりはすっかり燃えてしまったが、豪邸2軒は無事だった。建物のまわりだけ緑が残っている。消防士たちが家だけは燃やせないと頑張った証拠。

 

パルメラの城の周りはすっかり焼けてしまった。

 

 二日後、パルメラに用事で出かけたのだが、火事は思っていたよりも何倍も燃えひろがっていた。パルメラの城をぐるりと取り巻くように、焼け跡が広がっていた。MUZ 2022/08/01

©2022 MUZVIT

 

 

ポルトガルのえんとつ MUZの部屋 エッセイの本棚へ

 


189. セトゥーバルのジャカランダ散歩

2022-07-01 | 風物

 ジャカランダは元々ブラジルの花だそうだが、セトゥーバルにもたくさん植えられている。

カルモ広場のジャカランダ。紫の花の下でエスプレッソを一杯。

 あちこちの道路脇に並木として植えてあるから、クルマで走りながら花の蕾が付いているのを発見するといつ咲くのかと楽しみにしていた。

裁判所前のジャカランダ

 例年なら6月に入ってからと思っていたのだが、今年は随分と早くて5月の中旬には咲き始めていた。我が家の台所の窓から裁判所辺りが徐々に紫色に染まってゆくのが見えた。

ルイサトディ大通り公園のジャカランダとブラジル松

 でも裁判所の辺りよりルイサトディ大通り公園や10月5日通りの方が多く植えられているのだが、我が家からは建物に阻まれてそこは見えない。

10月5日通りのジャカランダ

 何れ時機を見て散歩がてら花見に出かけたいと思っていたのだが、コロナ禍以来、蟄居生活が長く続くと出掛けるのがかえって億劫になり、なかなか腰が上げられずにいた。

クエベド駅裏児童公園のジャカランダ

 それに加えてアフリカから黄砂がやって来て、猛暑になり、町じゅうのクルマが黄色い砂に被われて薄汚くなってしまったのでよけいその気にならなかった。

ジェイム・コルティサォン通りのジャカランダ

 意を決っしてようやく出掛けたのが、6月7日であった。例年なら丁度満開の時の筈なのだが既に見頃は過ぎてしまって、多くの葉を出していた。それでもセトゥーバルのジャカランダを堪能できた。

水道橋公園の若木のジャカランダ

 10月5日通りのジャカランダの下でちょっと休憩をと思って『CANOA』というカフェに入った。入口付近の席でカップルが美味しそうなものを食べていた。時計を見てみると12時半。いつの間にかお昼時なのだ。コーヒーではなく昼食に変更。入口に貼ってあったきょうのメニューを見てみると『ビットーク・デ・ポルコ』と書かれてあった。ビットークにあまり食指は進まないがまあ久しぶりにビットークでも良いかと思って注文した。

熱々の鍋にたっぷりのソース。今までに食べた内で最高の『豚のビットーク』

 やがて出てきた料理は入り口付近でカップルが食べていたものと同じもので、入って来たお客は全員が今日のメニューを注文している。すぐに満席になった。食指が進まないと書いたがこれが大違い。今まで食べたビットークで桁違いの美味しさ。熱々の辛子ヴェルネスソースがたっぷりとかかった、他の店とはひと味違う味だった。

我が家のお向かいのジャカランダ。遠くにパルメラ城(アトリエから撮影)

 そして例年、セトゥーバルで一番遅くまで咲いているのが我が家のお向かいのジャカランダである。7月に入った今日もアトリエの窓から楽しませてくれている。

(ジャカランダの写真は何れも6月7日にセトゥーバルで撮影)

©2022 MUZVIT

 

ポルトガルのえんとつ MUZの部屋 エッセイの本棚へ

 


188. アスファルト工事

2022-06-01 | 風物

アスファルトを敷いた後すぐにローラーで固める。

 

 道路工事はいよいよ最終段階に入ったようだ。

 去年の10月、第一グループがまずきれいに敷き詰めてあった歩道の石畳をすべて取り去って、カラーブロックに取り換えた。予定では一ヶ月ほどで終る筈だったが、えんえんと3か月もかかってしまった。

 次に別のグループが古くなった アスファルトを剥がした。

 今やっているのが三番目の会社。第二のグループが剥がした後にアスファルトを敷く工事。作業員全員がポルトガル人のように見える。でもウクライナ人も混じっているかも知れない。ポルトガル人もウクライナ人も一見、区別がつかない。ウクライナ人は言葉を覚えるのが早く、しかも流ちょうに喋る。今回のウクライナ戦争で難民が各国にやってきた。ポルトガルにもたくさん来たのだが、若い世代が多く、彼らの殆どが英語を喋る。

大型ダンプからアスファルト。

 

 我が家の窓の下で工事をやっている。10人の労働者が働いているが、その中にはセトゥーバルの職員も一人いて、背中にCMS(セトゥーバル市役所)と書いたベストを着ているからすぐにわかる。たぶん監督としてきているのだろうが、ふつう監督としてきている役人は傍らに立っているだけで、何もしない。無駄話をしながら作業をみているだけだ。だが今回の役人は率先して働いている。周りの作業員よりも熱心に身体を動かしている。こういう人も珍しい。

空色のティシャツが隊長、門の正面で黄色いベストを着て棒を持っているのが市役所職員。

 

 この第3班の隊長はしわしわの老人だが、あちこち走り回って、作業員に指示を出している。言葉じゃなくてほとんど手話に近い合図で伝える。重機が轟音を轟かせているから、余程大声を出さないと伝わらないからだろう。ポルトガル人はよくしゃべるが、身体を使った身振り手振りもおどろくほど発達している。

 

 アスファルト工事は道路を平らに削り取り、その後、コールタールを道路全体に吹き付ける。10トントラックで運んできたアスファルトを舗装工事専用重機に移す。アスファルトは熱々の湯気を出しているから、危険だ。重機で賄いきれない隅などは手作業だ。作業員たちは用心深くシャベルですくい取り、道路に撒いていく。みんなで協力しながら隙間なく敷き詰める。そしてローラー重機を走らせ固める。それぞれの役割分担がうまく機能している様だ。

隅などは手作業。

 

 その間もホテルの泊り客たちが次々とやってきて、昨日敷いた片側のアスファルトの上を歩いて通る。彼らのクルマは工事現場のずっと先に駐車してあるらしいから、そこまで荷物を担いで歩かなければならない。小さな子供を二人連れた一家は夫が大きいリュックを担ぎ、妻がおおきなトランクを引きずり、子供二人もそれぞれちいさなリュックをかついで、さらに両手には自分の人形などを下げてよろけながら歩いて行く。みんな緊張した顔で。この工事がなかったら、ホテルの駐車場で荷物の出し入れができただろうに。

 工事は朝8時から夕方5時まで。昼食は13時からだが、工事の進み具合によってもっと遅くなったりする。最初のカラーブロックを敷く会社は親方以外はパキスタン人だったので、親方と主任はどこかに食事に行き、他の3人は弁当持参で陽当たりの良い場所で食事をしていた。彼らは大きめのベニヤ板をまず箒ではわいて、そこに靴を脱いでから上がり、弁当を食べ始めた。靴を脱ぐとはなんとアジア的!

 2番目のアスファルトを剥がす会社はたぶんカフェでみんなで昼食を食べていたのだろう。

 今の会社は作業員が9人もいる。ある日、太った若い作業員が12時過ぎ、一人で資材置き場に帰ってきて、使い古したパネルをツルハシで壊し始めた。かなりこなごなにしてから布に油を湿らせて火を点け、ドラム缶コンロに入れてパネルの木っ端を投げ入れた。賄い係だろう。昼ご飯はバーベキューだ。昔は道路工事の片隅で作業員の一人が火をおこして肉やチキンを焼くのをよく見かけた。このごろ見かけないなと思っていたのだが。

 

 

炭火コンロ、テーブルには置き忘れたサグレスのビール瓶、宴の後。

 

 昼食は大幅に遅れて2時過ぎに作業員たちが集まって来た。総勢9人、すでに焼きあがった肉や鰯をパンにはさんで食べ始めた。

 まるで立ち食いパーティーのように賑やかだ。作業の疲れも吹っ飛んだだろう。

 

真新しいアスファルトにジャカランダの花びら。(写真は全て我が家のベランダから撮影)

 

 いまジャカランダが真っ盛りだ。昨日舗装が出来上がったばかりの真新しいアスファルト道路にジャカランダの紫色の花弁がちりばめられ、黒とムラサキ色のコントラストを奏でている。 MUZ 2022/05/31

 

 

 

ポルトガルのえんとつ MUZの部屋 エッセイの本棚へ