ポルトガルのえんとつブログ

画家の夫と1990年からポルトガルに住み続け、見たり聞いたり感じたことや旅などのエッセイです。

098. モウリスカの潮流水車博物館

2019-01-30 | エッセイ

セトゥーバルの町外れ、湿地帯が広がるモウリスカ地区に小さな博物館がある。
ずっと以前にも、2回ほど訪れたことがある。

この博物館は、とても変っている。
サド湾の潮の満ち引きを利用して水車を動かし、その動力で粉引きをしていた水車小屋だった。
それを再現している。

初めて行った時、そんなことは全然知らなかったのだが、係員の説明で、潮の満ち引きを利用したものだと知った。
風を利用して粉を引く風車はポルトガルのあちこちにあるし、小川に架けられた水車もたまに見かけたが、潮の満ち引きを利用した水車は珍しい。
1600年代に造られたそうだ。
身近にある自然の力を動力として利用する、昔からの知恵である。

水門のこちら側に小さな干潟があり、外側のサド湾とは1メートル以上の段差が付いている。
満ち潮になると、サド湾からその干潟に向ってごうごうと勢いよく水が入ってきて、引き潮になると、こんどは反対に干潟からサド湾の方向に水が出て行く。
その潮の流れの力を利用して水車の歯車を動かす仕組みになっている。

博物館の受付には女性が二人いて、入場料が必要だった。
確か3ユーロだったと思う。
私達以外は入場者はいない。
国道からかなり入り込んだ場所にあるので、めったに訪問者は来ないのだろう。
私達も博物館があるとは知らないで、対岸にあるガンビアに飛来するフラミンゴの群れがひょっとしてこちら側から見えるのではないかと、別な動機でモウリスカに来たのだった。

右側の部屋にはかなり大きな粉引きの装置がずらりと並んでいて、壁際には説明のイラストが張ってある。
床の一部がガラス張りになっていて、中から潮の流れが観察できるようになっていた。
左の部屋には塩田などで使う様々な道具が写真のパネルと共に展示してある。
人のめったに来ない小さな博物館である。




先日、久しぶりにモウリスカを訪れた。
以前に比べて周りの様子が変っている。
干潟の縁には立派な木製の手すりができていて、干潟の中ほどに新しい小屋と、小屋までの木製の歩道が作られている。
干潟に集まる野鳥を観察するバードウォッチングの設備。
以前には何もなかったはずだ。

でも博物館のドアはぴったりと閉まっている。
もう開館時間をとっくに過ぎているのに。
ドアには張り紙もなにもない。

博物館の建物は湿地帯に突き出すように建っている。
その脇は簡単な水路で、素朴な桟橋があり、小型の漁船が数隻舫っている。
その中の白いモーターボートを手入れしている漁師風の男に尋ねたところ、博物館はこのごろはほとんど閉まっているが、たぶん土曜日には開くだろうとのこと。
ポルトガルの不況がこんな所にまっさきに現れる。
ほとんどだれも来ない博物館は、人件費も光熱費も自前では払えないだろうし、管轄しているセトゥーバル市も予算が少なくなっているのだろう。

博物館のドアが開く様子もないので、しかたなくバードウォッチング小屋へぶらぶらと歩いて行った。
粘土質の土手には松の板が敷き詰められ、両脇には塩水を好む様々な草がびっしりと生えている。
3センチほどの濃色の赤とんぼが無数に飛び回り、まだ若々しいカマキリが一匹だけ、草むらにしがみついていた。

突然がやがやと賑やかな声が聞こえてきた。
一台のバンから人が次々と降りてくる。
ほとんどが年配の女性達で、それぞれバケツを持ち、麦わら帽子を被り、長靴をはいているようだ。
十数人もいる。
今、引き潮なので、このあたりで貝を採るのだろうか。

彼女達は桟橋の近くに腰掛けているので、近づいていろいろ尋ねた。
今日はポルトガル語をパーフェクトに喋る友人が一緒なので、ラッキーだ。

彼女達が貝掘りを始める様子がないので、今から何をするのかと尋ねると、ここの船に乗って、他の干潟に行くのだという。
「そこに行って、どんな貝を採るの?」
「貝ではなくて、~だよ」
「~て、何?」
「海のミミズですってよ」と友人が通訳してくれる。
「陸のミミズと同じなの?」
「ナウン、ナウン、とんでもない」
と女性達が笑う。
「イスカ、イスカ」
ここで初めて判った。
釣具屋の店先に「ha isuca」と張り紙があるのをよく見かける。
釣りの餌なのだ。

その時、白いボートの持ち主が、足元の泥の中から何かをつまみ出して石の上に置いた。
石の上でうごめいているのは、ゴカイだ。

彼女達はこれを採りに船に乗って行くのだ。

ボートの親父さんが太い腹を揺すりながら、言った。
「ここで採ったイスカは飛行機でフランスやイタリアに運ぶんだよ」

そうしているうちに、さっきのバンがまたやってきて、さらに10人ほどの女性たちが現れた。
腰掛けていた女性達はそれを待っていたのだ。

 





みんなぞろぞろと船に乗り、瞬く間に細長い船は満員になった。
日本製のモーターエンジンが勢いよくうなり、溜まり水のように細い水路を、外の干潟に向けてそろそろと出て行った。
女性達は総勢20人ほどもいるだろうか。
それぞれバケツをしっかりとかかえて、私達に手を振りながら遠ざかって行く。

帰りにはあのバケツにいっぱいのイスカをぶら下げて船から下りてくることだろう。
そのイスカは飛行機に乗ってフランスやイタリアに運ばれ、
釣りの餌となって地中海の魚に食べられる運命だ。

このひと気のないモウリスカの湿地帯に生まれ育ったイスカたちが遠い地中海で餌となるとは、ちょっと感動的だ。
MUZ
2012/09/28

©2012,Mutsuko Takemoto
本ホームページ内に掲載の記事・画像・アニメ・イラスト・写真などは全てオリジナル作品です。
一切の無断転載はご遠慮下さい
Copyright Editions Ilyfunet,All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.

(この文は2012年10月号『ポルトガルのえんとつ』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルのえんとつ』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載します。)

 

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096. 運転練習は無料教習所で

2019-01-26 | エッセイ

日本にいる頃は私も車の運転をして、一人で町まで行ったりしていた。
しかし、ポルトガルに住んで、クルマを買ったときから、私はハンドルを握ったことがない。
なぜかというと、ポルトガルは日本と反対に、クルマは右側通行。
日本は左側通行だ。
ビトシでさえ、右側を走っていて、右折したとたん左車線に入ろうとして、ギョッとしたことがある
さすがにすぐに右側通行に慣れて、そんな失敗はその時一回だけのことだったが。

運転の上手なビトシでさえそんなことがあったのだから、いつもうっかりミスが多い私のこと、何が起こるか分からない。
突然、高速道路を逆走したりして…

それにポルトガルは坂道が多すぎる。
急な坂道の途中で信号で停まると、必ず後続車がぴたっと付けてくる。
「もうちょっと車間を空けてくれればいいのに…」と心配しても、相手は知らぬ顔で煙草をふかしている。
20年前は見かける車はどれもこれもボロボロ。
ポンコツ車ばかりが走っていた。
ところがこのごろは、ぴかぴかの新車、それも高級車のなんと多いこと。
ベンツ、BMW、アウディ、などはごろごろ。
ポルトガル政府は借金だらけで倒産寸前らしいが、国民は持ってる人は持ってるのだ。

そんな高級車が我が家のシトロエンの後ろにびたっとひっつく。
青信号に変わったとたん、サイドブレーキを引きながら坂道発進。
なにしろ急な坂道なので、一瞬ズリッと後ろに下がって、私はヒヤッとする。

そして横断歩道。
見通しのきかない角を右に曲がったとたん、横断歩道があり、人が渡っているのを発見して、急停車。
これもヒヤッとする。
「こ、怖い!」
ということで、私は20年間運転することなく、ぬくぬくと助手席に座り続けた。

ところがビトシもわたしもシニアと呼ばれる世代になって、周りから心配する声が聞こえてきた。
しょっちゅうクルマで遠出するので、途中で何が起こるか分からない。
その時に私が運転しないといけない事態になった時、どうするの~。

ということで、重い腰を上げて、運転の練習をすることになった。

さてどこで練習するか?
ぶっつけ本番で、路上を走るのは怖いし、と思いついたのが、30分ほど走った所にある広大な分譲地。
もうずいぶん前に開発された場所なのに、何年たっても一軒の家も建っていない。
でも舗装した道路には道路標識も完備して、完璧な練習場だ。
教官はビトシ、教習生はわたし。

足が届かない!
座席を一番前に出して、なんとか届いた。
ロウ、セコ、サード、トップ、
チェンジもさっぱり位置が分からない。
まずロウで発進、次にセコ、
ウィンウィンガタガタいいながらどうにか走り出した。
右側の駐車スペースに赤いクルマが停まっているところへきた。
中には男性がいて、その上にまたがるように女性が見えた。
男がギョッとしたように私達を見た。

「何してるんやろ?」

なんとかひと回りして、ウィンウィンガタガタと運転しながら、また赤い車の前を通り過ぎた。
中の二人はさっきと同じ姿勢。
二人とも若い。
「なにしてるんやろ~」
「あれ、ひょっとして~」
こんな真昼間に、まさか~

三周目にはもう赤いくるまはいなかった。

無料の教習所に数日間かよって、いよいよ坂道発進の練習をすることになった。
分譲地は以前は広大な牧場だったらしくて、ちょっと小高くなったところに、廃墟となった農家の建物がある。
そこへ行く道は小石のごろごろした地道。
でも、坂道発進の練習にうってつけの場所だ。
ちょっとした坂に過ぎないが、坂の途中で止まって坂道発進練習。
サイドブレーキを引いて、戻しながら発進。

我が家は、昔は風車が立っていた小高い丘の上に建つ団地。
だから家に帰るには、急な上り坂、また上り坂の連続。
ひとつの坂を上がると突き当たりの道を右折、するとすぐに横断歩道がある。
たまたま人が渡ってたりすると、急停車、そして坂道発進。
私にとって坂道発進はとても重要だ。

翌日も無料教習所に行って練習した。
廃墟の外れに数年前からなにか工場のような大きな建物ができた。
練習でその前を通るのだが、どうも工場ではなく、幼稚園らしい。
子供達の姿は見たことはないが、3時前になると、それまでほとんど通行する車はなかったのに、ロータリーを曲がって次々に車が入ってきた。
ドライバーは女性ばかり。
子供を迎えに来た母親たちだ。
そして3時過ぎると、こんどは反対方向に次々と帰って行く。
4時ごろには幼稚園の最終スクールバスが掃除の人たちを迎えに来て、送っていく。
ここは交通量のほとんどない、しかし一般道路なのだ。

幼稚園の駐車場は道路わきにあり、しかも白線が引いてあるので、車庫入れの練習にもってこい。
何度か練習しても、なかなかうまくいかない。

廃墟の坂道でも坂道発進を練習。
何度目かに突然ズリズリと奇妙な音が聞こえた。
右後ろのタイヤが少し空気がへっているようだ。
舗装した駐車スペースに移動して、スペアタイヤと取り替えることにした。
でも肝心のジャッキが見当たらない。
今までタイヤの交換などしたことがないので、ジャッキのことなど意識になかったのだ。
どうしよう…
ハッと気がついた。
近くにガソリンスタンドがある、そこで何とかなるかもしれない。

そこは昔からあるガソリンスタンドだが、今まで一度も給油したことがない。
車が2台、給油中で、老人が二人働いていた。
一人は給油中、ここはセルフではなく、店の人がやってくれる。
もう一人の老人はちょうどガレージから出てきたところだ。
ここは修理の設備がある、ラッキー!

その老人にタイヤがパンクしたからスペアタイヤと交換してほしいというと、ちょっと見ただけで、「交換しなくていい、ここに釘がささっている」と言う。
それを引き抜くと、2センチほどのネジ釘がでてきた。
坂道発進の砂利道で踏んだのだ。

ネジ釘を取り出した後、老人は15センチほどのT字型の道具でぐりぐりとタイヤに突っ込み、
それを引き抜いた穴にゴムを短くカットしたものを埋め込んだ。
そのあと空気を入れて、
「これでできた!」
「もうできたの?」
「シンシーン」

タイヤのパンク修理とは、ジャッキを使ってチューブを外して穴ふさぎをするものだとばかり思っていたのに。
こんなに簡単にできてしまうのか~。
知らない間に、タイヤは進化しているのだ。
修理代はたったの5ユーロ。
おかげで家まで帰れる。
「おじさん、ムイトオブリガーダ」

翌日また無料教習所に出かけた。
白い車が停まっていて、中には老人と高校生ほどの若者が乗っている。
私がひと回りしてくると、そのクルマは内側の道路をそろそろと走っていた。
どうやら彼らも運転練習をしているらしい。
先生はおじいさん、生徒は孫。
こんな無料教習所は個人の練習にはうってつけ。

ポルトガルの自動車学校は、日本の様な教習所はなく、すぐに一般道路に出て走る。
「教習中」の看板をクルマに付けて走るから、脇を走るクルマも気をつけながら追い越していく。

私も手書きの「教習中」の看板をクルマに貼り付けて、道路を走りたい~。
なにしろ普通の道路でもみんな90キロ、100キロを出して走っているから、看板なしで、60キロで走っていたら、次々と追い越していくクルマににらまれそうだ。

MUZ
2012/07/28

©2012,Mutsuko Takemoto
本ホームページ内に掲載の記事・画像・アニメ・イラスト・写真などは全てオリジナル作品です。一切の無断転載はご遠慮下さい
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(この文は2012年8月号『ポルトガルのえんとつ』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルのえんとつ』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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095. キンタに泊ろう

2019-01-24 | エッセイ

ポルトガルに戻ってきて、あれこれ溜まっていた雑用をこなしている途中、ハッと気が付けばもう6月。
普通ならもうからからに枯れているはずの空き地や草原だが、今年はかなり涼しいので、まだ野の花が咲いているかもしれない!
急いで行かなくちゃ!
どこへ?
近場の田舎道を走ろう。
日帰りではなく、一泊。
ということで、さっそくネットでホテル探し。
エストレモスの近くの村に良さそうなホテルが見つかった。
写真を見ると、大きな煙突のついた平屋で、アレンテージョの典型的な農家の作りだ。
朝食付きで、二人で40ユーロと安いし、プールもある。
キンタ(大規模農場)を所有する地主が自分の敷地内に作った宿泊施設だ。
このごろこういう施設がどんどん増えている。
今まで、そういう所に泊ったことはないから、興味津々。

ネット予約をして、さっそく出発。
途中でカフェに入ったり、地図を見ながらなるべく交通量の少なそうな田舎道を選んで走った。
草原に広がる野の花畑はもうかなり枯れ果てて、面影しか残っていないが、それでも道端のあちこちに色鮮やかに咲いている花の集団が目に付き、そのたびにクルマを停めてカメラに収める。
ほとんどが今まで見た花だが、初めて発見した花もいくつかあった。
そういう花は目に見えないほど小さくて、ちょっとの風でもゆらゆらゆれるので、ピントがなかなか取れなくて苦労する。
ピント合せに夢中になってやっと撮った写真が、あとで見るとゴミがいっしょに写っていたりで、せっかくの苦労が水の泡になることもある。

その日は一日中花を求めて走り回り、4時ごろホテルのある村に向った。
6月の4時ごろはまだ陽が高い、というか、真夏のようにかんかん照り。
ネットに載っていたホテルの地図を頼りに村のメインストリートを走ったが、それらしきホテルは見当たらず、あっという間に村を出てしまった。
もう一度引き返してクルマを停め、通りがかりの人に尋ねたら、「国道を横切って真っ直ぐに行ったら、サン・ペドロ教会があるから、そのあたりだと思うよ」
教えてもらったとおりに行くと、小さな礼拝堂があった。
でもそれはとっくの昔に廃墟となった建物だ。
その後ろには人家があるが、最近建ったばかりの個人の別荘のようで、門はぴったり閉まり、人の気配はない。
表札もなく、ホテルらしき看板も何もない。
どうも様子が違う。
その近くに二軒の農家民宿の看板があったので、そこで尋ねようと思って行ってみたが、二軒とも門が閉まり、応答がない。
目指すホテルに電話をかけたが、「使われていません」というメッセージ。
困り果ててしまった。
予約当日なので、もうキャンセルはできないし、ホテルと連絡は取れないし~。

とにかくもう一度村に戻って、カフェにでも入ろう。
カフェで尋ねたら誰か知っているかもしれない。
ガソリンスタンド併用のカフェで尋ねたら、店主も知らないという。
こんな小さな村で誰もそのホテルを知らない~ということは、もう絶望的だ。

その時、店にいた男のお客が、「俺が知っているから、案内するよ。俺のクルマについておいでよ」と声をかけてくれた。
天の助け!
でも彼はビールを飲んでいたけど~。
飲酒運転でだいじょうぶだろうか。

男のクルマは、村を抜け、国道を渡り、やがてさっきのカペラの廃墟の後ろに建っている別荘風の門の前に停まった。
「ここ?」
「シン、シーン、ここだよ」
でもホテルの看板も何もない!

その時、門の壁の内側から女性がぬ~っと顔を出し、
「お泊りのお客様ですか?それだったらこの入り口ではなく、カペラのところを曲がってもう一つの門から入ってください」と言った。
「そんな案内板はなかったよ~」と、言いかけたが、ぐっとがまん。
カフェから連れてきてくれた男はクルマを引き返して、廃墟のカペラの所でわざわざ停まり、
「ここを曲がるのだよ」と示してくれた。
親切な男だ。
「オブリガーダ~」とお礼を言って別れた。

それにしてもなんと不親切なホテルだろう。
門にはホテルの名前もなく、入り口の矢印もなにもない!
もし予約をしていなかったら、もしキャンセル料を取られないのだったら、さっさと他のホテルを探すのに。

裏門から入ると、宿の経営者らしい中年の男が、「よくいらっしゃいました」と、握手を求めてきた。
そのとたん、私の喉にひっかかっていたものが一気に飛び出した。
「ここの門の前を何度も通ったのに、ホテルの名前も何も書いてないから分からなかった。
おまけに電話を掛けても通じないし~」
私はとうとう爆発したのだ。
経営者の男は「ええ~、そんな~。じょうだんでしょう」と、たじたじ。
”冗談じゃないよ、まったく~”
私は怒りが収まらない。

いかにも人の良さそうな、金持ちのぼんぼんが、趣味で、今流行の農家ホテルを始めたような感じだ。
しかもネットの予約も受け取っていない。
私たちは部屋を予約してあって、当日でキャンセルもできないので、必死でホテルを探し回っていたというのに~。

私達の予約した紙を見せると、部屋は三つしかなく、すでに二組は入っていて、最後の部屋しか無いという。
案内された部屋は、モダンなシステムキッチンがあり、ひとそろいの鍋や食器がある。
小さなデジタルTVとソファ、そしてアレンテージョ特有の大きな煙突が大きな口を開いていた。
本来なら煙突の下にあるはずのカマドも暖炉もなく、がら~んとした使い道のない空間が広がっている。
風呂付を予約したのに、シャワーしか付いていない。

部屋の前にはプールがあり、泊り客らしい男女が寝椅子に座っている。
でも風が強く、パラソルが倒れそう。
プールで泳ぐどころではない。
敷地内には農家風の平屋がもう一棟あり、3人の職人達が働いていた。
もう仕事を終わる時間なのに、止める様子がない。
突貫工事で仕上げを急いでいるらしい。

夕食後にシャワーを浴びようとすると、お湯が全然出ない!
プール脇でパラソルをたたんでいたぼんぼん経営者に言うと、彼はのけぞった。
彼は部屋に入って蛇口をひねり、戸棚に収納してある大きなボイラーをいじったり、庭にある井戸小屋を調べたりしていたが、いっこうにらちがあかない。
とうとうボイラーの納入業者を呼ぶことになった。

30分ほどして、業者がやってきて、あれこれ1時間以上も修理して、やっとボイラーに火がついて、私達がシャワーを浴びたのはもう夜も10時を過ぎていた。

このホテルはネットでお客を募集するのが早すぎたのだ。
受け入れ態勢がちゃんとできていないのを知らずにやって来たお客は大変な目に遭う。
門前までやって来たお客に対して、せめて宿の名前を書いた張り紙を門に貼り付けてあったら、
私達もすぐに分かっただろうに。

たぶんホテルの看板はデザイナーに頼んで、かっこいい看板ができあがるのを待って取り付けるつもりなのだろう。
でもそれでは、ネットを見てやってきたお客は、宿がどこか分からずにぐるぐる尋ねまわり、不快な思いをするはずだ。

やはり旅の宿は、接客、設備が整った、プロが経営するホテルが居心地が良い。

数日後、ネットのホテル紹介業者からいつものようにアンケートが届いた。
ふつうなら10点満点で、9点以上付けるのだが、今回は回答を送らなかった。
何も文句を言いたくないし、あのぼんぼん経営者も彼なりに一生懸命やっていることだろうし、
ただ、素人の悲しさ、やることなすこと、歯車が会っていないのだ。
いまのところ~。

MUZ
2012/06/28

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(この文は2012年7月号『ポルトガルのえんとつ』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルのえんとつ』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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094. アルコシェッテの穴場食堂

2019-01-23 | エッセイ

アルコシェッテにはフリーポートというアウトレットモールがある。
塩田の中にある日突然出現した町。
この時期、ポルトガル中で冬のバーゲンをやっているが、この人工の町でも始まった。
ここは一つの屋内ではなく、町並みになっていて、店から店へは青空の下、太陽の光を浴びながら歩き回れるので、気持ちが良い。
天気の良い日に、たまに訪れる。
歩き回って疲れたら、レストランのテラスに座って、昼食を取る。
でもあまり気に入った味の店がないので、たいていはドイツソーセージの店に入ることが多い。
それもこのごろちょっとあきてきたな~
どこか新規の店がないかな~
ふと思い出した。
ちょっと気になる店があったのだ。

フリーポートの入り口にロータリーがある。
そこの脇の空き地にトラックがたくさん止まっている。
いつも不思議に思いながら、横目で見て、素通りしていたのだが、思い切って探検に行ってみた。

空き地の一角に小さな店があって、そこがトラック野郎たちの食堂だろうと思っていたが、人の出入りはほとんどない。
昼時なのに、しかもトラックがずらりと駐車しているのに、何だか変だ。
私の見当違いだったのだろうか?
やっぱり、今日もドイツソーセージしかないかな…と諦めた時、ビトシが叫んだ。
「どうもあっちの方、違うかな?人が出入りしてるで」
トラックの陰に隠れて、はっきりは見えないが、たしかに駐車している車は多いし、トラック野郎たちがぶらぶら歩いている。

そっちに行ってみると、たしかに店らしい建物があり、中には食事中のお客の影も見える。
建物は道路より少し低い所にあるので、階段を数段降りた。
小さなドアしかなくて戸惑ったが、常連らしい男が、「ここが店の入り口だよ」と教えてくれた。
普通の民家の入り口のドアのように小さく、食堂の入り口のような開放感はない。

中に入ると、すでにお客がいっぱいで、空席は手前に少しあるだけ。
店の右側にバーとキッチン、客室の奥に炭火焼のカマドがあり、さかんに焼いている。
黒板には「本日のメニュー」で、フランゴ(チキン)と豚肉の炭火焼だけと、品数は少ない。
店は親父さんとおかみさん、娘が給仕をし、息子が炭火焼の係り、家族だけで忙しそうに店を走り回っている。
次々にお客が入ってきて、席に案内するのは、親爺さんの役。
顔なじみのトラック野郎や商用車の連中で、食事中の先客と挨拶を交わしている。
ここはこの近くの国道を毎日の様に走るドライバーのたまり場のようだ。

フランゴと豚肉のコステレットの炭火焼を注文。
生ビールとノンアルコールビールをオリーヴの塩漬けをつまみながら飲む。
他の人たちはヴィーニョやビールを飲みながら食事。
食事が終わったら、すぐにクルマの運転をするはずなのに、まるで水代わりに飲んでいる。

昔、ポルトガルに住みつく前に、数年ほど、ローカルバスを乗り継いで、一ヶ月間ポルトガルを旅していた。
長距離で乗ることが多かったので、途中でバスが昼食のためレストランに立ち寄っていた。
バスの運転手も乗客もその店で食事を取る。
そんな時、運転手はヴィーニョをぐいぐい飲みながら食事をしていた。
それも1リッター入りのビンを大半飲みほす。
そのころは食事にはヴィーニョを飲むのが当たり前だった時代だ。
私たちはその様子を見てしまって、飲酒運転のバスドライバーに対してかなり不安だった。
でもその後も安全に運転を続け、私たちはいつも無事に目的地にたどり着いた。

このごろはポルトガルでも飲酒運転撲滅のため、取締りが厳しくなっている。
レストランでもノンアルコールビールを飲む人が目立つようになった。
でもノンアルコールビールは普通のビールよりも値段が少し高いのは、何故だろう?
いつも不思議に思う。

トラック野郎の食堂は50人以上ものお客が食事をしている。
それなのにわりと静かだ。
お客は男ばかり、女性は私一人だけ。
と思っていたら、女性連れのお客が2組、続けて入ってきた。
一組はトラック運転手とその彼女かひょっとして奥さんかもしれない。
もう一組は、私達のテーブルの隣に座ったのだが、食事を終えて帰りかけたトラック運転手が数人、このカップルに挨拶をしていたところを見ると、関連会社の総務課長と事務員(たぶん愛人)といった感じだ。

やがて私達の目の前に料理が運ばれてきた。
ふっくら焼けたフランゴと豚肉、サラダとバタータフリット(ポテト・フライ)。
炭火焼なのでやはり美味しい。
しかも安い!

人工の町、アウトレットモールのすぐそばに穴場食堂があった~。

MUZ
2012/01/26

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(この文は2012年2月号『ポルトガルのえんとつ』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルのえんとつ』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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093. モンサラスのおじさんアカペラ合唱団

2019-01-22 | エッセイ

エヴォラからローカルバスに乗ってレゲンゴス・デ・モンサラスに着いた時は、もう日が暮れてあたりは真っ暗だった。
もう20年ほど前のことだが、はっきりと思い出す。

町外れのバス停からぼんやりと見える街灯を目指して通りに出たけれど、歩く人の姿はなく、その晩に泊る宿のあてもない私達は心細い気持ちだった。
まさかこんなに早く日が暮れるとは思わなかった。

とにかく町の中心に行けば宿があるはずだと、街灯の下を歩いていると、突然男性の太い歌声がどこかの家から聞こえてきた。
それも一人や二人ではなく、数人以上の歌声だった。
力強く、のびのびとした歌声、まるで日本の「木やり節」にそっくりだ。
楽器の伴奏はいっさいなく、完全にアカペラ。
低く太い声に、高くかすれた声がかぶさって、なんともいいハーモニーだ。
どこかの家で集まって練習をしているのだろう。
「木やり節」によく似たアカペラの歌声を聞いて、少し元気が出てきた。

中心の広場に出て、2軒のペンションの門をたたいて部屋をたずねたが、満室だと断わられてしまった。
まだ夕方6時なのに満室とは、田舎の宿は部屋も少ないのだろう。
しかたなくカフェに入り、店の人にどこか宿はないかと相談した。
店主や常連客たちががやがやと意見を言っていたが、そのうち、
「ここから10キロほど行ったところにモンサラスという村がある。そこには宿が数軒あるから、たぶん部屋があるだろう」
モンサラス村と言うのは初めて聞く名前だったが、常連客の一人がタクシーの運転手で、そこに乗せていくという。

タクシーは暗闇の中を猛スピードで走り、しばらくすると「あれがモンサラスだ」と前方を指差した。
山の上にポツリポツリと灯りが滲んで見える。
やがてタクシーは急坂を上り始めた。

上に行くほどあたりは濃い霧ですっぽりと覆われて、その中に突然、大きな石の門が現れた。
タクシーが門の中に入ると白く塗られた家が肩を寄せ合うように立ち並んでいる。
そのうちの一軒の家の前で停まり、運転手が家に入って行った。
どきどきしながら待っていると、「駄目だった。でももう一軒別の宿に行ってみよう」と言って、数メートル離れた家でたずねてくれたところ、ようやくここで空室が見つかった。
私達もほっとしたが、運転手も自分のことのように喜んで、それから帰って行った。
あとで判ったのだが、その宿は昔は村のお代官様の住まいだったらしい。
居間の壁には古い壁画が残っている。

それ以後、モンサラス村には時々行くが、いつもその宿ばかり泊っている。

そして、あの時耳にした歌声がずっと気になっていたのだが、数年前にようやくめぐり合った。

日本では12月24日がイヴで25日がクリスマス、その2日間とされているが、ポルトガルでは12月初旬から1月6日までクリスマスが続く。

数年前の1月6日、クリスマスの最後の日、レゲンゴス・デ・モンサラスの公会堂で、彼らのコンサートを見ることができたのだ。
「グルーポ・コーラル・デ・モンサラス」というのがおじさんコーラスの名前だった。

彼らのCDも手に入り、歌詞の内容もだいだい分かった。

スペインとの国境まで10キロほどしかないモンサラス村。
山の頂上にあるこの村はもともと国境を警備する軍隊の住む村だった。
お城の城壁をぐるりとひとまわりすると、下界が360度見晴らせる。
そこに立つと、グァディアナ川の水面や小さな丘の連なり、草を食む羊たちの群れ、春には一面にさまざまな草花が咲き乱れる風景。
兵士達はそこに住み着き、子孫たちは先祖代々の思いや、故郷の美しさを歌にする。
最初にきた時に、見晴台に座っていた老人が言った。
「この村は103人住んでいるんだよ」

20年経った今でも、村の人口はほとんど変らないかも知れない。
でも、まわりの景色は大変化をとげたのだ。
グァディアナ川にはダムができて、モンサラスの下界は一面の湖になった。
小山の頂上はポカリポカリと湖から頭を出して、小さな島々になり、
野山だったところが湖になり、そこに川舟が浮いている。
モンサラスは昔よりいっそう風景が良くなった。

 



ダム湖の日の出と雲海

12月3日におじさんアカペラ合唱団のコンサートがあるという。
しかもモンサラスの教会の前で。
夕方5時からだというから、日帰りでは無理だ。
いつもの宿に久しぶりに泊ることにした。

昼前に着いたので、グァディアナ川に架かる長い橋を渡って、モゥラオンで昼食を取ることにした。
ここはスペインとの国境まで4キロしかない。
街路樹にはオレンジの木が植えられ、小粒のオレンジがたわわに実っている。
この町でお昼を楽しんでから、またダム湖の橋を渡ってモンサラスに戻った。
村の通りには、クリスマスにちなんだ張り子の人形やラクダなどの像があちこちに置いてある。
角を曲がるとそうした張り子が井戸で水を汲んでいたり、馬車を引いていたりで、道行く観光客の間に溶け込んでいる。

おじさんコーラスは夕方5時から始まるから、村をひとまわりして、教会の前に行った。
宿の世話をしているセニョーラは、私達がコーラスを見に行くと言ったら、「私の夫もそのコーラスのメンバーなのよ」と、ちょっと誇らしげだった。

黒いソフト帽を被り、アレンテージョの黒マントをすっぽりと羽織った男達がぞろぞろと集まっている。
黒マントは足首まであり、肩には二重の覆いがあり、アレンテージョの冬の寒さを防ぐ。
アレンテージョの男達の正装だ。
ノーベル文学賞を受賞したポルトガルの故ジョゼ・サラマゴ氏もアレンテージョの出身で、マントを羽織って、ほこらしげに受賞式に出たことを、思い出す。

夕陽がだんだん傾き、教会の扉が閉まり、あたりはかなり薄暗くなった。
教会の尖塔の空に半月が輝き始めたころ、おじさんグループは教会の階段に並んで、唄い始めた。
公会堂で見るよりも、野外で、しかも教会をバックに重厚なおじさんコーラスを聞けるのは素晴らしい。

月と教会をバックに唄い始めた

周りには観光客が20人ほどしかいない。
これはツーリスモ(観光局)の怠慢で、宣伝不足だ。
私が電話で問い合わせても、局員はだれも詳しいことは知らなかった。
ホームページを閲覧しても、すでに終わった行事しか載っていない。
最後の手段で、モンサラスのいつもの宿に電話をして、ようやく判った。
モンサラスに到着しても、コーラスのことを知らせる看板は全然なし。
薄暗くなって、帰りかけた観光客たちが、黒マントのおじさん集団を見かけて、「何ごとが始まるの?」と尋ねて、やっと知った。
そういう人たちが20人ほど回りに立っているのだ。
せっかくのクリスマスコンサートが、少ない観客しかいないのはもったいない。

教会の前で10曲余り歌ったあと、おじさんたちはお城に向って歩き始めた。
周りの観客も後をついて移動。
お城の入り口の手前にキリスト誕生の場面が張りぼての人形や馬で作ってあり、
頭上の城壁には流れ星をかたどった大きなイルミネーションが飾られている。
その前でおじさんたちは整列して、また数曲歌った。

 

お城に輝く流れ星

その後、おじさん達はぞろぞろと歩き始めたので、私達もついていったのだが、教会の前を通り過ぎ、私達の宿の前も通り過ぎて、バルとレストランをかねた店にみんなが入っていった。
打ち上げの一杯を呑むのだろう。
まだ夕食の時間には早いので、私達は宿に引き揚げた。
それが失敗だった!

1時間ほど部屋でゆっくりしてから、その店に夕食を食べに行くと、奥の部屋は扉で仕切られて、そこからおじさんたちの力強い歌声が聞こえてきた。
1時間前から食事をしながら、みんなで歌っていた様子だ。
あの時一緒に店に入って、バルでワインでも呑んでいたら~。
おじさんコーラスをたっぷり楽しめたのに~。

MUZ
2011/12/13

グループ・コーラル・デ・モンサラスの歌声を下記クリックで見られます。
http://www.youtube.com/watch?v=KqkWooqM3_Y

 

©2011,Mutsuko Takemoto
本ホームページ内に掲載の記事・画像・アニメ・イラスト・写真などは全てオリジナル作品です。
一切の無断転載はご遠慮下さい
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(この文は2013年1月号『ポルトガルのえんとつ』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルのえんとつ』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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092. セトゥーバルのメルカドは新装開店

2019-01-21 | エッセイ

セトゥーバルのメルカドが改装工事を始めたのが、一年前だった。
その間、メルカドの小売人たちはどこへ行ったかというと、メルカドの後ろに昔からあった巨大な廃墟に移った。
その建物は昔のオイルサーディン工場跡だろうと思う。

セトゥーバルの昔の写真集を見ると、イワシの缶詰工場が港のあたりにたくさん立ち並んでいた。
私達がこの町に住み始めた1990年ごろは、そういう工場の廃墟があちこちに残っていたけれど、だんだん景気が良くなってくると、廃墟は取り壊されて、その跡に新築マンションが次々と建ち並んで、風景が一変してしまった。

でもメルカドの後ろだけは工場跡がそのまま利用されて、ヨットやクルマなどの貸しガレージとなっていたのだ。
そこにメルカド全体が移ったのだが、数軒あったカフェやバルは中に入りきれなくて、入り口のあたりにコンテナを並べて、営業していた。
以前は屋内にあったけれど、今度はコンテナの店が狭いので、外にパラソルと椅子を出して、戸外でビールやコーヒーを飲めるし、なんといっても大きな顔をして煙草の煙を吹かせるのが良いらしく、どの店も繁盛していた。
カフェといえども、店内では禁煙なので、愛煙家はメルカドの外に出て吸わなければならなかったのだ。

常設店以外にも、午前中だけ出店する八百屋なども屋内に入りきれなくて、外の通りにトンネルの様な長い仮設テントを作って、その中で店を開いていた。

常設店の入っている屋内は、きちんと設備されて、だいたい元のような店の並びになっていたが、それでもなじみの店がどこに行ったのか、最初は戸惑った。

私達のなじみの魚屋はデオドラ夫婦の店。
二人とも小柄で、顔つきもどことなく似ている。
魚の種類は少ないが、値段は安くて、しかも新しい。
キンメダイを食べたくなると、この店に買いに来る。
デオドラ夫婦の魚屋は仮設のメルカドでもちゃんと営業していた。

10月に日本から帰ってきて、久しぶりにメルカドに行ったら、仮設のメルカドは取り壊されて、元の場所に新装開店していた。
一ヶ月ほど留守をすると、劇的に変化する。

入り口付近はエレベーターの取り付け工事中なので、少しごたごたしているが、今までなかったエレベーターが出来るとはびっくり。
たった二階建てなのに~。

新装開店したメルカドは、元からあったピンクの大理石造りの売り台は撤去され、灰色の大理石造りの売り台に、いっせいに変わっていた。
長年使い古されたピンクの大理石はどこに捨てられたのだろう。
もったいない!

真ん中の通りには、あっとおどろくギガンテ(巨人)が4体も立っている。
それぞれ、魚屋、肉屋、花屋、鳥肉屋などなどを現わすギガンテ。
高さが3メートルほどもあり、買い物客がぶつかりそうになる。

 



にわとりやアヒルの入った籠を頭に乗せたギガンテ

ところで新装なったメルカドには数回行った。
でもなじみのカニ屋の親父の顔はいつも見るが、デオドラ夫婦の店は見当たらない。
魚屋の売り台も数軒ほど空いている。
ひょっとしてデオドラ夫婦の店はもう辞めてしまったのかもしれない~。

新装開店したメルカドは、どの店もデジタル仕様の計りを使い始めた。
たぶん出店の費用も以前に比べてかさむことだろう。
メルカドで店を出しているのは老人が多い。

それにこのごろ大型スーパーの魚売り場ではメルカドに負けないほどの質の良い魚を売り始め、値段もかなり安いから、お客がどんどん増えている。
朝10時から夜の10時まで営業しているから、共稼ぎの家庭では買い物がしやすい。

それにひきかえ、メルカドは昔に比べたらずいぶんお客の数が減ったような気がする。
朝8時ごろから昼の1時までしか開いていないので、魚などを買う場合、午前中に出かけないといけない。

以前は、土曜日などは、活気がみなぎり大混雑していたのに、このごろはそんなでもない。
カニ屋の店は土曜日となると、黒山の人だかりで賑わっていたのに~。

長い雨模様の日々が続きうんざりしていたのだが、久しぶりに快晴になり、メルカドに行った。
海の荒れも収まって、そろそろサバかキンメダイの生きの良いのが並んでいるかもしれない。

メルカドに一歩足を入れると、魚屋の売り台は土曜日のせいか、売り台は活気があふれていた。
貝売りの店には、アサリやマテ貝、それにコンキーリャ貝まで山積み。
コンキーリャ貝はアルガルベの特産だが、このごろセトゥーバルのメルカドでも見かけるようになった。

 



デオドラ夫婦の店

思わず買いそうになったが、でも今日はキンメダイが目的。
デオドラ夫婦の店はやっぱり出てないかな~と探したら、いたいた!
マグロ屋の右隣に出ていた。
そして生きの良いキンメダイが並んでいる。
しかも他の店よりかなり安い。
そのキンメダイの横に太くて長い魚が10尾ほど目に付いた。
よく見ると、サヨリ(アグリャ)だ。
サヨリの骨は透明なブルーで、ガラス細工のようにきれいだ。

今まで見たこともない大きなサヨリ。
太さが5センチほど、長さが60センチほど。
隣のお客も2尾買った。
私達もキンメダイとサヨリを注文した。
2尾で8ユーロ弱、安い!

 



大きなサヨリ

デオドラ夫婦はデジタルの計りをもたもたしながら使っている。
こうして、老人達も新式の道具を使いこなしていくのだ。

メルカドも新装開店したことだし、
大型スーパーに対抗して頑張ってほしい。
MUZ
2011/11/27

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(この文は2011年12月号『ポルトガルのえんとつ』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルのえんとつ』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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091. アルブフェイラの10月 

2019-01-20 | エッセイ

もう10月も半ばだというのに、毎日30度の晴れ日が続く。
町を行き交う人々はノースリーブや短パンなど、まったく真夏の服装。
この夏は8月末から日本に帰国したので、まだ一度も海に行ってないのを思い出した。

ちょうどタイミングよく、南のアルガルベ地方、アルブフェイラのリゾートホテルからさかんにお誘いが届いている。
三ツ星、四つ星ホテルが、50%、すごいところになると、70%も値引きしている。
イギリスやドイツやフランスなどからの観光客が押し寄せるバカンスシーズンも終り、リゾートホテルは空き部屋が多くなっている時期だ。

晴天続きだし、値段も安いし、人は少ないし、これは行くしかない!
さっそく時速120キロの猛スピードでクルマを飛ばした。

2時間半でアルブフェイラの入り口に到着。
ちょうどお昼どき。
ちょっと足をのばして、スペイン国境へ向ってA22号線を突き進む。
この高速道路は無料だ。
でもポルトガルの財政悪化で、今まで無料だったあちこちの高速道路がもうすぐ有料になるという。
A22号線も、料金所の取り付け工事が始まっている。

今回泊るアルブフェイラの街は完全に観光客に迎合して、軒並み立ち並ぶレストランは、ろくなものがない。
イギリスの代表的な食べ物フィッシュ&チップス、日本の代表的な食べ物なのになぜか中国人経営の冷凍寿司屋などなど。
去年、ポルトガル料理カタプラーナ鍋を注文したら、外人客の好きなサーモンだらけのまずい鍋。
本来のカタプラーナ鍋とはかけ離れたもので、がっかりしたものだ。

そんなわけでお昼ごはんはアルブフェイラは無視して、40キロ離れたオリャオンで。
この街も外人観光客が多いのに、ほとんどのレストランが基本的な普通のポルトガル料理、それもシーフードが多い。
夏には貝祭が開かれ、赤貝によく似たベルビガオンやアサリなどを求めて、ポルトガル人が各地から押し寄せる。
町が干潟や小島に囲まれているために、貝の種類が豊富で、たくさん取れるのだろう。
貝の養殖場もあるらしい。

横丁に入ると、なんとなく良さそうな店があった。
道端にある席に座ると、店主がパラソルを動かして、日陰を作ってくれた。
この店はマリスケイラ、つまりシーフードが専門。
メニューを見ると値段も安い。

さっそく、リンゲラオ(マテ貝)のリゾット、これは煮込むのに時間がかかるので、ビールのつまみに小さな貝コンキーリャのオリーブ炒めとオストラ(生牡蠣)。
コンキーリャはサクラ貝によく似た2センチほどの小さな貝だが、ほのかな甘味があって美味しい。
たっぷりのオリーブ油とバターとニンニクとコリアンダーで炒めてあるので、
「この炒めた油にパンを浸したらすごく美味しい、パンを持ってこようか?」と店主がしきりに勧める。

 



夢中で半分程たべてしまったコンキーリャ

ふつうは黙っていてもパンは目の前に出されるのだが、この店は注文しないと持ってこない。
でももうすぐ鍋いっぱいのアロース・デ・リンゲラオが出来上がるから、ここでパンを食べたら大変だ。
店主は「美味しいのだがな~」ととても残念そう。

しばらくして運ばれてきたアロース・デ・リンゲラオは、中鍋にどっさり。
リンゲラオと米が半々ではないかと思えるくらいたっぷり入っている。

 





セトゥーバルのメルカドでもリンゲラオは売っているが、家で塩水を何度も取り替えて砂抜きしても、しつこく砂が残り、じゃりじゃりするから、最近は買わなくなった。
ところがこの店で食べると、ぜんぜん砂がない。
手間ひまかけて砂の入ったところを取り除いているのか、それとも養殖だろうか?
この店の味と値段と店主の素朴さに魅かれた。
またぜひ来たい店。

夕食は軽く済ませるつもりで、茹でた蟹やエビを売っている店で大きな蟹を買って、ホテルへ。
今回のホテルは泊るのは初めて。
通された部屋はシックな色合いで統一され、掃除も行き届き、冷蔵庫と電気ポットが付いている。
大きなプールに面して広いベランダがあり、木立の間からプールを見ながら、
蟹とシャンペンを片手に、太陽が沈むのを楽しんだ。

翌朝早くから、プールの掃除をやっている。
長い棒の先に付いた水中掃除機を操って、プールの底や壁を丁寧になぞっていく。
それが終わると、イギリス人の男の子と女の子がプールで遊び始めた。
小学校低学年の兄と妹のようだ。
しばらくして、彼らの両親が赤ん坊を抱いてやってきて、プール際の寝椅子に陣取った。
彼らの他には、プールを利用する人は今のところ誰もいないようだ。
やはりシーズンオフのメリットだ。

 





私達はホテルから400メートルほどのビーチへ歩いて行った。
日よけテントのある寝椅子を借りて一日中、海を眺めてごろ寝と決めた。
周りはイギリス人が多い。
8歳ぐらいの女の子を連れた母親と30歳ぐらいの男。
女の子が男を「ピーター」と呼んでいたから、父親ではなく、母親のボーイフレンドだろう。
母親は着くなり、寝椅子に寝転んで動かない。
男と女の子はさっそく波打ち際に走り、波を怖がる女の子をじょうずになだめて二人で波遊び。

 





前方の寝椅子には日よけテントはないので、強い日差しがガンガン照りつける。
引き締まった身体をした50代の女性が身体を焼いている。
トップレスで足を広げ、仰向けで、もうすでに黒いのにさらにこんがり焼きたいのだろう。
そこにぶよぶよと太った60代の男が隣の寝椅子に座った。
買ってきた水を女性に差し出しているから、連れ合いだろうけど、寝椅子と寝椅子の間はまるで他人のように離れている。
二人は話もせず、時々自分の携帯で、遠く離れた誰かとメールのやりとり。
でもたまに、相手の身体に日焼け止めクリームを塗りあいしている。
二人の唯一の接触点だ。

ひとつ離れた席にイギリス人の若い女性達が4人でやってきて、急に周りが華やいだ雰囲気。
4人とも身体が真っ白。まだ来たばかりなのだ。
最初に海に浸かってから、あとは寝椅子に寝転び、本を読んでいる。

少し離れた海の中では、ずいぶん前から男が二人、胸のあたりまでの深さのところに立ち、波のうねりに上手に跳ね上がりながら、片手にビール瓶を持っている。
海に浸かって身体をゆらゆらさせながらビールを飲んでいるのだ。
呑み終わると岸にあがり、新しいビールを持ってまた海に入って~と繰り返している。
波にゆらゆら、ビールでふらふらと、ずいぶん楽しそうだ。
こういう飲み方もあるのだね~。

翌朝も快晴。
ホテルのプールは今朝も掃除が終り、きれいな水がどんどん入れ替わっている。
プールサイドの寝椅子で日光浴、そして泳ぐ。
向こうの端では太った女性がばっしゃ―んと大波を立てて飛び込んだ。
これは大変!大波をかぶってしまう。
昨日の海では、やっと大決心して入ったとたん、大波に巻かれて海の底を転がされてしまったのだ。

10月半ばのアルガルベはまったく真夏だった。
ところがその10日後、突然ポルトガル全体が急変した。
帰国するイギリス人でごった返す、アルガルベの空港、ファーロ空港は嵐に見舞われ、竜巻で屋根を大きく潰されてしまった。
今日26日になっても、ファーロ空港は閉鎖状態。
そして、ポルトガルの中央に位置するセラ・デ・エストレラ山にはなんと雪がかなり降り積もった。
真夏から一転して真冬である。
MUZ
2011/10/26

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090. 過疎の村

2019-01-19 | エッセイ

少数の高齢者だけが残された僻地の村のことを、限界集落というらしい。
この言葉は私の子供のころは聞いたことがない。
最近の現象を言い表す言葉だろうと思う。

若い世代がみんな下界に降り、都会に住み着いたまま戻って来ない。
残された老人達は助け合って村を守ってきたが、それも体力気力が衰えて、村としての組織を維持できなくなる。
限界集落。
集団移住で村ごと一緒に下界の町に下りていく。

それでも、生まれ故郷の家を捨てることができなくて、だれもいなくなった村でひっそりと生きている人々もいる。

ずっと以前にNHKのドキュメンタリーで見た、印象に残る話。
一組の高齢者夫婦は四国の石鎚山の山中に生活している方で、もう一組は雪深い東北の山中に住む御夫婦。
どちらも回りに誰もいなくなって、たった二人きりで助け合いながら生きている。
足腰が弱って動きがままならなくなっても、畑で作物を作り、冬を凌ぐために漬物などの保存食料をたくさん加工し、危ない屋根の雪下ろしも夫婦でなんとかやってしまう。
二人以外に誰もいないから、どうしようもなく、ゆっくりゆっくりと助け合って解決していく。

先日、ポルトガルのテレビでもにたような内容のドキュメンタリーをやっていた。
北部のスペインとの国境に近いトラス・オス・モンテス地方。
山深く点在する過疎の村々を取材する番組だった。

そこにもやはり壊滅的になった村の中でたった二人で生きている老夫婦がいる。
その家の周りは空き家になり廃墟になってしまった家が立ち並んでいるが、今はもうどこも空っぽ。
誰も住まなくなった家は崩壊が早い。
屋根は落ち、棟木は腐り、石積みの壁だけが残り、内部は草がぼうぼうと生い茂っている。
老人はそんな廃墟を指して、
「この家には7人の家族が住んでいたんだが、みんな居なくなっちまった」
「わしとこも、子供達はフランスやカナダに行っちまって、帰ってこねえ~」
と、寂しそうに笑う。
老人は山の斜面を耕して作物を植え、数頭の牛を狭い斜面に放牧し、夕方になると牛たちに声をかける。
「もう家に帰るぞ~」
すると牛たちは草を食べるのを止めて、老人の顔を眺め、そそくさと家に向う。
老人は牛たちに話しかけながら、石で組み立てた牛小屋に入れて、戸を閉める。
老人の一日はこうして終り、老妻の作ったマメの煮込みとどっしりパンと赤ワインの夕食を、妻と二人でひっそりと楽しむ。

ある日、老人はやっと明るくなりかけた山道を一人で降りて行った。
たぶん1時間ほども歩いたのだろう。
下の村にたどり着いた。
そしてがっちりと鍵のかかった大きな門をたたくと、しばらくして中から声が聞こえ、門がギギーと開き、中から中年の男が眠そうな顔で姿を現わした。
門の中に入ると、そこはまだ開店していないカフェの中庭で、タクシーが一台止まっていた。
カフェの主人がタクシーの運転手も兼ねているのだ。
老人を乗せたタクシーは隣町に行き、老人は昼過ぎに、買い物袋を下げて家に帰ってきた。
庭先の木陰に座って、犬に話しかけながらジャガイモの皮をむいていた老妻は、夫の姿を見ると、犬と一緒に駆けつけて、木戸口を開けた。
ちょっとうれしそうな顔。

村の少し小高い場所に、壊れかけた小さなカペラ(礼拝堂)がある。
石壁や屋根の一部が落ちて、かなり危険そうだ。
下の村から二人の男とショベルカーが上ってきた。
一人は屋根の瓦を一枚ずつ剥がし、もう一人はカペラの小さな鐘を外した。
村人達がいたころは、毎日その鐘の音に合わせて一日を過ごしていたに違いない。
でも村人はいなくなり、今は老人と妻が二人残っているだけだ。

カペラが取り壊されるというので、村からずっと離れた所に住んでいる別の老夫婦もやってきた。
小さな夫と背の高い妻、でも彼女は足が悪く、杖をついている。
彼らも羊を放牧しながら、二人だけで暮らしている。

二組の老夫婦が見守る中、カペラは長い歴史を閉じ、姿を消した。
そのあと二組の老夫婦は、老人宅で、ソッパとチョリソとパンで昼食会、
もちろん自家製の赤ワインはたっぷり。
久しぶりのささやかなパーティが終わると、二組の夫婦はお別れ。
村はずれまで4人でゆっくりと歩き、名残惜しそうに帰っていった。

日本とポルトガル、
山あいの小さな村は限界集落を超えて、少しづつ消えていく~。

MUZ
2011/08/25

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089. トマールのタブレイロ祭り

2019-01-16 | エッセイ

トマールのタブレイロ祭りは4年ごとに一度開かれる。
ちょうど今年、2011年7月の第二週がそれにあたり、7月10日の日曜日がハイライトらしいので行ってみた。
なにしろ4年に一度しか見られないお祭りだから、全国から人々が押し寄せる。
自家用車やバス、列車などでトマールを目指す。
リスボンのサンタアポローニャ駅から臨時列車まで出るらしいから、すごい人出になりそうだと覚悟して出かけた。

トマールの丘の上に建つキリスト修道院は14世紀のディニス王の妃、聖イザベルによって創設され、
貧しい人々にパンやワインや肉などを配り、救済した。
これが祭りになり、白いロングドレスに赤や青や黄色の飾り紐を締めた若い女性たちが、頭の上に等身大のタブレイロ(盛り皿)を乗せて街中を練り歩く。
タブレイロには数本の串に刺された30個ほどのパンが花やリボンや色紙などで飾られて、その重さは30キロにもなるという。
それを頭の上に乗せて街中を練り歩く祭りだが、女性にとってはかなりの重労働、一種の苦行だ。
女性の脇には男性が寄り添い、タブレイロを持ち上げて女性の頭に乗せたり、重みに耐えかねてふらつく女性を支えたりする。

 

飾り紐とタブレイロとネクタイが同じ色

 

タブレイロは等身大

私たちは朝9時に家を出て、11時過ぎにトマールまであと6キロという所まで来て、すごい渋滞に引っかかった。
それからのろのろ運転で、1時間ほどもかかってようやくトマールの町外れに入った。
そのあたりから両側にはクルマが駐車し、人々が町に向ってぞろぞろと歩いて行く。
この様子ではクルマを停める場所があるのだろうか、と不安になったが、わき道に入って、どうにか一台分のスペースを確保できた。

いったいこの場所が町のどの辺りになるのか、ぜんぜん判らない。
でもとにかく人の流れに乗って歩いた。

昼時なので、道路わきのちょっとしたスペースで、家族連れが家から持ってきたおかずを広げて食事をしている。
どの家族も本格的だ。
鍋に入った煮物、タッパーに入ったサラダやハムや揚げ物などご馳走が並び、デザートも家で焼いた大きなケーキがまるごとテーブルに並んでいる。
すぐ脇をぞろぞろ通る人のことなどぜんぜん気にせず、ピクニック気分で、楽しんでいる。

15分ほど歩いて、ようやく町の中心に近づいた。
家々の窓からはそれぞれ赤い布をたらし、ベランダには色紙で作った花飾りが付けられ、祭りを祝福している。
レストランやカフェはどの店もすごい人だかり。
店の外まで行列ができているので、並んでまで入る気がしない。

 

丘の上に見えるキリスト修道院

 

数時間も前から場所取り

 

橋を渡って旧市街に入ると、どの道も花飾りで覆われ、家の壁にはパンと造花で作られたタブレイロスの飾りが付けられている。
日陰に椅子を出して座っている老人たち、祭りは夕方4時半から始まるというのに、もう場所取りをしている。

開演までまだ時間がたっぷりあるし、通りがかりのパン屋でフィアンブレ(ハム)がどっさり入ったサンドウィッチと水を買って、キリスト修道院に上った。
ところがこれがすごい山道、石がごろごろ、うっかりすると足を取られて転んでしまう。
そんな道でも、老人たちが足早に私たちを追い越して行く。
ようやく門にたどり着き、木陰のベンチに座ってお昼にした。
さわやかな涼しい風が吹きぬけ、どこからかハーヴの良い香りが漂って、気持ちがいい。

修道院をゆっくり観た後、町に下りた。
もうそろそろ始まる時間だ。
市庁舎のあるレプブリカ広場から行列は出発するのだが、広場の周りはすでに人の海。
潜り込む隙間もなさそう!
しかたがないので、市庁舎の裏にある展望台に上がった。
ここもぞくぞくと人が詰め掛けてくる。
手すりから見えるのは両側の建物の間からかろうじて見える広場の片隅だけ。
いよいよ行列が行進を始めたが、後ろ姿が小さく見えるだけで、どうしようもないので移動した。

 

広場から出発。高台から望遠で

 

年配の女性たちは慣れた行進

橋のあたりはものすごい人だったが、その人垣の頭越しにタブレイロの行列が進んでいるのが見えた。
見えたといっても、タブレイロのてっぺんの飾りが動くのが見えるだけ。
橋の欄干には子供や大人までよじ登って行列を見ている。
わずかな隙間があり、そこに若い女性がよじ登ろうとして、連れの若い男が彼女を押し上げようと何度もやったけど無理。
結局、男が彼女を肩車していた。男はつらいのだ。

旧市街よりも大通りのある新市街の方が身近で見られるかもしれないと、そっちに移動。
道端に出したカフェに座ってビールを飲み終わったころ、公園のかどから行列のタブレイロが見えた。
急いで駆けつけたが、そこも人の垣根。
押し合いへし合いして人の流れに乗り、どうにか隙間を見つけて前に出られた。
ところが行列はそこで止ってしまい、休憩の様子。
お陰でじっくりとタブレイロの飾りや女性や男性たちの服装など写真に写せた。
タブレイロは蔓で編んだかごに立てた4本の棒にそれぞれ6個ずつパンが刺してあり、
それを生花や手作りの造花などで飾ったもの。
同じように見えるが、それぞれ飾りつけが異なっている。

 

タブレイロ飾りは女性の等身大

 

休憩が終わって出発

行列の参加者にはサンドウィッチと飲み物が配られ、参加者の友達や親兄弟が走り寄り、娘や息子たちと嬉しそうに話したり、記念撮影をしている。
トマールの良家の子女たちなのだ。

30分ほどの休憩が終り、再び出発。
このときが介添え役の男性の出番。
30キロもある重いタブレイロを地面から持ち上げて、彼女の頭の上に乗せるのはタイミングがいる。
ちょっと狂うと、彼女はバランスを失ってフラフラ。
行進が始まってもまだゆらゆらして、介添え役の男性が脇を必死で支えたりしている。
若い小柄な女性など歯を食いしばって歩いているのを見ると、気の毒だ。
何度も出場してずいぶん慣れた様子の女性も多い。
そういう人はリズムを取りながら、観客の中に知人を見つけて挨拶をするほど余裕がある。
若いカップルだけかと思っていたら、年季の入った中年カップルや老人カップルもいて、重いタブレイロを頭に担ぐ妻をいたわるように寄り添う夫の姿が感動的だ。
両側で見ている観客は出場者たちに拍手して讃える。

 

観衆と一緒に拍手をしながら行進

 

花飾りを付けられた牛


行列の最後に2頭の牛に引かれた牛車が2台登場。
顔をカラフルな造花で飾られたベージュの牛と牛車の荷台には小さな女の子、続く牛車には小さな男の子がちょこんと座り、これがタブレイロ祭りの行列の最後を締めた。
MUZ
2011/07/27

©2011,Mutsuko Takemoto
本ホームページ内に掲載の記事・画像・アニメ・イラスト・写真などは全てオリジナル作品です。
一切の無断転載はご遠慮下さい
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(この文は2011年8月号『ポルトガルのえんとつ』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルのえんとつ』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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088. フンダオのセレージャ祭り

2019-01-15 | エッセイ

6月に入るとメルカドの売り場には黒くつやつやとしたセレージャ(さくらんぼ)が山のように積み上げられる。
日本でも同じものがスーパーに顔を出す。アメリカ産のブラックチェリーだ。
でもポルトガルのはアメリカ産ではなく、れっきとした国産である。
しかし私の住んでいるセトゥーバルの周辺ではセレージャの木は見たことがないし、いったいどこで栽培しているのか、ずっと不思議に思っていたのだが、二年前にセラ・デ・エストレラに行った時、麓にあるフンダオの近くで、山道の両側に赤い実がたわわに実ったセレージャの木をたくさん見かけた。
そのときはフンダオに泊ったのだが、セレージャ祭りは終わった直後で、残念な思いをした。

今年もまたセラ・デ・エストレラに行くことになり、その途中、フンダオに寄ってみた。
でも町の中心にはセレージャ祭りの看板はあるのに、それをたどって行っても、街なかをぐるぐる回ってしまい、いったいどこでやっているのか分からなくなった。
直前になって看板が見あたらないのだ。
ポルトガルではよくあることだが、いつも振り回される。
今度も見失って立ち往生。

ちょうどいい具合にカフェから出てきたおじさんに、声をかけて尋ねたところ、「僕のクルマのあとをついてきなさい」とフランス語をまじえながら言う。
フランスから帰省してきたらしいが、親切な人に出会って良かった。
そのクルマの後をついて走ると、町の外に出てしまい、さっき私たちが入ってきた同じ道をぐんぐん戻っている。
しばらく走ると右に折れる道があり、おじさんはその道を行けと手で合図をしている。

その曲がり角には「セレージャ祭りはこちら」という看板が立っていた。
それは街から来た車に対して表示した看板で、町の外から入ってくる車には見えないのだった。
これでは誰もわからない。
常に後ろを振り向いて、反対車線に立つ、過ぎ去った看板を確認しないとわからない~。

おじさんにお礼の合図をして、その道に入った。
やがて右側に大きな倉庫が二棟見え、空き地にはクルマが数台止まって、セレージャの箱入りを抱えた人たちが倉庫の中から出てくる。
ここがセレージャ祭りの場所だろうか?
それにしてはあっさりしすぎだ~。
近くの人に尋ねると、「ここは売っているだけ。祭りはもっとずっと登っていったところよ」という。

細い道をさらに上を目指して進むと、やがてひどい渋滞にはまってしまった。
先のほうでは乗用車や観光バスがにわか仕立ての駐車場に入ろうと方向転換に四苦八苦しているし、駐車場から出ようとする車はバスに行く手を阻まれて立ち往生。

道の両側はセレージャ畑だ。
木にかけた長いはしごに登ってひとつずつセレージャを摘んでいる畑もある。
これだけたくさんの人が詰め掛けているのだから、いくら摘んでも間に合わないだろう。

やっと渋滞が解消して、のろのろと進み始めた。
でも広大な仮設の駐車場はもうすでに数百台のクルマが停まっていて、交通整理の警官の指示で右に行ったり左に行ったり。
迂回路を回って駐車場に入り、運の良いことに空きスペースを一箇所見つけて、クルマを停めることができた。
観光バスが次々にやってきて、中から人々がぞくぞくとはきだされる。

 

たわわに実ったセレージャ

 

セレージャはひと箱5ユーロ

 

村の道は上に向って歩く人々でごった返している。
石垣の上からはたわわに実をつけたセレージャの枝が歩く人々の頭上に垂れ下がっている。
村の家々の軒先はセレージャの箱がうずたかく積み上げられ、路上に出したテーブルにはセレージャのリキュールやお菓子などが並んでいる。
なにもかもセレージャだ。
テーブルクロスの柄も家の窓に張られた飾りもセレージャ模様。
道の頭上にはセレージャ模様の旗や提灯飾りが下がっている。

 

 

 

 

溶かしたチョコレートにセレージャをどぶんと浸けて売っているが、どんな味だろうか?
私の肩をつんつんと突いて、「セレージャの香水を買わないか」と勧める男。

 

 

軒先に台を出して、草で帽子やカゴを編んでいる老人の前は人だかり。
先日のニュースで、カバコシルバ大統領夫妻がこの祭りにやってきて、この老人の草で編んだクッションを買っていた。

 

 

 

村の一番大きな通りには湧き水が蛇口からほとばしり、人々が我先にペットボトルに水を汲んでいる。
セラ・ド・エストレラからの湧き水が広い裾野まで満たしている。

村の中心にある古い小さな教会の前で、昔の民族衣装に身を包んだ村人たちの合唱が始まった。
手に手に楽器を持った老若男女が声を張り上げ、民謡を歌う。
内容は良く判らないが、宗教的なものだろう。
黒い衣装の老女が前に進み、帽子に入った飴玉を子どもたちに配っている。
照明設備がしてあるから、夜遅くまで何度も唄い、祭りも盛り上がることだろう。

 

 

 

 

子供たちに飴を配る老人

 

 

私たちは今夜泊るコビリャンの街を目指して出発した。
セレージャの箱入りを買い、五日間の旅の間、楽しむつもり。
摘み立てのセレージャはぷりっとはじけて、甘い味が広がった。
MUZ 2011/06/27

 

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(この文は2011年7月号『ポルトガルのえんとつ』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルのえんとつ』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

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087. モンシック温泉

2019-01-15 | エッセイ

久しぶりにカルダス・デ・モンシックを訪れた。
カルダス・デ・モンシックはモンシック温泉という意味。
と言っても、湯煙の上らない、冷泉である。
ポルトガルにはカルダスと名前の付いた村や町はあちこちにあるが、日本の様に湯煙の上がるところは見たことがない。
アソーレス諸島にはあるが、本土には活火山がないからだ。

でも温泉の成分はちゃんとあるので、そういう場所には温泉病院があり、医者の処方箋をもらった患者が滞在して治療を受ける。

カルダス・デ・モンシックにも小規模な温泉病院があり、患者のための宿泊設備もある。
そしてもう一軒、旅行者のための宿もあった。
「アルベルガリアR」
個人経営のこじんまりしたホテル、それでも部屋数は20室ほどもあったと思う。
今回もそこに泊ってもいいかな~と思っていたのだが、行ってみてびっくりした。
閉鎖していたのだ。

入り口の様子から、もうだいぶ以前に営業を止めてしまった感じだ。
惜しい、残念!

 





このホテルには今までに数回泊まったことがある。
趣味の良い家具調度品が飾られ、いつも泊っていた二階の部屋には広いベランダが付いていて、熱帯植物の植わったジャングルの様な裏庭を見下ろせる。
突然、ラッパのような鳴き声が聞こえたかと思うと、極彩色の孔雀がベランダに舞い降りてきたこともあった。
ホテルで数匹の孔雀を飼っていたのだ。

部屋にはモンシックのミネラルウォーターがテーブルに置いてあり、無料だった。
バスタブは普通のホテルと変らなかったが、風呂に入ると肌がすべすべになった。
庭の一部にプールがあり、宿泊者がシーズン中は日が暮れるまで泳いでいた。
谷間に当る夕日はこのプールに最後まで残る。
プールの水も温泉成分を含んでいるので、当然、肌に良い。
最初の時はプールがあるとは知らなかったのだが、宿のご主人が、「プールでぜひ泳ぎなさい。肌がすべすべになるよ」と勧めてくれた。
でも水着を持っていかなかったので残念な思いをした。
次からは水着持参で、私たちも何度か楽しんだ。

ホテルには小さなレストランがあり、なかなか味が良かった。
中でも気に入っていたのが、「カルデラーダ・デ・マリスコス」
エビや貝、そしてここのは小ぶりのラゴスタ(イセエビ)が入っていて、豪華だった。
他の料理も美味しかったので、このホテルには腕の良い料理人のおばさんがいたのだと思う。
ポルトガルの、中、小レストランではたいていの場合、料理をするのは女性たちで、表で給仕をするのは男性だ。
安くて美味いレストランには腕の良いおばさん達がいて、ポルトガルの家庭料理を食べられる。

泊った翌日は、湧き水の場所まで上り、ペットボトルに温泉水を汲んで、帰宅してから秘密のものを加えて、私の化粧水を作って、愛用していた。

モンシックにも、ミネラルウォーターを作っている工場があり、温水プールやマッサージ設備の整った高級ホテルもできた。
アルベルガリアRも景気が良いらしく、隣の敷地に新しい棟を増築し始めた。

ところがそのあと、カルダス・デ・モンシックは土石流に襲われて、谷間にある温泉病院は押し流されてしまった。
人的な被害はなかったそうだが、そのニュースの後、一度泊ったが、アルベルガリアRはなんの被害もなさそうだった。

今回、久しぶりに訪れたが、谷間にある数軒のレストランは閉鎖中、土産物屋も開店休業、シーズンオフとはいえ、なんとなくひっそり。
観光客もぱらぱら。

それでも、アルベルガリアRのプールの入り口には、日本のやぶ椿が真っ赤な花をいっぱいに咲かせていて、そこだけが活気があった。

アルベルガリアRも春になれば、ひょっとして営業再開するかもしれない~。
そうなればいいな~と期待を込めて。
ポルティマオンからも広い道路が整備されているし、リスボンからアルガルベ間の高速道路や国道に通じる、今までなかった新しい道路も完成していたし、モンシックは今から発展しそうな感じだから。
MUZ  2011/02/25

 

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086. クァルテイラの魚売り

2019-01-14 | エッセイ

南のアルガルベ地方は、ポルトガルの代表的なリゾート地だ。

大型ホテルやレストランが立ち並び、ゴルフ場や別荘ばかりが目に付く。
クァルテイラもそんな中のひとつだが、地図を見るとこの町はリゾートマンションだけではなく、ビーチ沿いに漁村がありそうな気がした。

スペイン系のゴルフリゾートマンション村を通り過ぎてセントロの方に進むと、思ったとおり、古びた庶民の町並みに出た。
突き当たりはもう海。
右手の空き地になにやら人だかりがしている。
露店市にしては人も少ないしテント張りの屋台も見えない。
こんな人だかりを見つけたら、私の野次馬根性がむくむく頭をもたげる。
ちょうど運よく駐車スペースが見つかったので、そこにクルマを停め、道路を渡り、人だかりのしている所へ急いで行った。

人だかりはいくつもの場所に分かれている。
その真ん中には漁師がいた。
ちょっとしたビニールシートの上に、バケツから取り出した魚を並べている。
たった今、自分で釣ってきた魚を売っているようだ。

漁師によって並べている魚はちょっとずつ違う。
小型のエイやぺスカド(たら)、別の漁師は鯛とかサバ、舌平目、アジやモンゴイカ、それに赤い縞模様の鯛などを並べている。
この赤い縞鯛はセトゥーバルのメルカドでは見たことがなく、ここで初めて目にした。
熱帯魚のようにきれいだ。
私がさっそく魚の写真を撮ったら、すかさず、「魚ひと盛り5ユーロだよ。写真を撮っても5ユーロだ~」と漁師が笑いながら大声で言う。
「え~!」と私が叫ぶと、周りから爆笑が起った。

 





他の立ち売りでも獲ったばかりの生き生きした魚を並べている。
ほとんどがひと盛り5ユーロと安い。
買いたいなと思ったが、セトゥーバルまでクルマで4時間、帰り着くのは暗くなってからだ。
それからこの魚をさばくのはちょっと体力と気合がいるので、諦めた。

ところで、漁師がこれだけたくさんいるのはこの近くに漁港があるはず。
どこだろう?
古い倉庫が並んでいる路地裏から漁師風の男が出て来た。
そして別の漁師風の男がその路地に入っていく。
何かがありそうな予感!
私たちもその人の後に続いていった。

路地の突き当りの崖下に漁港が開けている。
でも金網が張り巡らされて、漁港に下りる道がない。
金網に沿って奥に歩いて行くと、漁港に下りる通りに出たので、その道に入ろうとすると、警備員に呼び止められた。
「どこに行くのですか?」
「そこの港に写真を撮りに~」
「関係者以外はだめですよ」と、断わられた。
こんなことは初めてだけど、考えたら、アルガルベ地方の沿岸はスペインやモロッコなどからの麻薬の密輸がひんぱんにある場所。そのせいで警戒が厳重なのかもしれない。

港見学は諦めて、海岸に行くことにした。
レストランやカフェが立ち並ぶ。
その間に古びた建物があり、人々が出入りしている。
この町のメルカドがこんな所にあった。
建物の外壁には、路上で店を出していた昔のメルカドの様子がアズレージョで描いてあって、興味深い。

 





このアズレージョの中の馬車の後ろにある建物、今もメルカドとして使っているのだ。

中に入ると意外なほど狭く、薄暗い。
魚屋が7~8軒ほど店を出しているだけだが、どの店の売り台にもいろんな魚がどっさり乗っていて、活気がある。
ピンと尾を張った、取れたての魚たち。
びっくりするような大きな鯛や巨大なイセエビ。
さっき立ち売りで見た赤い縞模様の鯛もある。
立ち売りの縞鯛よりずっと大きい。
思わず買いたくなったが、必死で諦めた。

 





アルガルベのビーチは断崖絶壁が迫っている。
海も急に深くなっているから波も荒く、泳ぐにはちょっと危険な感じがする。
去年の9月に行ったアルブフェイラのビーチでは、波打ち際を歩いていた観光客の老婦人があっという間に波にさらわれた。
周りの人がすぐに助けて、持っていたバッグなども波間から回収して、事なきを得た。
私は波が荒くて怖いので、とうとう一度も海の中に入らなかったが、ビトシは海の中で立っていて、危うく足を取られてねんざしそうになった。
それだけ波が荒いのだ。
だからどのホテルも大きなプールを備えている。

でも深い海がすぐ近くにあるから魚の種類も多く、鯛やカニやイセエビなども豊富に獲れる、良い魚場なのだ。
MUZ 2011/01/25

 

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085. トマールで竜巻 

2019-01-13 | エッセイ

このごろはどこもここも異常気象だらけだ。
地球温暖化会議が紛糾し、その熱を冷ますかのように、ヨーロッパは100年ぶりとかの寒波に襲われている。

パリは12月の初め、大雪が降り、モンマルトルの丘にそびえるサクレクール寺院から下に降りる急な階段を、若者がスキーで滑降しているニュースを見てびっくりした。
まるでハリー・ポッターさながらファンタジー映画の1シーンを観ている様な映像だった。

日本でも寒波。
その前には新潟や秋田などで竜巻が発生した。
数年前には宮崎の延岡市で竜巻が発生、街中を縦断して大きな被害が出た。
私は宮崎で生まれ育ったが、
小さな竜巻の子供が落ち葉をくるくる舞い上げているのはしょっちゅう目にして面白がっていたものだ。
でも竜巻で大きな被害が出たという記憶はなかった。
竜巻はアメリカで起きるものだとばかり思っていたのだが。

12月の半ば、ポルトガルのトマールで竜巻の被害が出た。
公園の大木は根こそぎ倒れ、街路樹は幹の途中から引きちぎられ、電柱は引き倒され、民家の屋根は剥ぎとられていた。
幸い、人的被害はなかったが、物的被害はすごい。
一瞬の強風が残した爪あとは莫大なものだ。
竜巻は地震と同じで、突然始まって一瞬に破壊してしまう。

クリスマスが近づくと、ポルトガルのテレビでは毎年決まったように「オズの魔法使い」を放映していた。
ジュディ・ガーランドの少女時代の代表作、1939年製作のカラー映画だ。
物語は、アメリカカンザスで少女が大きな竜巻に巻き込まれ、オズの国に運ばれていくことから始まる。
途中で脳のない案山子、心のないブリキの木こり、臆病なライオンと出会い、それぞれの願いを叶えるため、助け合いながらオズの魔法使いに会いに行く。
ファンタジーな内容で、この映画の予告が始まると、「またクリスマスだ」と感じるのだった。
でも去年あたりからさすがに古過ぎるのか放映しなくなり、現代の日常生活を描いたクリスマス映画にとって代られた。

ところが今年は、実際に強烈な竜巻がトマールを襲ったのだ。

トマールは14世紀、エンリケ航海皇子が率いるキリスト騎士団の本拠地として栄えた。
街の中をナバオン川がゆっくりと流れる、水の都という印象だ。

私たちがトマールを訪れたのは、まだポルトガルに住みつく前のこと、日本からリュックを担いで一ヶ月間ポルトガルを旅した時だ。

バスで着いて、ペンサオンを探して歩いたが、どこにも見当たらず、日も暮れそうだし、どうしようかと不安だった。
通りを歩いている人もまばらだったが、正面から来るやけに目立つ男が目に留まった。
がっしりした体格の若い男で、肩を怒らせて歩いてくる。
靴は派手な彫りの入ったカウボーイブーツ。
でも見かけによらず、気の良さそうな感じもする。

思い切って尋ねてみた。
「このあたりにペンサオンがありますか?」
男はちょっと考えていたが、心当たりを思い出したらしく、
「よし、案内してやるよ」と歩き出した。

私たちが道を尋ねた場所は町外れだったらしく、男に連れられて人通りの多い所に着いた。
「ここにペンサオンがあるけど、部屋が空いているかどうか聞いてくるよ」
男は二階に上がって行き、すぐに下りてきた。
「部屋はあるそうだよ。じゃあね」
と言ってすたすた歩いて行ってしまった。
お礼をろくろく言うひまもなかったが、ずいぶん親切な男だった。
旅先で親切にしてもらうと、いつまでも心に残る。
あのカウボーイブーツの男は
オズの国で心をもらった親切なブリキの木こりではなかったのだろうか?

あれからずいぶん時間が経ってしまった。
その後、ポルトガルに住み着いて画材を求め全国の町や村のほとんどを訪れたけど、トマールはあの時一度行っただけ。
トマールもかなり変ったことだろう。
特にこんどの竜巻騒ぎで大変なことになっている。

しばらくして落ち着いたら、もう一度訪ねてみよう。
MUZ
2010/12/16

 

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084. バスティーユとボーヌの朝市

2019-01-11 | エッセイ

11月のパリは寒い。
そのうえ毎日雨にたたられた。
今回はワインの産地ブルゴーニュをぶらつく旅なので、いつも泊っていたサンミッシェルではなく、
リヨン駅近くにホテルを取った。
リヨン駅はブルゴーニュ地方やプロヴァンス地方への汽車の発着駅なのだ。
近くにはバスティーユ広場がある。

日曜日と木曜日にバスティーユ広場の公園で朝市が開かれるというので、行ってみた。
ガレ・リヨンからサンマルタン運河沿いにぶらぶら歩いて20分もかからない。
運河の両岸には白いテント張りの小屋が立ち並んで、最初これが朝市の出店かと思ったが、
そうではなく骨董市の出店が並んでいるのだ。
でもまだ朝9時なので、開いている店は一軒しかなく、他はまだしっかりと閉まっていた。
バスティーユ広場に着くと、この骨董市の入り口があったが、入場料8ユーロいる。

18世紀、ここには政治犯を収容する牢獄があり、その当時生活苦にあえいでいたパリ市民によって牢獄が襲われ、それがフランス革命の発端となった。
今は牢獄跡がバスティーユ広場になり、モダンなガラス張りのオペラバスティーユができ、広場はクルマであふれている。

広場の一角から延びる公園が朝市の舞台だ。
日曜日の朝、買い物籠を持った人々が集まっている。
公園は幅が広いので、出店は3列も立ち並び、他の朝市のようにごった返すことはない。
人気のある店には行列ができている。
特に魚屋の店の前は長い行列。
いつも感じることだが、パリの朝市に並んでいる魚や貝類はとても鮮度が良い。
種類も豊富で買いたいものばかり。
でも値段はポルトガルに比べてやはり高い。
カフェのコーヒーも2倍の値段だからね~。

 

今が旬の牡蠣も種類が多い

 

 

ポルトガルではぜんぜん見かけないウニ

 

 

キノコの季節

 

 

鍋に入れたら美味い

 

 

 仏像の頭のような緑のカリフラワー

 

 

インゲン豆とミニトマト。手間ひま掛けた飾り方

 

 

色とりどりのオリーヴ

 

 

魚の燻製、東欧人やロシア人も買いにくるのだろうか

 

 

パセリ入りガーリックバターをたっぷり詰めたエスカルゴ

 

 

青かびチーズも種類が多い

 

 

ポルトガル食品店が出ているのには驚き

 

 

奥にポルトガルキャベツと手前にバカリャウ

 

ガレ・リヨンからセーヌ川にかかる橋を渡ると、オーストリッツ駅がある。
スペイン、ポルトガル方面へ行く列車の発着駅だ。
大きな荷物を持ったポルトガルの移民が列車に乗り込み、故郷へと里帰りする。
クリスマスと新年、夏の休暇を故郷で過すために、いっせいに乗り込む。
日本と同じように帰省ラッシュ。

以前このあたりを歩いていた時、どこからともなく焼き魚の匂いが漂ってきた。
パリ市内では絶対にないことだ。
ポルトガルへの発着拠点オーストリッツ駅、そしてガレ・リヨン周辺、バスティーユあたりは、ポルトガル人がたくさん住み着いているのだろう。
バスティーユの朝市でポルトガル食品の店を見かけたとき、驚いたが、「ああ、やっぱり」と思って、なぜか懐かしかった。


ボーヌの朝市

パリのガレ・リヨンからTGVに乗って2時間半。
ボーヌはワインとマスタードが特産、こじんまりとしたきれいな町だ。

この季節、フランスの町はどこも菊飾りで覆われる。
ボーヌの町も街中が菊の花飾り、ワイン市場の大屋根の窓もみごとな菊の花。

大屋根のワイン市場の建物の前にとても小規模の朝市が出ていた。
10軒ほどの出店では、美味しそうなパンやチーズや野菜が並べられ、取ってきたばかりのような土のついたキノコが、森のにおいを漂わせていた。

11月の第三週にボーヌでは盛大なワイン祭りが開かれるという。
このワイン市場の横にあるオテル・ド・デューで作っているワインは最高級の評価を受けている。
ワインのオークションや盛大なパーティがあり、それを目がけてたくさんの観光客とワインの愛好家が集まり、賑わうことだろう。

 

 

ボーヌの朝市

 

 

ワイン市場の屋根のみごとな菊飾り

 

 

小雨の中、ひっそりと

 

 

サラミの種類もたくさん

 

 

朝取れセップ

 

 

新鮮な野菜が少しずつ

 

 

巨大チーズと生ハムとワインの酒樽

 

 

ボーヌ特産マスタードのおみやげを売っている

 

雨に降られ、美術館も工事中で観られず残念だったが、でも私たちにとっては、ひっそりとしたなかに歴史と文化を感じたボーヌの町と、朝市もなかなか良かった。
MUZ
2010/11/21

 

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083. 10月のビーチ

2019-01-10 | エッセイ

10月になっても晴れ日は続く。
ただし、セトゥーバルでは…と断わらなければいけないのだが~。
リスボン以北では雨降りばかりだったのに、セトゥーバルから以南では晴れ日が続いている。
しかもこのところ毎日汗ばむほどの暑さ。
10月も後半だというのに。

こんな日はビーチに行こう!

セトゥーバルにはビーチがいくつもある。
代表的なのが、サド湾を渡ったところにあるトロイア。
バルコ(渡し舟)に乗って15分、
白い砂浜が長々と続く素敵なビーチだ。
でも数年前からトロイアは高級ホテルと高級マンションの立ち並ぶリゾート地に変身した。
バルコの料金もフェリーの料金も一気に2倍以上も値上がり。
行きづらくなってしまった。

しかし対岸に渡らなくても、こちら側に数箇所のビーチがある。
町外れにあるプライア・デ・アルバクエルは歩いて行こうと思えば行けるほど。
駐車場もあるし、レストランやバーもある。
先週、夕方にそこに行ってみた。
レストランはもう閉鎖していたが、バーは営業していて、ひまそうなおじさん達がカードをやっていた。
ビーチには日光浴をしている人たちがあっちこっちに寝そべっている。

今週は別のビーチに行った。
そこはちょっと遠い。
クルマで15分といったところか。
アラビダ山の麓、セメント工場を抜けて、オータオンの病院を過ぎたところにある、プライア・デ・フィゲイラ。
がけ崩れ防止の金網が一面に張られた巨大な崖の下に広がるビーチだ。
落石を防ぐトンネルも最近作られたから、もともとかなり危険な所だが、道路を隔てて広い駐車場とレストランがあり、ビーチはそのまた向こうにあるから、たぶん大丈夫。
でも次からは落石のおそれのない端っこにクルマを停めることにしよう。

その日はビーチ用の椅子をふたつ持っていった。
波打ち際まで細かく深い砂浜が続いて、足を取られそう。
ビーチにはあちこちに人々が寝そべっている。
海に浸かってはしゃいでいる家族連れや、一人で寝そべって身体を焼いているビキニ姿の若い女性、老人夫婦は服を着たまま散歩している。
私たちもノースリーブと短パンでビーチチェアーに座って海を眺める。
焼け付くような強い日差しは、夏そのもの。
水着を持ってくればよかった!

 





水は青く澄みわたり、波はひたひたと小さなさざなみ程度でとても穏やか。
でも足先を浸けるとさすがに冷たい。
こんなに冷たいのに泳いでいる人が何人もいるのは、驚き。

水際をジョギングしている男性。
胸板厚く、胸毛もくもく。
何度も何度も往復して走っている。
数えただけで10回以上も走ったあと、次は水に入り、端から端までクロールで泳ぎ始めた。
これも何回も往復。
すごい体力だ。
ひょっとしてトライアスロン競技に向けて鍛えているのかもしれない。

引き潮の時間らしく、波打ち際はどんどん後退していく。
ドイツ人の父子がざぶざぶと水に入り、5メートルほど沖まで行き、横に歩き始めた。
腰までの水深しかない。
その手前はそれより深そうだから、どうやらそこの部分だけ帯状に砂の道があるようだ。
その先にはちょっと小高い砂の島が見える。
父子はその島に向っている様子だ。

 





遠くに姿を現わした貨物船がみるみる大きくなり、ビーチの目の前に迫ってきた。
ここはサド湾が大西洋に流れ込む所なので、ビーチのすぐ先は大型船が航行できるほどの深さがある。
巨大なビルのような貨物船が父子の向こうを通り過ぎて行った。
しばらくして、高さ50センチほどの波が父子に襲いかかった。
貨物船がかき分けた波が岸に向って押し寄せたのだ。
父子は島にむかうのを諦めて、岸に戻ってきた。

砂の島に目をやると、何かが動いている。
ゴマ粒のように小さく見えるが、それは一人の男だ。
ゆっくりゆっくりと、島の半分を歩くと、ふいに見えなくなった。
どうやら向こう側は低くなっているようだ。
しばらくすると、右側から姿を現わした。
男は何回も何回も島の周りを歩くのを繰り返している。

それから30分以上経っただろうか。
島の男はまだ周り続けている。
波打ち際はだいぶ遠のいて、砂の道がかなりはっきりしてきた。
その間が湖のようになり、一羽のウが水に浸かり、えさを探している。
魚が一匹跳ねたと思ったら、すばやくウが口にくわえた。

さっきから波打ち際を行ったり来たりしていた男女が決心したように水に入り、砂の道を歩き始めた。
男は20代、女は40代に見えるから、親子だろうか。
砂の道は先ほどと違って、もう足首ほどまで浅くなっている。
でもところどころ深いところがあるようで、時々立ち止まり、少し引き返し、道を探りながら、少しずつ砂の島へ向っていく。
彼らがかなり進んだ時、さっき途中で諦めたドイツ人の父子が再び砂の道を歩き始めた。
今度はずいぶん浅くなっているから、どんどん進んで行く。

しばらく間を置いて、男が後に続いた。
さっきジョギングをしていた胸毛男だ。
あれほど運動をしたあとなのに、また島まで歩いている。
すご~い!

水際にいたビア樽のようにぶっといおばさんが、どっこいしょと砂の道に上がり、のそのそと歩き始めた。
「まさか彼女が~」
でもゆっくりと進んで行く。

最初に歩いて行った男女はとうとう砂の島にたどり着いたようだ。
ところで島の男は?
島に着いたのは二人なのに、島にはごまつぶのように小さな人影が3人寄り添っている。

そこにドイツ人の父子がたどり着き、しばらくして胸毛男も到着した。
ビア樽おばさんはまだ道半ばである。
MUZ
2010/10/21

 

©2010,Mutsuko Takemoto
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(この文は2010年11月号『ポルトガルのえんとつ』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルのえんとつ』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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