ポルトガルのえんとつブログ

画家の夫と1990年からポルトガルに住み続け、見たり聞いたり感じたことや旅などのエッセイです。

133. 駅はどこだ~

2016-12-31 | エッセイ

 宮崎でジャズ喫茶をしていた時、殆ど冗談だが、毎月1回「ジャズマニア集中講座」というのをやっていた。その時に講師を引き受けてくれていたKK氏が今は鉄道マニアらしく自身のフェースブックで全国の鉄道などを事細かに紹介している。

 大学の同級生で親しくしていた山口県のKMさんから数年前、帰国中の宮崎の自宅に突然電話があった。何十年ぶりかに聞く声である。「もうすっかりお婆さんよ~」と言っていたが、それはお互い様である。卒業後、学校の教師をしていたが、定年退職し子供たちも独立し、今はご主人と二人で家庭菜園を楽しむ毎日だそうだ。「たまにはノリテツよー」と言う言葉があった。「海苔鉄?」「そうよ~、夫と二人で気が向いたら何処まででも乗りに行くの。先日は宮崎の鉄道にも乗りに行ったわよ~」「へ~え、それを乗り鉄と言うのね」

 それを聞いたVITは「それは面白そうだ」と言って、早速、行動に移した。個展会場の岐阜高島屋に行くにも、岡山高島屋に行くにもローカル列車を乗り継いで行くことを思いついてすぐに実行した。帰ってくるなり「結構面白かったわ~」

 私たちはポルトガルに来た当初10年間はそう言えば「乗り鉄」であった。ポルトガル全国隅から隅まで鉄道とローカルバスを乗り継いで旅をした。

 10年目にクルマを買った。列車とローカルバスでは限界を感じたからだ。ローカルバスの窓から絵になりそうな風景が目に飛び込んでくる。でもそこで降りてしまえば、後は連絡もないし、宿もない。そんな悔しい思いを何度か味わった。そしてクルマを買ったのだ。

 クルマを買ってからは本当に自由に何処にでも行くことができる。スケッチの風景だけではなくその副産物として「野の花」観察を思いついた。花の写真を撮って名前を調べた。そしてサイトを作り、ブログを作った。「野の花」も600種を数えるまでになった。風景や野の花を求めてクルマを走らせていると「鉄道駅→」の道路標識を目にすることもよくある。

 そう言えば、15年前までは「乗り鉄」だったポルトガルの駅は可愛らしくてアズレージョなども美しく、でも廃線になったところも多く、写真に残しておけば良かったな~などと思っているが、今からでも遅くはないのかも知れないと思い立ち、今回の旅になった。

 クルマを買ってからは鉄道に乗ることはぜんぜんなくなったが、それより以前、ポルトガルに住み始めてからも、ポルトガルに初めて旅行にきたころも汽車にはよく乗った。ポルトガルの「乗り鉄」だったのだ。

 最初に乗ったのはリスボンからエヴォラに行った時。

 その当時は客車の座席は公園のベンチのような木造りで、すわり心地がとても悪かった。でも隣り合わせた乗客が長いマントを着込んだ爺さんたちで、なかなかカッコ良かったので、ずっと見とれていた。後で知ったのだが、それはアレンテージョ地方の伝統的なマントだった。ポルトガルの小説家で、ノーベル文学賞を受賞したジョゼ・サラマゴはストックホルムでの授賞式にそのアレンテージョのマントをたなびかせて臨んだ。それもカッコ良かった。

 マントの爺さんたちに見とれていると、突然ドーンと衝撃がきて、汽車は急ブレーキをかけて停まった。

 客車内は大騒ぎになり、マントの爺さんたちは窓から身を乗り出して外を見ていたが、やがて次々に列車のタラップを降りて外に出て行った。私たちも窓から見ていると、爺さんたちは口々に「バカ、バカ」と叫んでいる。いったい「バカ」とはなんだろう?

 それは牛のことだった。1時間ほど経って爺さんたちが客車に戻ってくると、身振り手振りで説明してくれたのだが、「バカ」つまり牛が汽車と衝突したらしかった。子牛だったので、列車にはたいして影響はなかったらしい。これが大きな親牛だったら、汽車はもしかしたら脱線していたかもしれない。

 そんなことがあって、ようやく汽車はエヴォラ駅に到着した。駅を出ると周りには何にもない。マントの爺さんたちも迎えに来た家族のクルマで帰ってしまった。他の乗客が数人何かを待っている。

 「もうすぐバスが来るから、ここでしばらく待ってたら~」と教えてくれた。

 ようやくやって来た市バスに乗り込んで市内に向ったが、20分ほどもかかった。

 ポルトガルの鉄道駅はセントロ(市の中心)からずいぶん離れた場所にある。そして駅の周りにはほとんど何もない。

 日本だったら駅前はどこの町でも賑わっているが、ポルトガルはよほど大きな街以外はほとんど野原に駅だけがぽつんと建っている。

 そんな鉄道駅も利用客が激減して廃墟になっているという。職員はストライキで賃上げ要求ばかりしているし、先日はリスボンの地下鉄の自動発券機が故障して放置され、乗客が窓口に長い行列を作っていた。どこかで見た様な光景だと想ったら、日本の昔の国鉄を思い出した。

 廃れ行く鉄道駅の風景を今のうちに写真に撮って残しておこうと思い立った。

 まず、アルガルベ地方を走る鉄道線路、その沿線の駅舎をできるだけ尋ねてみよう。

 当初はそんな軽い気持ちからであった。野の花やスケッチになる風景を求めながらクルマを走らせていて「鉄道駅→」の標識があれば見ていく程度に思っていた。ところが地図を片手に走らせているとどうやら必死に探している自分たちがそこに居た。

 道路と鉄道が平行して走っていて突然「駅舎」が目の前に現れたりもする。そうかと思えば平行して走っていた鉄道線路が何処かへ行ってしまい見失う。

 シルベスからラゴアへ向う道に入ればある筈の、その道の標識が見当たらない。ロータリーでうろうろしていると、殆ど交通量がない筈なのに後ろからビビ~とクラクションを鳴らされてしまう。ようやくその道を見つけるとやはり「鉄道駅→」の標識がすぐに目に入る。間違いなくその道に入るとすぐにロータリーがある。そのロータリーには標識はない。えいやっとまっすぐの道を選んで走るがいつまで経っても駅らしき建物はない、線路も見当たらない。葡萄畑で作業をしていた若い男に尋ねると、こちらの質問が終らないうちに、今来た反対方向を指差した。「ロータリーがあったけれど~」というと「それを真っ直ぐ真っ直ぐ」と言って親指を立てた。

 また、別の道路を走っていた時「鉄道駅→」の標識があった。確かにその標識の方向にクルマを入れると袋小路になっていて、鉄道線路で行き止まり。クルマから降りて右左を見てみたが駅らしきものが見当たらない。ちょうどそこに居た老人に「オンデ・フィッカー・エスタサオン・デ・カミーニョス・デ・フェロ?」とたどたどしく舌を噛みそうに尋ねると「エスタサオン・コンボイオ」といとも簡単に答えが返ってきた。「その道を300メートル行ったところだけど。この時間には列車はないよ~」「いえ、列車に乗るのではなくて、駅舎の写真を撮りたいだけなんです」「ああ、ボニート(美しい)だよ。ここの駅は美しい」と嬉しそうに繰り返した。そしてその300メートルは期待に胸を膨らませてクルマを走らせた。なるほど小さな可愛い駅舎があった。でも残念ながら落描きだらけでちっともボニートではなかった。

 いやはや始まったばかりなのに駅探索はとても疲れてしまった。

 しかしもう少し春になれば、こんな小さな駅周辺にも野の花が咲き乱れることだろう。MUZ

 

 

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