ポルトガルのえんとつブログ

画家の夫と1990年からポルトガルに住み続け、見たり聞いたり感じたことや旅などのエッセイです。

202. 2023年9月25日 ステージ2

2024-05-03 | 日記

 2023年9月20日、右の乳房にしこりを感じた。すぐにサウデ(保健所)に行ったのだが、主治医のドクトラ・クロはあいにく休暇で留守。代わりに若い男性医師が相談に乗ってくれて、数軒の病院を教えてくれた。しかしどこに行っても患者がいっぱいで、1か月以上も先の予約になると言う。リスボンの弘子さんにそのことを話すと3日後の9月25日、月曜日にリスボンの民間クリニックに予約を取ってくれた。辛うじて見てくれると言うのが、リスボンのクリニックだった。

 9月25日、私の76歳の誕生日。この日にクリニックに出かけた。リスボンに住む友人の弘子さんとクリニックで待ち合わせ、通訳をして頂けるということで、非常に有り難かった。

 弘子さんのご自宅からは歩いて30分ほどの距離。私の誕生日だと言うので重い上等のシャンペンを携えて来てくれた。何しろ私もビトシも簡単な会話しかポルトガル語は喋れないし、特に病院ともなるととんでもないこと。

 クリニックはリスボン空港のちかくにあり、その道はしょっちゅう通るところ。昔の豪邸が立ち並ぶ、その内の一軒だった。乳癌検査の専門で、そのせいかスタッフは女性ばかり。マンモグラフィーなどの検査を受けた結果はやっぱり悪性の乳癌に間違いはなかった。乳癌に間違いはなかったが、看護婦さんたちからは「お誕生日おめでとう」と祝福を受けた。複雑な心境である。でもこのクリニックでは手術はできない。

 またサウデに戻ってクロ先生に相談したが公立病院ではどこも半年待ちという。それならばと日本に帰国して手術をすることを考えた。

 ネットで日本の病院を調べて、メールで申し込んだ。自宅のある宮崎で手術ができたならゆっくりと療養ができる。早速、日本までのヒコーキを申し込んで、ようやく取れたのが11月7日に宮崎着。

 その翌日の予約でクリニックに行った。ポルトガルでのマンモグラフィーのフィルムを持ち帰って下さい。と言われていたので持参したのに、再び同じような検査をされ、ポルトガルでの検査は何だったのかと思った。このクリニックでも手術はできないということで、本病院に移ることになった。ここも我が家からバス一本で行ける。宮崎市のバスは老人割引で一乗車100円、乗り換えるつどに100円かかるが、安いものだ。しかし次の検診は一か月先。あせって帰国したのに、日本もポルトガルと同じだ。

 12月3日、帰国してもう一ヶ月近く。本病院に2度目。また検査を色々受けて、一日がかり。次は12月8日。挙句の果て主治医は県病院に移りなさいと言う。私としてはまた他の病院にかかるのは受付から時間がかかるのでいやだというと、「この病院で手術中に心臓が止まるなどの突発事故が起きても対応ができない。県病院ならほかの科がいろいろあるのでそうしてください」という。

 県病院は12月27日、またいろいろと検査を受けた。暮れも押し詰まって、もうすぐ正月。

 それどころではないのに1月2日、宮崎神宮に初詣に出かけた。久しぶりに凄い人ごみに混じって願掛け。自分が乳癌だという悲壮感はほとんどないけれど。

 1月3日、県病院に出かけた。受付はとても混雑していて、待たされる。県病院は他の病院から紹介状がないと受診できない。それなのにこの混雑。

 血液検査のあと外科に行っても、そうとう待たされた。朝の1番からの予約なのにお昼ご飯も食べられない。

 やっと私の番がきて、主治医と話ができた。どうやら私の過去の病気の心配をされているらしい。10年ほど前に静脈瘤の手術をしたことと高齢であること、それと海外に住んでいるので手術後のケアをどうするのかが問題であるらしい。手術後は5年以上、経過をみる必要があるとのこと。どうやら私は癌という病気を軽くみていたらしい。今まで自分のまわりで癌になったひとがいなかったので、まさかじぶんが乳癌になるとは思いもしなかった。

 もうそろそろポルトガルから日本に帰国しようかなと考えていたのでちょうどよいかもしれない。

 手術の前に、歯科医と静脈血栓症の異常がないか、二か所の病院を訪ねて県病院あてに手紙をもらわなければならない。歯科医はすんなりといったが、循環器内科は少し手間取った。

 というのも大淀川を挟んで橋を渡った場所にあるのだが、院長先生が朝の4時に玄関の前に順番待ちの用紙を出す。早い順番が欲しかったらできるだけ早朝に行かなければならない。朝9時に開院だから8時半に行ったらもう順番が56番しか取れなかった。そこで次の日、ビトシがまだ暗い早朝5時に自転車を走らせ橋を渡って順番を取りに行った。それでも12番だった。そうして苦労して手に入れた手紙「心臓に心配なし」を持って県病院に行った。

 その後やっと手術の日程が決まった。3月5日。

 ポルトガルから戻ってきた航空券の復路は2月28日。帰国してから4か月間も滞在期間を取ってあったのに3月5日に手術を受けるのだから戻りのチケットを延期しなければならない。しかしいつになるか見当がつかない。戻りの便を延長するのを相談しようとANAに電話を掛けるがなかなか繋がらない。「順番にお繋ぎしていますのであと暫くお待ちいただくか、再度おかけ直しください」とテープが回るばかり。受話器を持ちっぱなしで3時間も待った。ようやく繋がりANAに相談したら、病院から診断書をもらったら、変更料は免除になるし、日にちは保留にしてくれるという。これでひと安心。

 手術まで2か月近くある。以前から気になっていた頭のふらつきをこの機会につきとめようとした。長く歩くと突然倒れてしまう。しかも歩幅がどんどん早くなって足がもつれてこけてしまう。これまでなんどもこけて前歯を数本失くしてしまった。

 乳癌が発覚する半年前に、実はその件で受診したのだ。宮崎の北にある病院である。脳のMRIと脊椎のMRI検査を受けた。それでもその時は原因が分からなかった。「これ以上検査をするのなら国立病院で1週間の入院検査をしてみては如何ですか。それをしても何も出ないかも知れませんが、紹介状を書きますよ。どうされますか?」と言われた。考えたのだが、そこまではする必要はないだろうと思って、それ以上はしなかった。

 それでもやはり気になる。ネットなどで調べると、パーキンソン病、或いはアルツハイマーの症状も気になる。それは脳神経内科で検査と書いてある。近くのS病院の看板に脳神経内科の項目もある。直ぐに電話を掛けた。

 近くのS病院に電話を掛けてみると今は脳神経内科はやっていないと言い、宮崎駅東口近くの脳神経内科クリニックを紹介してくれた。早速電話をすると今朝はあと20分受け付けています。というので、すぐにタクシーで駆けつけた。

 MRIの検査をした結果、別の脳神経外科クリニックに行きなさいとのことで地図と電話番号をくれた。丁度昼休みだ。その近くの食堂で昼食を済ませ。またタクシーでその教えられた脳神経外科クリニックへ急ぐ。そこは出来たばかりのようなきれいなクリニックで、しかし昼休みで未だ閉まっていた。順番待ちの3番の番号札を取り、玄関前で待つ。医師は体格の良いテキパキとした感じのよい人で、ここでもまたMRIの検査。こんなに何度も放射能を浴びて、身体に悪くないのだろうかと心配になる。でもここで私の病気の正体が解明した。何だかよく判らないが、頭に水がたまる『水頭症』だと言う。パーキンソン病でもアルツハイマーでもなかったけれど、水頭症という病気らしい。ここでは僅か30分ほどで病名が解明したのだ。昨年4月のNH病院での検査は何だったのだろうかと残念に思う。

 「県病院で乳癌の手術を受ける」というと、「乳癌手術が先決だからそれが終わってからですね」と言って、県病院宛に手紙を書いてくれた。

 2月5日、県病院で手術前の説明を受けた。手術まで一ヶ月もあるのに変だなと思いつつ行ったが、間違いではなく、入院に関する様々なものを用意しなければならないようだ。

 手術後、入院は一週間程度らしいが、患者が用意するものは様々。まずスリッパ、ハンガー、バスタオル3枚、タオル数枚、手術用寝間着、おしめ、TV用のイヤホーン、などなど。 だいたいは100均の店で揃えられた。日本はとても便利で住みやすい。

 一か月後、とうとうその日はやって来た。付き添いのビトシと二人、タクシーで。行き先は県病院、荷物の入ったスーツケース。それだけでピンときたタクシー運転手、「入院ですか?」「はい、いよいよなんです」

 2階の受付で入院手続きをすませ、その翌朝、3階の手術病棟へ。 

 看護師さんに付き添われて手術室に入ると医師や看護師さんたちが多数いて、私はベッドに案内された。それから全身麻酔がほどこされ、その後覚えていない。

 気が付いたのは自分の入院ベッドだった。ビトシが心配そうに私をのぞいている。懐かしいビトシの顔だった。手術は無事に終わったのだった。痛みもなにも感じなかった。でも私の身体にはたくさんのチューブが付いている。痛みは何も感じなかった。と書いたが、私はその時、朦朧としていて覚えていないのだが、実は痛がったそうである。ビトシはナースステーションに行き、「痛がっています」と言ってくれたそうで、看護婦さんが痛み止めの点滴を加えてくれたのだそうだ。

 部屋は数人部屋で、大きなカーテンで仕切られているので個室のようだ。他の患者の様子は判らない。

 朝から主治医の回診があって、その後も次々と看護師さんが現れていろいろな処置をしてくれた。だんだん頭もはっきりして、向かいのカーテンの患者にかかってくる電話も聞こえるようになった。その他に、カタカタと音を立てて用足しに行く患者の音も聞こえるようになった。たぶん点滴のたくさんぶら下がった手押し車を押しながら移動しているのだろう。ベッドの側にはTVがついていて、前もって買っていたカードを挿入して見ることが出来る。

 朝の食事はお茶から始まる。カーテンの外から声がかかり、前もって用意してあったコップになみなみとそそいでくれる。それはお茶には程遠い、麦茶みたいな味だったが、喉の渇きをうるおしてくれて、美味しかった。

 食事は名前の確認から始まる。お盆にのせた料理には本人の名前が書かれたものがあり、毎回確認させられた。患者の容態によって食事の内容が違うのだろう。

 看護師さんが「シャワーをあびましょう」と案内してくれた。ベッドのまま入れるところと一人で使える部屋の二つがある。もちろん下半身シャワーで、自分でできた。次の日はシャンプーをしましょうといって、看護師さんがとても丁寧に洗ってくれた。看護師さんはみんなとてもにこやかで若くて親切。とてもハードな仕事だろうに、有難くて頭が下がる。

 面会は午後から15分間、陽当たりの良いロビーで家族に会える。そこで太陽にあたりながら本を読んでいると、ビトシが現れる。毎日自転車できてくれる。15分間はあっという間に過ぎてしまう。

 それから間もなく退院許可がでた。ちょうど1週間たっていた。

 カタコト音を立てて歩いていた患者さんから、「退院ですか?」と声を掛けられた。いままで話をしたことがなかったけれど、目があうと挨拶していたのだ。彼女はまだ入院が長引きそうだ。孫から電話が多かった婦人からも昨日彼女が退院する時に、ペットボトルの水を頂いた。

 退院して久しぶりの我が家。鏡に映った私の胸から右の乳房が消え、大きな傷跡が残った。かなり寂しく、愛おしい。

 それから一か月後、ポルトガル行きの飛行機に乗った。歩く距離の長い羽田とフランクフルト空港内はそれぞれ車椅子のお世話になった。しかしフランクフルト空港内で迎えに来た移動運搬車に乗ろうとした私は手が滑って床にたたきつけられた。その時にしたたかに右足の脛を打ち付けて、大きな打ち身ができてあざができた。それがポルトガルに帰って2週間以上も経つのにまだ腫れが退かない。MUZ  2024/05/03

 

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