えつこのマンマダイアリー

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参院選と改憲問題

2013年07月09日 | 雑記

 参院選まで2週間を切りました。書きたいことが沢山あるのにまとめられず、ちっとも記事にできないできた私...情けない(^_^;

 私の購読する東京新聞は、6月初めから自民党の改憲草案をシリーズで検証してきました。現行憲法と条項を一つ一つ比較しながら、伊藤真氏(日本弁護士連合会憲法委員会副委員長・「伊藤塾」塾長)が問題点を指摘する形式での検証です。 
 そして、7月6日付社説では、参院選の争点の一つである憲法問題を、「国のかたち変えるのか 憲法問題」というタイトルで取り上げました。以下、一部を引用します:

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 (前略)
 国民主権、基本的人権、平和主義などの骨格に支えられた憲法は、国民生活に深く染みいり、現実に戦後は平和で自由な社会を築いてきた。選挙の結果次第で、この「国のかたち」が、変貌してしまうかもしれない。
 参院選は日本の岐路となる歴史的な選択なのだ。それゆえに、われわれは日本国憲法の意義をあらためて、かみしめるべきだ。
 「国民の手に憲法を取り戻す」と首相は語った。では、今まで国民は憲法を握っていなかったのか。

  権力は鎖で縛らねば
 
学校教育などを通じて、多くの国民が親しみを持つ法典である。逆に、そもそも今、なぜ憲法改正が必要なのか。疑問に思う。
 むしろ、占領下の米国によってつくられた「戦後レジーム」からの脱却を唱えてきた首相が、改憲への風をあおり立てている。「3分の1を超える議員が反対すれば、国民は指一本触れられない」とも首相は述べた。
 しかし、国会議員を投票で選んでいるのは、国民である。憲法施行から66年間も、改憲を阻んできたのは、国民の意思表示と受け取るべきだ。
 「国民の手に憲法を取り戻す」という言葉とは裏腹に、まるで自民党の草案は「権力の手に憲法を」と主張しているかのような中身である。
 現行憲法の前文は「日本国民は」で始まるのに、改正草案は「日本国は」を主語に国家観が語られる。出発点から異質なのだ。
 「日本国民」を主語にしてきた文脈では「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り」「和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合う」ことが要求される。
 国民の自由と権利の条項には「常に公益及び公の秩序に反してはならない」と、言葉が加わる。義務がやたらと目につく。
 何よりも、まるで一般の法律のように、国家権力が国民を拘束しているかのようだ。立場は逆であるはずだ。
 国民が国家権力を拘束するのが、本来の憲法の姿である。立憲主義では、たとえ国民が選んだ権力であれ、力を乱用させない「権力を縛る鎖」なのだ。
 その憲法を国民の名を借りて、権力側が自らつながれた鎖をほどこうとする改憲などありえない。改正草案を見る限り、時計の針を古い時代に巻き戻しているかのような印象だ。(以下略)

  声をじっくり聞いて
 
本紙は憲法を守る精神に立つ。自由や平等など人類の英知を集めた憲法をより生かすことで、現在の苦境は乗り越えられよう。「国のかたち」を変えうる国政選挙だけに、有権者は各立候補者が訴える声をじっくり聞いて、「一票」の判断をしよう。

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 以下、自民党憲法改正草案について、二方の講話の動画を紹介します。

  小森陽一氏(東京大学教授・「九条の会」事務局長)
     「あぶない憲法のはなし」
     YouTube動画 

 自民党の改憲草案と現行憲法とを比較しながらの小森氏の解説は、とてもわかりやすいです。
 端的に言えば、自民党の改憲草案は「国民主権を国家主権に変えようとしている」ということですが、私が開眼させられた小森氏の指摘は次の点です。
 9条を変えることで国防軍を持つことは、戦争ができるようになるばかりか、治安維持も可能になるということです。つまり、デモや内乱などの国民の活動を制限できる権力を国防軍が持つということです。
 話は少し飛びますが、現在トルコでは、首相の辞任を求めて広場に集まっただけでも、国民は警察から催涙弾などを撃ち込まれるというではありませんか。現在の日本では、それはあくまでもトルコの話、対岸の火事ですが、自民党の改憲案が通れば、日本でもあり得ることになるのかもしれません。私の言っていることは飛躍し過ぎ、あるいは杞憂なのでしょうか?

 

  樋口陽一氏(東北大学名誉教授・東京大学名誉教授)
     「一人ひとりの「個人」の自由について」
      YouTube動画

 樋口氏は、世界の思想史の中で獲得されてきた「個人」の概念、天賦人権について触れ、「個人」を「人」と言い換えている自民党の改憲案は、ただの言葉の言い換えではなく、憲法の前文を否定することであり、天賦人権を否定していると強調しています。その意味で、「国防軍論は、現在の自衛隊の現状を法の世界で認知しようなどというものではない」(ただ法律で規定するという単純な性質の問題ではない、という意味だと思います)とも指摘しています。

 

                                              

 「憲法は本来、主権を持つ国民が権力を縛るためにあるのだから、国民や憲法学者から改憲案が出るのならわかるが、権力側から出るのはおかしい」とは、すでに何人かの識者等が指摘してきているところです。「国民の手に憲法を取り戻す」? 「現憲法はGHQの押しつけだから」? そんな詭弁を吐きながら、実際に首相がやろうとしていることは、それとは真逆のことなのですよね。権力側が国民を縛ろうとしていることが、もはや見え見えです。

 私が改めてその具体例をここに列挙する必要も技量もスペースもないので、1つだけ強調させてください。現憲法の99条(第10章最高法規内)についてです。
 憲法の最高性を謳う99条は、そもそも「憲法とは何か?」という憲法の本質を規定する条項です。
  「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」なのですが、自民党草案(では102条)によると、
  「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う」としているのです。
 つまり、主権を持つはずの国民には尊重を強制し、国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員には擁護の義務を負わせるだけ、そして、天皇(または摂政)には尊重擁護の義務を負わせないのです。

 しつこいですが、繰り返します。憲法は本来、主権を持つ国民が権力を縛るためにあるにもかかわらず、自民党はそれを規定している最高法規の条項を変え、「国民を憲法によって縛り、権力の憲法擁護義務は緩和し、(第1条で国家元首と規定する)天皇には憲法尊重擁護義務を外す」としようとしているのです。まさに、小森氏が自民党草案は「国民主権を国家主権に変えようとしている」と指摘している最たる例ですね。これでは、まるで実質的に戦前と同じ状態です。主権在民はどこへ行ってしまうのでしょうか? これだけ見ても、自民党草案が国民にとってどんなに怖ろしいものか、よくわかります。

 安倍首相は、9条改正に先立ち、96条改正案をさかんに提唱していましたが、世論を考慮してか、参院選に向けては改憲についてトーンダウンしているようですね。でも、もし選挙結果でねじれ状態が解消しようものなら、一気呵成に再び改憲に向かうのではないでしょうか?

 日本国憲法は、太平洋戦争による多大なる犠牲の上に成り立つものですから、それを自民党草案のように変えることは、その犠牲者と遺族を踏みにじることだと私は思います。特に9条の変更は、広島と長崎の被爆者や遺族の耐えてきた歳月を踏みにじるものだと思います。悲惨な体験を昇華し、「報復するのではなく、同じ悲劇を二度と繰り返さないでほしい」と平和の大切さを訴えてきた被爆者のすべての思いや努力を、無視することに等しいのではないでしょうか? 被爆者たちの過ごしてきた70年近い年月は一体何だったのか、ということになりませんか? 原発推進もしかり、です。

 安倍首相のしようとしていることは、過去の人類が必死に努力して獲得してきた個人の人権や積み重ねてきた歴史を、国家権力によってあっさりひっくり返す暴挙に等しいと私は考えます。何たる傲慢な思想でしょう。こんな傲慢な政治を許してよいのでしょうか? 首相が見ている方向は、もはや日本国国民ではなく、今や世界中を席巻しようとしている個人的勢力(多国籍企業に代表されるグローバル企業など、国家の属性に縛られない勢力)だと私には感じられます。何たる偏った政治でしょう。こんな“おもねり”政治を許してよいのでしょうか?

 また少し話が飛びますが、かつてのイラク人質事件以来、とかく「自己責任論」が跋扈していますよね。権力側が提唱するばかりか、国民の間にもこの考え方が浸透してきているように思いますが、どこか変だとは思いませんか? これこそ、“おもねり”政治を国民自らが支えてしまう、権力者が仕掛けた巧妙な罠に、私には思えます。本来は基本的人権や最低限の生活を国民に保障すべきであるのに、その権力者の遂行すべき義務を放棄し、国民に責任を転嫁しているとは言えないでしょうか? 国民自らがこの自己責任論に理解を示し、賛同し、自己責任で自助努力に励むとすれば、それこそ権力者にとっては思うツボではないでしょうか? 結果的に、傲慢な政治に手を貸しているように思えてなりません。

 閑話休題...野党が不甲斐ない、期待できないという大多数の国民の気持ちはよくわかりますが、だからと言って、参議院までも与党に実権を渡してしまったら、誰がこの暴走を止めることができるでしょう。この暴走を止めることができるのは、「選挙権を持つ私達でしょう!」&「今でしょう!」と私は声を大にして言いたいです。  

 一つだけと言いつつ、言い出したら止まらなくなってしまいました。ごめんなさい。こんな一人のオバサンの遠吠えを、ちょっとの間でも立ち止まって耳を傾け、考えてくださったら嬉しいです。冗長な駄文のご清聴に深謝しますm(__)m

 

 追伸: 愚息にこの文章を読ませたら、「お母さんのは自分の主張を載せてるだけ。ディベートの姿勢が全くない。カウンターオピニオンも載せ、それを論破できないとだめだ」と一刀両断されました(^_^;

 


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