天皇陛下のおことばと国民が本当に考えなければならないこと。

2016年10月21日 | 人生はメンタルだよな
NHKラジオ第1、2016年10月21日(金) 午前6:10~午前6:24(14分)▽社会の見方・私の視点で、首都大学東京大学院教授木村草太氏が先般の天皇陛下のビデオメッセージに対する責任の所在について、話をしていた。

同様の論点を沖縄タイムズwebで書かれているのが見つかった*1。

結論から言うと「(天皇陛下の)象徴行為の責任は、内閣が負うことになる。」とする。

ラジオで木村は論を進めて、「内閣が責任を取る以上、先般のお言葉の内容を内閣が事前に知り、それを承知していなければ、責任主体として不適切である。」との旨を述べた。そして、「与党・野党を含めて国会は、この件の内閣の責任について明確な説明を求めるべきである」と主張した。

私は、天皇の言葉を聞いた時に感じた違和感は「天皇は自らの立場や行く末についてのお気持ちを国民に向けて表明する権利を持ち得ているのだろうか」というものである。
「であれば、皇太子が、僕は天皇になりたくない、と国民に向けて意思表明する権利もある、とはならないか。」という論理になる。

天皇の発する言葉はすべて、内閣の責任下でなされるべきであって、いわば内閣の意思がそこに含まれている、と考えることが代議制民主主義国家日本における国民の正しい理解ではないだろうか。

もう一つ気になる点は、天皇陛下は自らを「国政に関する機能を有しません*2」といいながら、「摂政という制度に強い反発*3」を示されたことである。摂政は、皇室典範という法律上で明示された制度であり、これに対して意見を述べられたということは、天皇が法律に対して一定の評価をした、ということである。これが国政にかかわらないことだ、とは言い切れないのではないか。

木村の文章に戻ると「もしも天皇が安保法制に賛成または反対だとの意見表明をしたならば、それと反対の意見を持つ者には、「国民の象徴に逆らった」というレッテルが貼られることになる。天皇がそうした政治的影響力を持つことを防ぐため、憲法は、天皇の行為を厳密にコントロールしている。」と主張する。今回の天皇の発言は、その憲法上の立場を逸脱する発言であった、とも理解し得る。

生前退位について、特別法で対応する方向で議論は進んでいくだろうが、この際、現在の日本国にとっての天皇の役割や立場について憲法の精神に乗っ取って共通の理解が国民全体に行き渡ることを期待する。

時の為政者の都合で、天皇の位置づけを変えながら戦いに突き進んできた歴史から、学ぶべきものは多い。



*1【木村草太の憲法の新手】(38)お言葉の責任 天皇の政治的利用を危惧,沖縄タイムズプラス,2016/8/21
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/58443
*2象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば,宮内庁,2016/8/8
http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12
*3 昭和史のかたち 天皇の生前退位=保阪正康,毎日新聞web,2016/8/13
http://mainichi.jp/articles/20160813/ddm/005/070/002000c

さくらさく らさくらさくら 万の死者

2011年12月27日 | 人生はメンタルだよな
今晩友人に教えてもらった俳句です。すこし、文字の並びを変えてみます。


さくら
さくら
さくら
さくら
万の死者

こうやって見ると、桜の花びらが万の死者の上にふりそそいでいるように見えます。

"ら"という言葉には元来"多くの"という意味があるようです。

君ら
子供ら
そこら(中)

そのように"ら"をとらえると、"さくら"という言葉にも別の視点が見い出せます

"咲く"+"ら(多くの)"

まさに桜は、春には多くの花を一斉に咲かせます。そして、はらはらと花びらを散らしていくのです。

この句をもう一度眺めなおすと

ら、ら、ら、と重ねることで"万"の重さが強調されていると理解できます。

桜の根元には死者がいるというイメージと、今回の震災で万の人が亡くなられたことを、桜のはかなさに重ね合わせて、さらに、毎年春になれば咲き誇る桜に希望を託して詠まれた歌である。

と、私は受け止めさせていただいたことであります。




ご門主のお言葉

2011年04月16日 | 人生はメンタルだよな



皆様、ようこそご参拝になりました。
50年に一度の大法要をこのような事態の内にお勤めすることになるとは、思いもかけませんでした。
東日本大震災で亡くなられた方がた、そのご遺族に哀悼の意を表しますとともに、被災された方々にお見舞い申し上げます。
困難の中ご参拝になった方もいらっしゃることでしょう。
「世の中安穏なれ」という願いを、保ち続けたいと思います。
大遠忌法要は宗祖親鸞聖人のお徳を偲び、讃え、聖人のお勧めによって御本願、念仏に生きる思いを確かめる法要である、という基本に帰って考えますと、私が身を引き締めてお勤めし、この思いを持って、これからご恩報謝の生活にはげむことが大切なであると思います。
震災に会われた方々の困難を推し量ることはむずかしいですが、等しく阿弥陀如来の智慧と慈悲に包まれた者として、同じ社会に生きるものとして、お念仏もうしつつ少しでも苦しみを共にしたいと思います。
火宅無常の世界に生きる者の中で、この度はたまたま、東北関東に居住、滞在されていた方々が被災されました。
大事なことは、お互いに、このたび虚しく過ぎてしまってはならない、ということでありましょう。
それは、迷いを離れて悟りへと転じられる道・人生を歩むことであります。
親鸞聖人は、師匠である法然坊源空聖人にお会いになれた頃、
「曠劫多生(こうごうたしょう)のあいだにも 出離(しゅつり)の強縁(ごうえん)知らざりき 本師源空いまさずば このたびむなしくすぎなまし」
遥か昔から、迷いの生存を繰り返しながら、そこを出る縁を知らなかった私は、法然上人がおいでにならなかったら、またこの世を虚しく過ごしてしまったでしょう、と謳われました。
私たちには、「宗祖親鸞聖人いまさずば」、と置き換えられるのではないでしょうか。
煩悩具足、迷いの人生を歩む私が、宗祖に会うこと、仏法に会う事、そして御本願を信じ、念仏申す身になることです。
私のはからいを交えず、南無阿弥陀仏の呼び声を受け取るところに、お念仏の人生があります。
どのような事態に直面しても、往生浄土の道を歩む、その上で自分に出来る事をさせていただきましょう。
いち早く、仏教徒として、念仏者として救援活動をしている方々がいらっしゃいます。
自然現象は、止められませんが、どう対処するかは、ある程度人間の考え方によります。
原子力発電は、一企業、一地域だけの課題ではなく、経済的豊かさを優先する私たちの生き方と深くかかわっています。
仏法を伝えられ、この御影堂を託された私たちが、子孫へ何を残すことができるでしょうか。
被災地救援の応援と共に、南無阿弥陀仏とお念仏申して、精一杯過ごさせていただきましょう。

moon:月に囚われた男

2010年06月01日 | 人生はメンタルだよな

お知り合いのお勧め。

実に面白かった。少し雑な創りは、デヴィッド・ボウイの息子ダンカン・ジョーンズ初監督のB級作品。

SFスリラー?
2/3位のところでネタばれしちゃうからスリラーでもないような気がするが・・。

確かに、お知り合い氏曰く「その仕掛けが面白くかつ本質的なテーマとなっている」の通り、「本質的なテーマ」を提示している。

それは、「生きてきた私は今どこにいるのか?」とでも言おうか。

15歳になった娘にテレビ電話をするシーンがなければ、チープなインディペンデントSF映画だっただろう。

人生54年も生きていれば、いろんな所で「生きてきた私」が、まだそのあたりをウロチョロしているのだろうなぁ、と感じるのである。恥ずかしいけど、それも良し・・と。

SFファンであれば見るべし。

keep going

2010年03月31日 | 人生はメンタルだよな
自分が当たり前と思うことをやるだけで、できればそれが正しい事であって欲しいのである。
でも
私の当たり前は、他人の非常識だったりするw

(少し前のTwittから)


新年度が始まります。
学生にとっては、新しい学年ですね。また、一年がんばって欲しいと思います。
受験生の方は特にそう思います。

しかし、仕事をしている人にとっては、新年度といわれても昨日から今日も仕事は続いているわけですから、4月1日になったからといって何か代わることもなく、突然変っちゃたら困ることも多いでしょう。

これほどに、仕事環境が変わりつつある時代においては、Keep Going=そのまま行きなさいとは、絶え間のない変革を続けていくことだと思います。