大阪土佐堀川界隈

2009年09月24日 | 人生は旅である。
まとめて一気上げ。


八軒屋浜船着場:熊野街道はこの坂から始まります。


南天満公園:桜の季節は夜も良しです。


天神橋:オチタラコワイ・・・。


ラッキードラゴン:とてもラッキーには見えんのですが。


浮世小路:喫茶コマは昔のままです。


空車

秋:松茸ご飯:さんまの塩焼き:茄子の味噌汁。

2009年09月23日 | 人生は食である。
今年も秋のお彼岸が過ぎて、すっかりと秋になりました。

ということで、今夜の献立は、「松茸ご飯」「秋刀魚の塩焼き」「茄子の味噌汁」という「これぞ日本の秋の晩御飯」でございました。

諸外国の方々に「日本の味覚」として堂々と胸を張ってお出しできるものだと思います。

!薬臭いだけの妙なご飯。
!グロテスクといっても良い焦げた秋刀魚の、あろうことか内蔵を食するなんて。
!ふにゃふにゃになった茄子のこの食感はどうだ?

とんでもない食事として感じる方がいても私は全く気になりませんね。この味覚をもっている私が、幸せに感じることであります。

で、美味しくいただきました。ごちそうさまでした。


有田川ウインドファーム (和歌山県有田川町・海南市・有田市)

2009年09月22日 | 人生は旅である。
昨年も秋のお彼岸休みの頃に、あげました、和歌山県有田郡有田川町:千葉山の現在について報告をいたします。

昨年のエントリーに書きましたとおり、この千葉山(せんばやま)には、ユーラスエナジーの開発した風力発電機10基が稼動を始めています。9月29日に竣工式が執り行われるとのことです。

この場所は、下の写真にあるように北側に大きく広がる場所です。近畿地方は基本的に北西の風の吹く場所ですが、特に冬場には季節風を全身に受けて、最大効率の発電が期待されていることだと思います。

この有田川ウインドファームの経営母体がユーラスエナジーですが、東京電力株式会社: 60% / 豊田通商株式会社: 40% の会社です。

一方、この山から南へそれほど遠くない山に「広川明神山風力発電所」の16基の風車が見えますが、こちらは大阪ガス株式会社の100%子会社である株式会社ガスアンドパワーインベストメントと商社の双日株式会社が運営するもの。webサイトの説明によると「二酸化炭素削減量に換算しますと年間約3万トン」

二酸化炭素3万トンがどのくらいのものかを知るには、真夏に扇風機の前にドライアイスを1Kgほど置いて涼しくなってみるとわかると思います。(わからんか

いずれにしても、こうやって日本中に低CO2排出社会に向けての取り組みが進められているわけです。

この取り組みが成功するか否かの結論は、多分50年ほど先に出るのでしょうね。

絶対矛盾的自己同一にいたる道(その2)

2009年09月14日 | 人生はメンタルだよな
私は彼方(あなた)の中にしか存在し得ない、とすれば。

この世にあるものたちがすべて関係性の中にしかその存在を認識することが出来ないとしたら。関係性というもの自体が、何かと何かの関係性によってなりたたなければならない。関係性と関係性の無限に続く多重構造の中にこの世というものが存在しなければならない。そこでは、多重化した関係性の一つが破綻をすると、この世の中全体が無になる。
否、無も一と他の関係性の基盤にあるもの、すなわちこの世の中は「これ」「かれ」「無」の三値で構成されるものであるから、関係性が暗黒物質やエーテルのようにこの世に満たされていなければならない。
しかし、関係性の中に私とあなたがいるという世界観は、京都大学新宮教授がミニ講義で紹介された、『夢が私の記憶から来るものだというフロイト的世界観における「夢と現実の境界」問題』と同じく、自己喪失に至る可能性をはらんでいる。
人は、確固とした自己を保たなければ存在が無い。

といった、思惟の先にあるのかどうかは私にはわからないが、西田幾多郎は「絶対の他」という概念を提示している。

◎自己が自己において絶対の他を見ると考える時、我々の自己は死することによって生きるという意味を有し、他の人格を認めることによって自己が自己になる。私の根底に汝があり、汝の根底に私があるということができる。
◎自己の底に絶対の他を認めることによって、内から無媒介的に他に移り行くということは、単に無差別に自他合一するという意味ではない。かえって絶対の他を媒介にして汝と私が結合することでなければならない。
「松岡正剛の千夜千冊から」http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1086.html

私と彼方(あなた)が「絶対の他」として分別されるところに自己の確立を見ることができるのだし、彼方(あなた)を「絶対の他」と認識されるところに私と彼方(あなた)の関係性が明らかにされるのである。
そして、絶対的「絶対の他」としての存在に出会うとき、この世界に立っている私の生が輝き始めるのだと、私は思う。