私は彼方(あなた)の中にしか存在し得ない、とすれば。
この世にあるものたちがすべて関係性の中にしかその存在を認識することが出来ないとしたら。関係性というもの自体が、何かと何かの関係性によってなりたたなければならない。関係性と関係性の無限に続く多重構造の中にこの世というものが存在しなければならない。そこでは、多重化した関係性の一つが破綻をすると、この世の中全体が無になる。
否、無も一と他の関係性の基盤にあるもの、すなわちこの世の中は「これ」「かれ」「無」の三値で構成されるものであるから、関係性が暗黒物質やエーテルのようにこの世に満たされていなければならない。
しかし、関係性の中に私とあなたがいるという世界観は、京都大学新宮教授がミニ講義で紹介された、『夢が私の記憶から来るものだというフロイト的世界観における「夢と現実の境界」問題』と同じく、自己喪失に至る可能性をはらんでいる。
人は、確固とした自己を保たなければ存在が無い。
といった、思惟の先にあるのかどうかは私にはわからないが、西田幾多郎は「絶対の他」という概念を提示している。
◎自己が自己において絶対の他を見ると考える時、我々の自己は死することによって生きるという意味を有し、他の人格を認めることによって自己が自己になる。私の根底に汝があり、汝の根底に私があるということができる。
◎自己の底に絶対の他を認めることによって、内から無媒介的に他に移り行くということは、単に無差別に自他合一するという意味ではない。かえって絶対の他を媒介にして汝と私が結合することでなければならない。
「松岡正剛の千夜千冊から」http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1086.html
私と彼方(あなた)が「絶対の他」として分別されるところに自己の確立を見ることができるのだし、彼方(あなた)を「絶対の他」と認識されるところに私と彼方(あなた)の関係性が明らかにされるのである。
そして、絶対的「絶対の他」としての存在に出会うとき、この世界に立っている私の生が輝き始めるのだと、私は思う。