「説明責任を果たす」って、説明すべき情報のすべてを説明の受け手が知っているときに、その評価ができる。ということは、説明する必要がないので、「説明責任を果たす」行為は全くの時間の浪費行為となります。(だって、説明しなくても知ってるんだもの。)
要するに、「説明責任を果たす」とは、受け手に「こいつは嘘を付いてないだろうなあ」という気にさせる「高度な嘘」技術なんだと、私は思います。
人の行為やその結果を矛盾なく説明することは不可能なので、「嘘のない説明は」無い。仮にそんなものがあったとしたらそれは、「全くの嘘」だと思います。
accountability は元来財政的局面で使われる言葉だったそうで、
account-ability 「勘定出来てる」
要するに計算があってる、程度の感覚でしょうか?
企業のaccountabilityは、基本決算書が「計算合ってる」ことで、責任が果たされるわけで、そうでなければ粉飾となるでしょう。
社会的責任と説明責任を裏表のように捉えるのは違うような気がするのですが
どうでしょう?
要するに、「説明責任を果たす」とは、受け手に「こいつは嘘を付いてないだろうなあ」という気にさせる「高度な嘘」技術なんだと、私は思います。
人の行為やその結果を矛盾なく説明することは不可能なので、「嘘のない説明は」無い。仮にそんなものがあったとしたらそれは、「全くの嘘」だと思います。
accountability は元来財政的局面で使われる言葉だったそうで、
account-ability 「勘定出来てる」
要するに計算があってる、程度の感覚でしょうか?
企業のaccountabilityは、基本決算書が「計算合ってる」ことで、責任が果たされるわけで、そうでなければ粉飾となるでしょう。
社会的責任と説明責任を裏表のように捉えるのは違うような気がするのですが
どうでしょう?