和歌山:串本:海中展望塔:入道雲

2006年08月27日 | 人生は旅である。
さて、今年の夏は大きな入道雲をいくつも見た夏でした。
別にひと夏を南の島ですごした、なんていうことは無いのですが。お盆前後から近畿地方でも局地豪雨が降ったりして、被害にあった方には失礼ながら、きれいな入道雲がいくつも立つ夏だったように思います。

その中でもうまく写真に撮れたのがこちら、串本海中公園から見えた入道雲です。

こちらに向かってやってくるのは、海中公園の海中展望船"ステラマリス号"です。

え~。乗ったことはないのでどんな景色が見られるのか判りませんが、なにしろ串本の海はきれいですし、この海中公園は、国が指定する景観保護地域ですからそれはもう素敵な景色が見られることでしょう。

私は今回も海中展望塔から海の中の景色を楽しみました。展望塔の丸いまどから、クマノミとかチョウチョウウオなどの熱帯魚に混じって人間も見えたりします(がはは・・)。

このかたは、窓を掃除していた職員の方でした。

和歌山:太地:くじらの博物館

2006年08月23日 | 人生は旅である。
水族館や動物園がブームだといいます。
旭山動物園の努力で「行動展示」という動物や魚類を自然のままに見られるという展示方法が人気を集めています。

今回紹介いたします和歌山県は「太地町立くじらの博物館」はそういった自然の動物のありのままを見せるという水族館・動物園とは一線を画しています。

そこには、「鯨と人間の営みの歴史」があります。日本人もアメリカ人も"鯨"という動物を捕獲し生活の糧にしていたことを、さまざまな資料で見せてくれます。それはいうまでも無く、人間と自然のかかわりが歴史の重さとともに展示されているのです。

メインの画像は展示品のひとつであります、江戸時代の鯨絵巻の一部です。ほかに、さまざまなホルマリン漬けの鯨の内臓や、数多くの文献、骨格標本などが展示されています。

今今、「子猫殺し」が話題になっていますが、すべての「生」が他の「生」を踏み台にして在るという観点からすると、人間が多くの「生」を愛玩という名で無駄に消費しているということに対しての反省・警鐘という意味でその通りだなあと思います。

ここ、太地くじらの博物館には長い歴史の中で、日本人が鯨という「生」をいただいて生きてきたことを、見える形で展示してくれています。

外にある外海につながった入り江を利用した自然のプールには今年飼育20年のシャチの"なみちゃん"が、また~りと泳いでいます。一日に何度か写真のようなジャンプを見せますが、基本的にまた~りとしています。

太平洋を望む南紀にどうぞいらっしゃいませ。

人が死ぬということ

2006年08月18日 | 人生はメンタルだよな
こんな文章を紹介します。


人の世のはかないようすをよくよく考えてみますと、この世はまぼろしのような一生です。
(中略)
私が先か、人が先か、今日とも知れず明日とも知れず、人の命の尽きる後先は絶え間のないものです。
(中略)
無常の風に吹かれると、二つの眼はたちまちに閉じ、一つの息はながく絶えて、元気な顔もたちまち美しいすがたを失ってしまいます。そうなってしまえば、家族が集まって嘆き悲しんでも、どうしようもありません。
そのままにしてはおけないので、野辺のおくりをし、荼毘にふして煙となってしまうと、ただ白骨だけが残るのです。それはもう言葉にいい尽くせない悲しみです。


だから、だれも、「死ぬ」ということ、それは、とりもなおさず「生きる」ということを最も大事なことと心がけなければ、と思うのです。

そして、もう一つ。


老いも若きも関係なく、一日はだれにとっても等しく24時間です。一日生きるということは、だれにとっても等しく、一日「死」に近づくということです。これは、生まれたばかりの赤ちゃんも何十年生きてきた人も変わりません。これから生きる人とか、これから死んでいく人いうように、分けて考えることが出来ようはずがないのです。
 ですから、「死」について考えるのに早すぎる年齢などというものもなければ、将来に希望や夢を持つのに、遅すぎる年齢というのもありません。(大谷光真著:朝には紅顔ありて:角川書店 より)


死んでいった人と一緒に私は生きていくのだな、と強く、深く思う今日です。


どうぞ、どうぞ、お疲れが出ませんように。