せこがに

2006年11月11日 | 人生は食である。
別にお取り寄せしたわけではありませんが。

夕方、コープ神戸に刺身を買いに行ったら「新物」と書いて売っていました。私の住む阪神間から日本海側の蟹産地が近いからかもしれません。

セコガニとは、ズワイガニの雌蟹のことです。雄のズワイガニに比べ大きさや甲羅のサイズも小さく、一目でセコガニとわかる程その小ささは歴然です。甲羅は幅5cm程度でしょうか。

しかし、体内にある卵巣「内子」と、お腹の房にある「外子」がポイントで、この二つを甲羅の中の蟹味噌にからめていただくと誠に美味しい。

雄ズワイガニの足肉も当然美味しいのですが、せこがにの美味しさは格別でございます。

今日は日本列島全般にぐっと気温が下がってまいりました。

晩御飯は お鍋というご家庭も多いかと思いますが、せこがにを一杯,、お鍋に添えてはいかがでしょうか。

せこがについてはこちらをご参照ください。
食べ方はこちら

ともに、アフィリエイトではありません。


坂本竜馬の墓の写真:京都霊山護国神社

2006年11月05日 | 人生は旅である。
坂本龍馬は、慶応3年11月15日(1867年12月10日)に暗殺されましたが、その遺骨は高知には戻っていないらしい。何しろ、龍馬は高知を脱藩して、上京したのだからそれは仕方の無いことだろうと思われます。

で、坂本龍馬の墓は、京都は東山霊山の京都東山護国神社内にあります。
日本統一の演出者であり、明治維新の名プロデューサーである坂本龍馬が、そのほかの、明治維新にかかわり死んでいった明治政府側の志士たちの墓と一緒に静かにたたずんでいます。

京都東山護国神社は明治元年明治天皇の勅命によって作られた、日本初とも言われる"招魂社"です。招魂社の意味を考えると、御霊を招来して祀るということですから、本来墓基には遺骨・位牌などは無いはずです。しかし、坂本龍馬や、中岡慎太郎らの遺骨はこの墓の下に埋まっているという情報があります

いづれにしても、明治二年に創建された靖国神社、さらに太平洋戦争時に各地に存在した護国神社につながる、近代日本の宗教国家建設の歴史を示す施設の一つです。


地下路線の出口:神戸:阪急電鉄神戸線:三宮駅

2006年11月03日 | 地下路線の出口
神戸"さんのみや"駅は2種類あります。

阪急電鉄と阪神電鉄、神戸市営地下鉄などが「三宮」と表示するのに対して、JR西日本は「三ノ宮」と表記します。

ま、たいしたこと無いですが。

三宮があれば、一宮もある。そもそも、生田神社の裔神(えいしん)として、一宮神社から八宮神社までが建立されています。兵庫県信用組合のページに詳しいです。

さて、阪急電鉄は三宮を出てJR神戸線に沿って西にすすみ、JR元町の駅北側で地下路線に降りて行きます。しかし、写真でみても判るように降りていくというより、丘に突っ込んでいく感じですね。

厳密にいえば、阪急三宮から西側は神戸高速鉄道社路線となりますので、このページの表題は「神戸高速鉄道三宮駅」が正しいのですが、ま、SEOということで・・・。

神戸高速鉄道は、東の阪急・阪神、西の山陽電鉄、北の神戸電鉄をつなぐジョイント鉄道として大阪から播磨地方への中距離輸送を担う要になる鉄道として誕生したようです。しかし、今では、中距離輸送は、JR西日本が完全に担っていますし、市内の人員輸送も北に市営地下鉄西神・山手線、南に同 夢かもめ線が出来、その間を市バスがこまめに走り回っているので、高速神戸鉄道の重要度も微妙な状況になってきています。

私鉄間の相互乗り入れも、すでに阪急電鉄は西は新開地止まり、山陽電鉄も阪急三宮止まりと、共に神戸高速鉄道路線内までで、阪急-山陽間の相互乗り入れは解消されています。一方山陽-阪神は、姫路-阪神梅田間に直通特急が走っていますので、まだ、相互乗り入れしています。でも姫路から梅田までこの列車に乗る人はあまりいないと思われます。何しろ、運賃は1250円でJRの1450円より安いものの、時間は、1時間のJRより30分近く長くかかるのですから。

そんなこともあってか、阪急電鉄は、三宮の一つ東の駅春日野道から地下化してそのまま神戸市営地下鉄西神線につなげようという計画があるとのこと

いづれにしても、鉄道事業は百年先を見通してのものでないといけないようです。

地下路線の出口:大阪:大阪市営地下鉄御堂筋線:中津駅

2006年11月03日 | 地下路線の出口
日本で最初の地下鉄は、浅草~上野間2.2キロに東京地下鉄道株式会社が昭和2年に営業開始したものだということです
一方ここ、大阪市営地下鉄御堂筋線は、日本初の公営地下鉄として1933年(昭和8年)に開業したとのことです

この、御堂筋線は、1964年(昭和37年)東海道新幹線の開業に合わせて梅田から北へ中津、西中島南方、新大阪と延伸されました。中津駅を北に進んだすぐのところから地上へ現れて、新御堂筋とともに淀川を渡っていきます。

1970年の大阪万博にあわせてさらに北進し、千里中央まで、南方面は1987年(昭和62年)に南海電鉄高野線なかもず駅まで延びています。

御堂筋線の建設は、昭和初期の御堂筋拡幅工事とともに行われたのですが、当時の関市長の百年先を見るという先見の明が、道幅44mという当時としては無意味なまでに広い道路をつくり、近代になっても大阪市内は大きな道路工事もなく発展してきたと考えられます。

御堂筋線の梅田から天王寺までの各駅も当時としては意味もなく大きかったのだということは、1996年(平成8年)の10両編成化までの63年間ホーム延伸をしなくても運送量増大に対応できたことと、梅田駅増ホーム工事でも、新たなトンネルを掘ることなく、ホームを一本増やすことが出来たことにも見出すことが出来ます。

ちなみに、御堂筋線の車両は最初どうやって入れたか?

初めは、地下鉄トンネルの上に穴を開けて上から車両をそおっと下ろしたんですって。
車窓から見た景色